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タイトル手紙:認知症の人の心
記事No1787
投稿日: 2012/12/06(Thu) 22:55:00
投稿者桃青
「手紙」という歌が紹介されていました。

これが認知症の人の心に近いのではないだろうか、と言うのですが・・・。

==============================

手紙〜親愛なる子供たちへ

年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解してほしい 

私が服の上に食べ物を
こぼしても 靴紐を結び忘れても あなたと話す時 同じ話を何度も何度も
繰り返しても その結末をどうかさえぎらずに うなずいて欲しい

あなたにせがまれて 繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも 私の心を平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ 
消え去ってゆくようにように 見える私の心へと
励ましのまなざしを 向けて欲しい

楽しいひと時に 
私が思わず下着をぬらしてしまったり 
お風呂に入るのを嫌がる時には 思い出して欲しい 

あなたを 追い回し 何度も着替えさせたり
様々な理由をつけて 嫌がるあなたと お風呂に入った懐かしい日の事を

悲しい事ではないんだ 
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて 欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない

足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったら

あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのは辛い事だけど
私を理解して支えてくれる心だけを 持っていて欲しい

きっとそれだけで それだけで私には勇気が湧いてくるのです

あなたの人生の始まりに 私がしっかりと付き添ったように
私の人生の 終わりに少しだけ付き添って欲しい

あなたが 生まれてくれた事で私が受けた 多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を 持って笑顔で答えたい

   私の子供たちへ
   愛する子供たちへ・・・・

==============================
この歌の受け止め方はたぶんひとにより様々あるでしょうが、
ただ、母を見ていると、確かに「母は、この歌のように思っているんじゃないだろうか?」
と、思われるところはあるなあ、と思います。
全部がそうだというのではなく、ところどころですが。

この歌を読んで、「なんて愛しいお父さん、お母さん。」と思うか、
「愛して育てたのだから、面倒見ろとはなんて押しつけがましい。」と思うか、
御住職は、「子供に丁寧に面倒見てもらえるかどうかは、それまでの親子関係による。」と、言われますが、
同じかたでも、その時の状況によって、思いは変わるのだろうなぁと思います。

認知症の親の介護をされているかたで、この歌を「じーんと来る。」と、言われるかたでも、毎月定期的にデイサービス、ショートステイやロングステイを利用されて御自分の心と体を休めておられます。
どんなにこの歌に「じーん」と来ても、「そのように愛してくださったのだもの、今度は24時間、私が一人で面倒みるわ。」と言われるかたは皆無です。
もし、介護保険が無く、そのような施設を利用したくても、経済的に不可能で、24時間、認知症の親の傍にいなくてはならなかったら、「じーんと来る。」と言う心の余裕は保てないのではないでしょうか。

御住職の言われるように、「老いて子供から丁寧に見てもらえるかどうかは、それまでの親子関係による。」ばかりでなく、子供の心の余裕も関係する部分もあるのではないかと思います。

実親や義理親の介護をどんなにこぼしていたかたでも、イザ、お別れとなると慌てふためくし、亡くなれば良いことばかりを思いだして懐かしがられる。
ここでも心は絶え間なく変わるのです。

タイトル杜子春の母
記事No1788
投稿日: 2012/12/06(Thu) 23:28:12
投稿者桃青
私が長いこと世の親、特に母親に対して抱いていたイメージは
芥川龍之介の「杜子春」の母でした。
自分は馬になって肉が破れるほどにムチうたれながら、
「お前が黙っていたいのなら、黙っておいで」と囁くあの姿ですね。
読むたび、思いだすたびに、涙がこぼれましたし、
私の子供時代は、どちらを向いても母とはそういうものだ。
と思わせるような情報に満ちていましたので、なんとなく親とはそういう有り難いものなのだ、ずっと思っていました。

その思いは今も変わりませんし、母も認知症になるまでは間違いなく杜子春の母だった、と思います。
ただ、認知症になった母を見ていると、そういう部分はすっかりなくなり、もっとなんというか、原初な思いで生きているように見えます。
その思いとは一言で言えば
「私はとても不安なの。私に優しくして。」
でしょうか・・・。
こういう場合、夫婦のほうが、ぎゅっと抱きしめるなり、なんなり不安を和らげることは、簡単じゃないかと思うのですが、
さすがに親をぎゅっと抱きしめるのは、抵抗があるなあ。
手をぎゅっと握るくらいがせいぜいです。
ああ、でも杜氏春は、馬のお母さんに駆け寄って抱きしめたのですね。

タイトル杜子春の母たち
記事No1789
投稿日: 2012/12/07(Fri) 11:14:14
投稿者桃青
この歌の母は、なんだか
「だから私に○○して欲しい」ばかり言ってますね。
この歌はポルトガルで生まれたそうですが、ポルトガルの母は、そういうものなんでしょうか?

