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タイトル死の迎え方
記事No1773
投稿日: 2012/11/30(Fri) 07:49:32
投稿者修業者
私は65歳まで何とか健康に生きたし、社会にも家族にもそれなりの義務を果たしてきたと思っています。
記事No.1707で書いたような理想的な死に方ができなかった場合、どのような死の迎え方をすればよいのでしょうか。

もし人間ドックの検査でガンが見つかり、医師から放置すれば余命5ヶ月、手術と最新のガン治療をすれば回復の可能性があります。と告知されたら、私は迷わず前者を選び、肉体的苦痛を和らげる治療だけをお願いし、身辺整理に入ります。

死を目前に控えたら、死という最終結果を謙虚に受諾する覚悟が必要になります。
覚悟ができないと、罪もない周りの人に怒り狂ったように当り散らし、あるいは愚痴をこぼしたり、憤激して自らの見苦しさを暴露することになってしまいます。

私は唯物論の思考が強いので、霊魂やあの世の存在は信じていませんし、宗教の信仰もありません。
ただ死の迎え方については、今まで学んできた仏教の教えがとても役立つと思っています。

四法印に「一切皆苦」があります。
苦とは「自分の思い通りにならない」ということです。
「生」「老」「病」「死」を四苦といいます。

生まれてきたこと。これは自分で選択の余地はありません。
老いること。これもどうしようもありません。
病むこと。事故などで病まずに死んでしまう場合もありますが、好きで病気になる人はいないでしょう。
死ぬこと。すべての人に必ずおとずれます。

四苦は自分ではどうにもならないことなのです。それなのに、どうにかしたい、どうにかしよう、と思うと文字通りの「苦」になってしまいます。
それにしてもどうして世の中は、これほどまでに思い通りにならないことばかりなのでしょうか。
それは「諸行無常」、すべての存在やあらゆる現象は生じ変化しそして滅するからです。
だから自分ではどうしようもないことばかりなのです。
「諸行無常」を正しく認識し、「何事も自分の思い通りにはならない」ということを受け入れることが大切なのです。

タイトルRe: 死の迎え方
記事No1775
投稿日: 2012/11/30(Fri) 17:44:07
投稿者桃青
> 私は65歳まで何とか健康に生きたし、社会にも家族にもそれなりの義務を果たしてきたと思っています。
> 記事No.1707で書いたような理想的な死に方ができなかった場合、どのような死の迎え方をすればよいのでしょうか。
>
> もし人間ドックの検査でガンが見つかり、医師から放置すれば余命5ヶ月、手術と最新のガン治療をすれば回復の可能性があります。と告知されたら、私は迷わず前者を選び、肉体的苦痛を和らげる治療だけをお願いし、身辺整理に入ります。
>
> 死を目前に控えたら、死という最終結果を謙虚に受諾する覚悟が必要になります。

叔父は、ガンでなくなりましたが、その最後は、修業者さんが書いてくださった通りのものでした。
当時は、ただ「叔父らしい最後だなあ。」と、思っただけでしたが、今は叔父の死に対しての不安も、一生懸命さも、分かるような気がするのですよ。
伯父、伯母の何人かと父を見送りましたが、この叔父以外には用意万端至れり尽くせりの身辺整理して行った者はおりません。
まだ何かする時間を残した余命を告げられたのが、この叔父だけだったからかもしれません。

> 覚悟ができないと、罪もない周りの人に怒り狂ったように当り散らし、あるいは愚痴をこぼしたり、憤激して自らの見苦しさを暴露することになってしまいます。
>

これは、母の姿です。
ただし、当たられる私に、当たられるだけの罪が無いかといえば、微妙なところがあります。(笑)
誰もが好んでなりたいとは思わない姿で、最晩年を過ごすことになった母の不安も一生懸命さも、用意万端整えて行った叔父のそれとそう変わらないのではないかと、思われるのですよ。


> 私は唯物論の思考が強いので、霊魂やあの世の存在は信じていませんし、宗教の信仰もありません。

そんな修業者さんに、今週号の「週刊文春」に載っていたメイウェストの言葉を御紹介させてください。

「人生は一度きり。でもしっかり生きれば一度で充分」

この言葉って、「ああ、本当に、そういうものなんだろうなー!」って思いません?
「あなたのポケットに入っているのは拳銃?それとも私に会えてうれしいの?」
というジョークを飛ばす口で、こんなことも言ったメイウェストさんがちょっと好きになってしまった、な。

タイトルRe^2: 死の迎え方
記事No1778
投稿日: 2012/12/01(Sat) 10:23:39
投稿者修業者
> 誰もが好んでなりたいとは思わない姿で、最晩年を過ごすことになった母の不安も・・・。

桃青さん、お母上様のご介護のご苦労お察しします。
私の祖父母、両親とも認知症にならずに逝ったので、認知症という病をよく知りません。ご本人は病に苦しんでいるのでしょうか?それともまったく訳けも分らず苦しみなどないのでしょうか?

