タイトル | : 家系で飾る。 |
記事No | : 1744 |
投稿日 | : 2012/11/16(Fri) 12:12:17 |
投稿者 | : 桃青 |
と、真宗の渡辺晃師は言われておりますが、 真宗門徒さんあたりでよく出る話は、 「親鸞聖人はなんといっても京都の貴族の出だから、根性振る舞いが上品。 日蓮は出が関東の猟師だから性根が下品。だから日蓮宗はなんとなく下品なところがある。」
熱心な真宗門徒の家に生まれた私は、子供のころから、大人たちがこのように言うのを聞いて育ちました。(笑) 子供の私は、大人たちが「親鸞聖人は貴族の子」というときの眼つきや雰囲気がなんともイヤでしたねー。
で、聖書ですが、マタイでは、最初にイエスの家系を延々と続けるところがありますね。 なーんだ、キリスト教って、「親鸞聖人は都会の貴族の子。日蓮は田舎の猟師の子。」というのと同じセンスのところがあるんだなー。って、ちょっとイヤな気がしました。 田川先生などは、このマタイの家系図を批判されていますけれど、クリスチャンには、この家系図を誇りに信仰されている人々はきっといるはずです。 その心は、「親鸞聖人は貴族の子」と同じようなものに違いありません。
某M教は、「身を飾りなさい。」「もっともっと身を飾りなさい。」だけで成り立っているような宗教です。 そういう教えの故なのか、某M教のかたは自慢が好きです。 皆さん、ほんのちょっとしたことでも、聞いているほうがあほらしくなるようなことでも、そんなのどこにでもあることだよーってことでも、自慢される。
身を飾るひとつが、「家系」ですね。 某M教では、「家系調べ」が重要な信仰活動です。 「モルモンの家には、必ずその家に伝わる聖書があるのです。」という証言に、聖書とはあの聖書だろうと思って、そうか、一冊の聖書を代々使っているのだな、と、聞いていたら、それはあの聖書のことではなく、その家の家系図と年代記をしるしたものでした。 モ○モン書自体がある家系の年代記のようなものですし、モ○モン書の冒頭で、ニーファイがラバンを神の命令によって殺して奪い返したのもそのようなものでした。 そのような某M教会の中には、あっちにもこっちにも「親鸞聖人は京都の貴族の子。日蓮は千葉の田舎の猟師の子」と似た思いが立ち上っていて、時にはうんざりさせられる。 某M教の方々はともすれば、すぐにこんな事を言いだされます。 「私の先祖は武士だ。士族だ。世が世ならば。」 (はぁ?士族?!いつの話?そもそも士族とは・・・以下略) 「私の家は14代続いた家だ。」 (だから、何?としか言えないし、家系図屋という商売もありますから、整然とした家系図があるほうがあやしいてこともありますよ。)
先祖自慢ねぇ〜。 自分の御先祖たちを大切にしたい。 たとえ、傍目には、どんなにみじめな境涯であっても。一生懸命生きた先祖たちが愛おしく、その懸命さを称賛したい。 という思いは誰でも同じなんじゃないですかねー。 自分の先祖の自慢話を聞かせている相手にもまた愛おしくてたまらない先祖がいるのですよね。 それに気が付けば、俺様的先祖自慢なんてとうていできることではない。 少なくとも私にはできません。
身を飾るもの。 それは某M教の場合、宗義として「先祖」。 「あなたの御先祖は?」と、某M教会員から尋ねらられた場合、「ああ、自分の御先祖の自慢をしたがっているのだな。」と、その意図を汲んで、「ん?ごく普通ですよ。」とでも、話を切り上げ、「あなたは?」と水を向けて話を聞くようにしたほうがよろしい。 間違っても「私の先祖はね、」と話しだすようなことはしないほうがよい。 話し始めたところで、「そんなのどこにでもある話だよ。」「たいしたことないね。」と遮られたり、話し終わった内容にはいっさいふれずに、「そーなんだ。うちはね。」待ってました!とばかりに話し始められたり、イヤな思いをすることになります。 某M教会員は、相手の先祖など興味はなく、ただ「あなたの先祖はなんてすばらしいのでしょう!」と、称賛されたいだけですから。(笑) 「身を飾りなさい。」という教えは、身の飾りを褒められたいだけのひともつくるようだ。
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