杜子春の母なら、おそらく「だから私に○○して欲しい。」とはひとことも言わずただ「お前に苦労かけてごめんね。」と、言うのではないだろうか。

私の周囲の人々(知人、近所のひと、介護のヘルパーさんなどなど)の中には「こんな負担は私の子供にはかけたくない。」と、言われるかたもあれば
「私のことは私の子供が見てくれて当然。」と、言わないまでも、話の内容が、「子供が面倒見てくれる」ことを前提として終始するかたもおられます。
言わば、上が杜子春の母なら、下はポルトガルの母ですね。
割合的には、どちらかというと後者のほうが多いように感じます。
あくまでも私の周囲では、ですが。
私は、「こんな負担は、私でたくさん、子供にはこんな思いをさせたくない。」です。
母も認知症になる前は、そうだったんじゃないかと思います。

でも、認知症になった今は「○○して欲しい。」のポルトガルの母になりました。

タイトルRe: 杜子春の母たち
記事No1790
投稿日: 2012/12/07(Fri) 19:17:53
投稿者桃青
さて、此処で悩ましい問題がある。

「子供には介護の苦労をかけたくない。」母と、
「子供に介護してもらいたい。」母と、
どちらが、迷惑な存在なのだろう。

我が子を介護の苦痛から解放するということは、他の誰かにその苦痛を引きうけて貰うということでもある。
国家の負担、つまりは皆の負担になるでしょう。
その代り、介護に労力と時間をとられないぶん子供は、働いて税金をおさめるでしょう。
我が子に面倒見て貰えば、我が子は負担にあえぎますが、国家に負担をかける割合は、けなげな杜氏春の母よりは、なんだか少なそうだ。
しかし、介護に時間と労力をとられた子供は思うように働けず納める税金も少なくなるでしょう。
どちらが国家や社会にとっては良い親子なのでしょうね。

タイトルRe^2: 杜子春の母たち
記事No1791
投稿日: 2012/12/08(Sat) 13:28:13
投稿者桃青
介護は誰がどのように担うのか。
例えば、現在認知症介護に一人当たり月50万円ほど費用がかかると計算されている。
一人、月50万円と聞くと大きいような気がするが、現在介護にあたっている私から見ると、当たらずとも遠からじという数字だ。
我が家の母に関する金額が、これより少ないのは、そのうちの30万円ほどを介護保険を利用しているのと、在宅だからだろう。

「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おつしや)つても、言ひたくないことは黙つておいで。」

と、囁いた杜氏春の母のように
「働き盛りのお前の邪魔はしたくない。私の面倒などみていないで、好きなことを精一杯存分におやり。
お前が楽しく生き生きとしたら、私も嬉しいのだからね。」
と、我が子供に介護の苦労をかけないことを願う母で、毎月50万円を負担できるひとはどれだけいるだろう。
親の介護を誰かにすっかり全部委ねて、精一杯働く子供のほうも、税金と介護保険料を合わせて毎月50万円払うひとはどれだけいるだろう。

>「あなたの人生の始まりに 私がしっかりと付き添ったように
>私の人生の 終わりに少しだけ付き添って欲しい」

と、ポルトガルの母が歌うように、
自宅で子供が介護してくれることを願い、子供もそれに応えようとすると、家庭の中に常時、最低一人は専属の介護人がいないと、認知症の介護はできません。
介護人には、気が抜ける時間というものが全くなくなります。
歌は「終わりに少しだけ」と詠いますが、5年、7年、10年、15年・・・「少しだけ」とはいえない年月です。

>「様々な理由をつけて 嫌がるあなたと お風呂に入った懐かしい日の事を」

赤ちゃんが世話を嫌がって振り払ったり、パンチしたりしても、たかがしれていますが、呆け老人が振り払ったりパンチしてきたら、避けないと介護人が怪我することもあります。
周辺症状としての暴言、暴力に疲れてヘルパーが辞めて行くことは珍しくありませんが、家族は暴言を吐かれても、暴力を受けても家族であることを辞められません。