> 「人生は一度きり。でもしっかり生きれば一度で充分」

ありがとうございます。素晴らしい言葉ですね。

昨年、現役のとき勤務していた会社の元上司が東京駅で脳溢血で倒れました。
かなり重症で、意識は戻ったのですが後遺症が重く、家族の顔もよく見分けられないそうです。
現在、息子さん夫婦が引き取り、有料の施設に入っていますが、3ヶ月以上いるとリハビリ回数が半分以下になるとのことで、施設を転々としているそうです。

認知症にしろ脳溢血にしろ脳の病は死期が見えないうえ、家族に辛い介護の苦労と多大な金銭面の負担をかけるので、ある意味ではガンより始末が悪いですね。

タイトルRe^3: 死の迎え方
記事No1780
投稿日: 2012/12/02(Sun) 23:37:58
投稿者桃青
> 桃青さん、お母上様のご介護のご苦労お察しします。

ありがとうございます。
母の介護をはじめて、4年目に入ろうとしています。
介護度は4になりました。
振り返ってみれば、介護度2くらいのころが、母も私も一番葛藤がありました。
一時は険しい顔をしていた母も、今は、穏やかな顔をしていることが多くなりました。
ずっとこのままなら、いいのにと思うのですが、此処で留まるということはないので、またそのうち越えなければならない山はくるのでしょう。

> 私の祖父母、両親とも認知症にならずに逝ったので、認知症という病をよく知りません。ご本人は病に苦しんでいるのでしょうか?それともまったく訳けも分らず苦しみなどないのでしょうか?
>

そのあたりはよくわかりませんが、
本人が苦しみを訴えるということはありません。
母は、狭心症だったのですが、「ストレスが無くなったので狭心症の症状は、もう出ていない無いだろう。」
と、主治医は言われます。
プライベートで付き合いのある他の医者にも尋ねてみたのですが、やっぱり認知症になると狭心症でなくなるそうです。
悪いことにも、何かしら良いことはあるものですね。
ただ、医者は大体が「空観」のひとが多いので、プライベートでオフレコとなると、
「狭心症であっさり逝ったほうが、家族は楽なんだけれど、これから長いよ〜。残念だね〜。」
なんて言うのですよ。
そんなこと言われたら、返事のしようがないじゃないですか。(笑)

> 昨年、現役のとき勤務していた会社の元上司が東京駅で脳溢血で倒れました。
> かなり重症で、意識は戻ったのですが後遺症が重く、家族の顔もよく見分けられないそうです。
> 現在、息子さん夫婦が引き取り、有料の施設に入っていますが、3ヶ月以上いるとリハビリ回数が半分以下になるとのことで、施設を転々としているそうです。
>

脳溢血から認知症になる例も多いようですが、認知症にならなければ、気長にリハビリすれば回復される例もこれまた多いようですね。

> 認知症にしろ脳溢血にしろ脳の病は死期が見えないうえ、家族に辛い介護の苦労と多大な金銭面の負担をかけるので、ある意味ではガンより始末が悪いですね。

現在は介護保険がありますので、なんとか介護できますが、
母のような認知症のかたは現在、350万人。
これから団塊の世代が老人になるともっと増えると予測されています。
このままでは、介護保険制度が保てなくなるのではないか、と、介護の現場の方々は心配されています。

ガンなら叔父や修業者さんのように「延命処置は拒否します。緩和ケアだけしてください。」と、意思表示もできるし、意思表示がなくても、阿吽の呼吸で「自然にやさしく」ということも可能でしょうが・・・。
認知症は、施設へ入ったほうがケアが行きとどくので、長生きするとケアマネさんは言われます。
「認知症で施設へ入って、10年、15年。90歳以上は当たり前、100歳を超えたひとも珍しくない。みんな元気よ〜。ぴんぴんしてるわよ〜。」と聞くと、認知症の老人で埋め尽くされた日本の将来の姿が目に浮かぶ。
いや、ほんと、どうなるのでしょう。

食べて、排泄して、食べて排泄して、食べて排泄して、
毎日毎日、ただそれだけ。
誰かに世話されなければ、食べることもできなければ、たちまち垂れ流された大小便の中にいることになる。
そんな姿で、10年15年を生きるのですよ。
自分がそうなら、と思うと、耐えられません。
ボケる前に死ねたらいいな。

