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タイトル身を飾る。
記事No1742
投稿日: 2012/11/16(Fri) 10:54:53
投稿者桃青
従兄(真宗)の寺から、送られてくる寺だより。
これは、あれだな。
と、解ることがある。

「私たちは凡夫であることを欲しない。
 常に何か(地位・名誉・お金etc)で飾ろうとする。
 そして、困ったことには、
 飾ったものを自分だと錯覚している。
 凡夫とは、飾っているものと
 自己の区別のついている人のことである。」渡辺晃純

上手いなあ〜。
元は「愛アラヤ」、マナ識、阿頼耶識かな?

タイトル家系で飾る。
記事No1744
投稿日: 2012/11/16(Fri) 12:12:17
投稿者桃青
と、真宗の渡辺晃師は言われておりますが、
真宗門徒さんあたりでよく出る話は、
「親鸞聖人はなんといっても京都の貴族の出だから、根性振る舞いが上品。
 日蓮は出が関東の猟師だから性根が下品。だから日蓮宗はなんとなく下品なところがある。」

熱心な真宗門徒の家に生まれた私は、子供のころから、大人たちがこのように言うのを聞いて育ちました。(笑)
子供の私は、大人たちが「親鸞聖人は貴族の子」というときの眼つきや雰囲気がなんともイヤでしたねー。

で、聖書ですが、マタイでは、最初にイエスの家系を延々と続けるところがありますね。
なーんだ、キリスト教って、「親鸞聖人は都会の貴族の子。日蓮は田舎の猟師の子。」というのと同じセンスのところがあるんだなー。って、ちょっとイヤな気がしました。
田川先生などは、このマタイの家系図を批判されていますけれど、クリスチャンには、この家系図を誇りに信仰されている人々はきっといるはずです。
その心は、「親鸞聖人は貴族の子」と同じようなものに違いありません。

某M教は、「身を飾りなさい。」「もっともっと身を飾りなさい。」だけで成り立っているような宗教です。
そういう教えの故なのか、某M教のかたは自慢が好きです。
皆さん、ほんのちょっとしたことでも、聞いているほうがあほらしくなるようなことでも、そんなのどこにでもあることだよーってことでも、自慢される。

身を飾るひとつが、「家系」ですね。
某M教では、「家系調べ」が重要な信仰活動です。
「モルモンの家には、必ずその家に伝わる聖書があるのです。」という証言に、聖書とはあの聖書だろうと思って、そうか、一冊の聖書を代々使っているのだな、と、聞いていたら、それはあの聖書のことではなく、その家の家系図と年代記をしるしたものでした。
モ○モン書自体がある家系の年代記のようなものですし、モ○モン書の冒頭で、ニーファイがラバンを神の命令によって殺して奪い返したのもそのようなものでした。
そのような某M教会の中には、あっちにもこっちにも「親鸞聖人は京都の貴族の子。日蓮は千葉の田舎の猟師の子」と似た思いが立ち上っていて、時にはうんざりさせられる。
某M教の方々はともすれば、すぐにこんな事を言いだされます。
「私の先祖は武士だ。士族だ。世が世ならば。」
(はぁ?士族?!いつの話?そもそも士族とは・・・以下略)
「私の家は14代続いた家だ。」
(だから、何?としか言えないし、家系図屋という商売もありますから、整然とした家系図があるほうがあやしいてこともありますよ。)

先祖自慢ねぇ〜。
自分の御先祖たちを大切にしたい。
たとえ、傍目には、どんなにみじめな境涯であっても。一生懸命生きた先祖たちが愛おしく、その懸命さを称賛したい。
という思いは誰でも同じなんじゃないですかねー。
自分の先祖の自慢話を聞かせている相手にもまた愛おしくてたまらない先祖がいるのですよね。
それに気が付けば、俺様的先祖自慢なんてとうていできることではない。
少なくとも私にはできません。

身を飾るもの。
それは某M教の場合、宗義として「先祖」。
「あなたの御先祖は?」と、某M教会員から尋ねらられた場合、「ああ、自分の御先祖の自慢をしたがっているのだな。」と、その意図を汲んで、「ん?ごく普通ですよ。」とでも、話を切り上げ、「あなたは?」と水を向けて話を聞くようにしたほうがよろしい。
間違っても「私の先祖はね、」と話しだすようなことはしないほうがよい。
話し始めたところで、「そんなのどこにでもある話だよ。」「たいしたことないね。」と遮られたり、話し終わった内容にはいっさいふれずに、「そーなんだ。うちはね。」待ってました!とばかりに話し始められたり、イヤな思いをすることになります。
某M教会員は、相手の先祖など興味はなく、ただ「あなたの先祖はなんてすばらしいのでしょう!」と、称賛されたいだけですから。(笑)
「身を飾りなさい。」という教えは、身の飾りを褒められたいだけのひともつくるようだ。

