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タイトル理解するということ
記事No1769
投稿日: 2012/11/28(Wed) 11:01:48
投稿者桃青
相手の主張を理解するということと、
相手の主張に賛同するということとは、
まったく違う次元の話である。

<相手の主張>←理解の対象として理解しようとする。
          ↓
        内容を理解した。
          ↓
        主張に賛同できる。
        主張に賛同できない。

学会の研究発表も、政党が打ち出す政策も、部下の遅刻の言い訳も、言っている内容を理解した上で、
「おっしゃる通り。」
「異議ありません。」
ともなるし
「ん?何か変だぞ。」
「明らかに嘘だぞ。」
ともなるだろう。

なのに、何故か「当方の言うことを理解したら、当方に賛同し、好意を持ってくれるはずだ。」
と、主張するひとが後を絶たない。
そういうひとは、必ず「当方の主張に賛成できないのは、相手が馬鹿なので、当方の主張を理解できないからだ。」
「最初から当方に悪意を持っているから、当方の言っていることが理解できないのだ。」
と、言いだす。

タイトル理解と尊重、
記事No1770
投稿日: 2012/11/28(Wed) 11:58:44
投稿者桃青
大学で教鞭をとる学者のかたが長年の研究対象について、その理解を求めるブログに発表された文章なので、そのまま出して考察の対象とさせていただこう。

「・・・本来、理解を深めるという理知的・好意的精神は、相手を尊重する姿勢があるはずである。しかし、いのちのことば社の冊子がこの本について、「違いを学ぶ」、「違いをまわりにしっかり伝える」ためにと紹介しているように、従来の批判本の域を出ていない印象を受けるのが、残念である。」

某M教と、プロテスタントについて、
違っている点を、違っていると書くと、それが某M教への批判になるのだろうか?

日頃「他の教会とは全く違う唯一真の教会。」であることをプライドとしておられるのに、他の教会が「某M教とプロテスタント教会の違うところ」を発表すると、「某M教会を尊重していない、某M教に対して好意を持っていない者の研究だ。」と、文句をつける。

某M教会はレッスン初期の段階から、折に触れて、このように繰り返す。
「某M教を知れば(理解すれば)、誰でも某M教教会員にならざるを得なくなる。」
「某M教を知って、某M教会員にならない者は(サタンとか邪悪とか、神に背く者とか、)である。」

これを繰り返し言われ続けるせいなのかどうか、某M教会員のかたは、殆ど全員
「某M教を理解したら、某M教会に対して好意的になるはずだ。」
と、思われているように見える。

相手の言わんとすることを理解することと、
相手の言うことに賛同できるか、どうかは、違う次元の話である。
相手を尊重することと、相手の主張に賛同できるかどうかは、違う次元の話である。

相手の云う事が理解できても、賛同できないこともあるし、
相手を尊重していても、相手の意見に賛同できないこともある。

半世紀近く学者として研究発表して来られたのなら、当然そんなことはよく御存知であろう。
と、思われるのだが・・・。

「相手の主張を理解する」と「相手を尊重する、相手に好意を持つ」は、同義ではないのだが、これを同義と捉えているひとは、某M教会員ばかりではない。
しかし、相手の主張を理解することと、相手を尊重し、相手に好意を持つこととは違う次元の話なのだ。
ということが解っていないと、何かについての論議など本当はできないのだ。

確信犯的なのか、無自覚的なのかは知らないが、
「相手の主張を理解すること」と、「相手を尊重すること、相手に好意を持つこと」を同義だと世間に吹聴してまわる人々に惑わされてはならない。

タイトルRe: 理解と尊重、
記事No1771
投稿日: 2012/11/28(Wed) 12:23:31
投稿者桃青
アメリカの某M教会本部は、他宗教への理解と尊重を示すために、
在米の神道、や、仏教宗門の人々を招いて、パフォーマンスを行わせる。
が、その解説には初歩的な誤りが多く(お祭り神輿を真宗の行事と紹介するように)、とうてい各宗教を理解しているとは思えない。
つまりは、「他宗教をこれこのように尊重してますよ。」という内外向けの宣伝に、神道も仏教宗門も利用しているのだろう。

余談ですが、何年か前の日蓮宗のハワイでの御祈祷の様子が、動画サイトにUPされているのを見て涙が出ました。
ショッピングセンターの中央広場、殆ど誰も足を止めていないガランとした空間に、響く太鼓と木しょう、木剣をふるっての御祈祷をくちゃくちゃとガムを噛みながら、退屈そうに二階の回廊から見下ろす白人のおばちゃん。
ショッピングセンターは、アラモアナショッピングセンターなら、確か、某M教がその経営に関わっていると聞いた記憶があります。
まさか、某M教から「某M教は他宗教にも理解あります。」宣伝のために招かれたんじゃないでしょうね?

タイトル某M教への拘り
記事No1772
投稿日: 2012/11/30(Fri) 07:37:21
投稿者修業者
> アメリカの某M教会本部は、他宗教への理解と尊重を示すために、・・・・。

桃青さんは、なぜここまで某M教に拘るのですか?
以前、掲示板などで某M教の方とやり取りをされていたことは、知っていますがちょっとしつっこいようですね。(笑)
もし、よろしければそのあたりの話を聞かせてください。

私は某M教を殆ど知りませんが、以前キリスト教を学ぶため某掲示板に参加していたとき、そこに参加されていた某M教の方から某M教の掲示板やブログを紹介して頂き、参照させてもらいました。またネットを検索して反某M教系のサイトや掲示板も覗きました。
誹謗・中傷を含む活発なやり取りがされていて、結構おもしろかったのですが、今では、殆どの掲示板が閉鎖されてしまいました。

タイトルRe: 某M教への拘り
記事No1774
投稿日: 2012/11/30(Fri) 11:02:55
投稿者桃青
> 桃青さんは、なぜここまで某M教に拘るのですか?

そうですねー。
何故でしょうねー。
私は「現存の某M教という組織」に対して拘っているのではなく、
某M教的なモノの見方、考え方が気になってしかたないのですよ。

例えば、「自己責任」の使われ方や、何事も「努力」と「忍耐」に帰結する考え方や、手に負えない相手に対して地道に問題解決の糸口を模索するのではなく、「手に追えない相手は抹消すれば問題解決する。」とだけしか考えられないとか。
手に負えない相手、気に入らない相手は、抹消すればよい。
というのは要は二者択一の考え方でもあるわけですが・・・。
そして、そう言った、某M教的モノの見方、考え方は、某M教内部だけにあるのではなく、どこにでもあるものです。
ああ、そんなモノの見方、考え方をしていると、解決できる問題もできなくなるのに、と、気になってしかたないのです。

一番気になるのは、「自分と自分の仲間だけ良くなればいいんだ。」という考え方ですね。
選民思想とか、部族信仰とか、どれだけ高尚かつ麗しい言葉で飾っても、それらの根底にあるのは、「自分と自分の仲間だけ良き思いをすればいい。」という思想です。

これも、某M教内ばかりでなく、世間にどこにでも見られる考え方ですが、こういう考え方が多数をしめているかぎりは、社会の諸々の問題は絶対に解決しないでしょう。

某M教の学者さんは、「某M教は中流以上に受け入れられる。」
とか、「中国で某M教の集会に集まる中国人は富裕層の知識人ばかりである。」
とか、いわれますが、それはもしかしたら「自分と自分の家族だけは良い思いをしたい!」という願いの強い人が、そういう思いでがむしゃらに頑張って富裕層になり、某M教の教えがそういうかたがたのメンタリティにぴったんこだからなのじゃないか、と、思いたくなります。
(笑)