タイトルRe: 死の迎え方
記事No1776
投稿日: 2012/12/01(Sat) 00:15:24
投稿者桃青
>
> それにしてもどうして世の中は、これほどまでに思い通りにならないことばかりなのでしょうか。
> それは「諸行無常」、すべての存在やあらゆる現象は生じ変化しそして滅するからです。
> だから自分ではどうしようもないことばかりなのです。
> 「諸行無常」を正しく認識し、「何事も自分の思い通りにはならない」ということを受け入れることが大切なのです。

「苦」については、いろいろな解説がありますが、私は
スマナサーラ師の
「宇宙のすべては不完全であること、生命はただの不満の流れであること、だから常に変化していること。ゆえに結局空しい存在であること。それらすべてをまとめて dukkha(ドゥッカ)と言っているのです。」
に一番理解を助けられました。

ああ、そうなのだ、あるのは、ただ、満たされよう、満たされよう、満たしたい、満たしたい、という流れなのだ。
そういうことなのか!
と、なんだかとっても気持ちが楽になったのですよ。
修業者さんは、どう思われるかはわかりませんが。

タイトルRe^2: 死の迎え方
記事No1779
投稿日: 2012/12/01(Sat) 10:28:24
投稿者修業者
> スマナサーラ師の
「宇宙のすべては不完全であること、・・・<略>・・・。
> 修業者さんは、どう思われるかはわかりませんが。

原始仏教やテーラワーダ仏教の重要な言葉ですね。
ドゥッカは苦を意味します。それは四聖諦一番目の苦聖諦の苦であり、四苦八苦の苦でもあり輪廻する生存の苦でもあります。
仏教の根底にあるキーコンセプトで、お釈迦様の教えは、いかにしてこのドゥッカから脱却するか、という事に尽きるのだと思います。

タイトルRe^3: 死の迎え方
記事No1782
投稿日: 2012/12/03(Mon) 00:13:58
投稿者桃青
> 仏教の根底にあるキーコンセプトで、お釈迦様の教えは、いかにしてこのドゥッカから脱却するか、という事に尽きるのだと思います。

輪廻から解脱はできても、ドゥッカから脱却はできないですよー。

ドゥッカは本質ですから、ただ知るものなのでしょう。
暗い部屋を明かりで照らせば明るい部屋になる。
明かりで照らしたからといって、部屋の様子が変わったわけではない。
真理を知るとは、暗い部屋を明かりで照らすようなものです。
とね。

苦を滅するの滅するは、サンスクリットではコントロール(制御)する。の意だそうです。
日本語で「苦を滅する」と聞くと、なんとなく苦そのものが無くなってしまうように考えがちですが、そうではありません。
苦を滅するとは、苦をコントロールするであり、仏教は真理である不満の流れをもコントロールする方法がある。と、説くわけです。

「競争原理」を説き、「神は人間を争うようにお造りになったので、戦争はなくならない。」と教える某M教は、人間のある一面だけしか見ない偏見の教えです。
確かに人間には、そういう一面が現れることはありますが、それが人間の全てかと言えば、そうではない。
でも、そういう一面強調の教えやモノの見方がカネの力で国政をも動かす層ばかりでなく、それら一部の者に翻弄される層にも受け入れられて「しょせん、この世は弱肉強食、食うか食われるかだ!」と、うそぶくひとが後を絶ちません。
残念でたまりません。

タイトルRe: 死の迎え方
記事No1777
投稿日: 2012/12/01(Sat) 07:06:16
投稿者修業者
> 私は迷わず前者を選び、肉体的苦痛を和らげる治療だけをお願いし、身辺整理に入ります。

とはいえ、現実にそうなったら、凡夫の私ははじめはジタバタすると思います。だって、死は怖いですからね。
でも、身体が段々衰弱して死期が迫ってくると死を受け入れられるようになると思います。
延命治療などは拒否し、最後は医師や看護師、家族になるべく迷惑をかけず、静かに逝きたいです。

権力を握った裕福層の人の多くは、本人や家族が死をどうしても受け入れられず、有名病院の特別個室に入り、有名医を指名し、最後まで最高度の治療を要求するそうです。
そして最後は、枯れ木のようにやせ細り、頭髪が抜け身体が黒ズミ、鼻をはじめアチコチにチューブを挿入され、「痛い、苦しい、死にたくない」といって暴れ、のたうちまわって死んでいくそうです。
政治家や大企業の経営者、良家の子息などに見苦し死にざまが多いようです。

タイトルRe^2: 死の迎え方
記事No1781
投稿日: 2012/12/03(Mon) 00:02:20
投稿者桃青
> 政治家や大企業の経営者、良家の子息などに見苦し死にざまが多いようです。

そりゃねー。
今世が、思うがままに楽しんだ、ディズニーランドか人生ゲームで遊んでいるような世界だったからじゃないですか?
まだまだ遊んでいたいのに、と、名残惜しく駄々をこねるのも解るような気がします。