タイトルRe: 家系で飾る。
記事No1748
投稿日: 2012/11/17(Sat) 10:53:21
投稿者桃青
さて、「親鸞聖人は京都の貴族の子、日蓮は千葉の田舎漁師の子」の真宗門徒や、先祖一人一人に身代わりのバプティスマを受けさせるために、直系は勿論、傍系の傍系、そのまた傍系まで、たどれる限り調べるうちに、思いがけず有名人につながって飛び上がるほど嬉しくなる某M教会員ばかりが、先祖自慢が好きなのかと言えば、そういうことでもない。

「我はセンダラの子なり。」と、言われた日蓮聖人を祖と慕う日蓮門下だから、家系の飾りには興味がないかと言えば、そんなことはない。
日蓮門下の檀信徒さんも、「私の家はね、」というお話が大好きです。
日蓮系は「因縁を観ずる」が、元々の諸法実相の空を観じるの方向へは行かず、「先祖の行為が子供にこういう結果となって現れた。」という方向へ行ってしまいやすく、それがひいては先祖自慢と結びつきやすいのかな、と見ていますが、話をする御上人がたも、どちらかといえば「因縁」の説明を「先祖の行為が子孫にこういうかたちとなって現れる。」というスタイルで話されることが多いのも、信徒の「因縁」の理解をそっち方向へ向かせてしまう原因なのかな、とも思いますが・・・。

先祖自慢のあほらしさ。実例。
「○○家は昔から、このあたりでは名家と言われてきました。云々」

 はぁ?名家?代々小作で、戦後の土地解放で土地をもらった家のどこが、このあたりでは名家?
 と、在の者は本人以外は知っているが、親から聞かされて信じ込んでいる本人の顔を見れば気の毒で誰も本当のことを言わない。
そんなことで、コミュニティの人間関係を不快にもしたくないしね。
でも、陰では言い合って笑うのです。
さぞかし、その家の年代記には、「○○家は、××地方では、江戸時代から続く名家で地主であった。」とでもしっかり記録されて行くのでしょう。
先祖の記録に嬉しいことを見つけて喜んでいる某M教会員をはじめとするルーツ探しを生きがいとする皆さん!
先祖の書き残した年代記を見つけたといって喜んでばかりでいいのでしょうか?
実態は案外そんなものかもしれないですよ。(笑)

タイトル約束事て動く世界
記事No1750
投稿日: 2012/11/18(Sun) 12:28:20
投稿者桃青
さすがに話がうまいなあ。とは、思うものの、
これを阿頼耶識やマナ識、愛アラヤをまったく知らないままに聞いたら、どうなのだろう?
とも思う。

阿頼耶識、愛アラヤに関する硬い繊維質な説明を何とか消化しようとしているときに、こう言われると、「あ!」と何かがはじけることもあるだろう。

が、阿頼耶識や愛アラヤをまったく知らないでこれを聞くと、
「飾りでひとを判断してはいけない。」という道徳方向で捉えてしまいはしまいか?
確かに飾りで判断しないようにしよう、という心がけは大切ではあるが、それが道徳になってしまったとたん、それは飾りでひとを判断しているひとを「あれではいかんわな。」「あれは間違いだわな。」「飾りでひとを判断してはいないワシは、飾りでひとを判断しているあいつよりましだわな。」と、いうだけの話になってしまいがちだ。

それに、現実には、飾りといわれる「社会的に高い地位」「おカネ」「名誉」には、有頂天な喜びも楽しみもくっついてくる。
たとえ、次の瞬間に有頂天からまっさかさまに転げ落ちようとも、生きている間に一瞬でもそんな思いをしてみたい。
と、思うひとのほうが、転げ落ちることを恐れて、それらのものを手に入れるのはやめておこうというひとより、遥かに多いだろう。
なので、こういう説明だけに終始することは、
「言ってる本人がそれらの飾りで身を飾っているではないか。」
とか、身を飾っていない場合なら、
「なんだ負け犬の遠吠えか。」
という反発を引き出すことにもなる。

それでは、渡辺師も不本意であろう。

タイトルRe: 約束事て動く世界
記事No1751
投稿日: 2012/11/19(Mon) 11:20:31
投稿者桃青
私は、24で現在の仕事に見習いとして入り、30で独立するにあたって、業界の起業説明会に参加したのですが、
その説明会の冒頭で主任講師が開口一番言われた言葉に、「あ!そういうことなのか。」と、眼が開かれるような思いがした。

講師曰く。
「この仕事は約束事なのです。
おわかりですね。ですからみなさん!約束事に従って仕事してください。」

私は、途端、あ!世の中とはこの仕事ばかりでなく、全てがつまりはひとが恣意的に定めた約束事で成り立っているのだな。と解った。

ああ!そういうことなのだ。社会は約束事で成り立っている。
ひとはひとが恣意的に定めた仮の世界というか、取りあえずの世界を絶対の世界のようなふりをしてみせたり、絶対だと思い込んで右往左往しているのだ。

渡辺師が「身の飾り」という、地位も、カネも、名誉というものも、それらのものを重要とする約束事の上に成り立つ社会にあっては、
飾りそのものに価値が有るので、「飾りはそのひとそのものではない。」と、いくら言っても、飾りに価値が有るという約束事の世界に生きるひとには飾りの持ち主のことなどどうでもいいのです。
誰がもっていようと飾りは飾りそのものが値打ちがあるのですから。