>「楽しいひと時に 
>私が思わず下着をぬらしてしまったり 

・・・毎日、起きている間は2時間おきに、夜間に一度トイレ誘導し、リハビリパンツが濡れていれば履き替えさせるが、濡れていなければ出るまで待つ。
そのようにしていても、気が付いたら足元に水たまりができていることもあれば、背中までウンチがべったりついていることもある。
時には、トイレでリハパンとズボンを下した途端に、じゃーっ、ぶりぶりーっとほとばしって、あたり一面・・・ということもある。

そういうことは赤ちゃんでもありますが、その量は、赤ちゃんとは比べ物にならないくらい多量なんですよ。
(赤ちゃんだった子供のぷりぷりで可愛いお尻の世話を一年してあげたのだから、今度は私のシワシワで醜いお尻の御世話を何年も何年もしてね。
とは、私は、とても歌えません。)

それでも、私はこの歌にじんと来ます。
あんなに元気に、子供に向かって「私についてらっしゃい!私があなたを守ってあげるんだから!」と、胸を張っていたお母さんが、
そう詠わざるをえなくなったということに対してです。


話は、ずれましたが、
言いたかったのは、どんなに「お母さんが私を守ってくれた、だから今度は私が守るんだ。」と、決意しても、限界がある。
ということです。
介護の問題を解決するものは、どちらを向いても「オカネ」に帰結します。
もし、個人でそのオカネを用意できたら、
「国にも、子供にも迷惑をかけない。」ということは可能かもしれません。
しかし、そんな莫大なカネを用意できるひとはどれだけいるのでしょう。

社会のカネの配分を決める政治にとっては、「自分のことは自分でする。」「家族のことは家族でなんとかします。」という人が多いほうが、都合がいいのかな、とも思います。

「全ては自己責任」が通念となっている社会では、
介護のカネがない。という者に対しては
「介護のカネを個人で用意できているひともいるのに、用意できなかったのは、あなたの努力が足りなかったから、でしょ!」
と、いう言葉が湧きおこるでしょう。

頼れる家族がいない。という者には
「は?面倒見てくれる家族がいない?
そりゃ、家族をつくって来なかったあなたの自己責任でしょう。」
という声が湧きおこるでしょう。
政治はその声に「そうだ、そうだ」と和しているだけでよい。

実際、「選びの結果」「自己責任」を宗義とする某M教会内では、これに類した言葉が、飛び交っている。

タイトル選びの結果、自己責任という思想
記事No1793
投稿日: 2012/12/10(Mon) 11:42:34
投稿者桃青
さて、某M教は、世界中に「選びの結果」「自己責任」という思想を宣教して回っているが、別に某M教の宣教を受けなくても、どこでどう思いついたのか、耳にしたのか、眼にしたのか
「選びの結果」「自己責任」を言いたてる者は珍しくない。

さて、
*その者が受ける結果は、全てその者の選びによって決まる。
というのは真理なのだろうか?

某M教会員はこんな論法を得意とする。
「私がお前を攻撃するのは、お前が私に攻撃されるようなことをしたからだ。全てはお前の選択の結果だ。選択の結果は受けなければならないのだ。」
まるで、DV夫のセリフのようだ。と、笑っている場合ではない。
この論法にはまるが故に、DV夫の妻は「殴られるのは私が悪いからだ。」と、夫の暴力に抵抗できなくなるのだ。

しかし、某M教会員から攻撃を受けるのは、全て攻撃を受ける側の選びの結果なのだろうか?
この場合、某M教会員には、少なくとも「攻撃する」と「攻撃しない。」という二つの選択肢があり、「攻撃する」を選択したのであるから、攻撃される側から見れば、某M教会員の「選択の結果」を受けて攻撃されているということになる。

このように、現実世界は、自分の「選びの結果」を自分が受けるということもあるし、他人の選択の結果を受けることもある。
という世界である。というのが真実なのだ。

タイトル選びの結果と認知症
記事No1794
投稿日: 2012/12/11(Tue) 11:50:01
投稿者桃青
あるひとが認知症になるのは、そのひとの「選びの結果」なのだろうか?
母は、人生の場面、場面、あるいは、日々の生活の中で、様々に選びを重ねてきたその集大成として認知症になったのだろうか?

「そのひとが受ける結果は、そのひとの選びによる。」
を真理真実と教える某M教では、当然、母が認知症になったのは、母の選択の結果ということになる。
ちなみに某M教にあっては、地震災害に遇うのもそのひとの選びの結果、日本の有様が今現在このようであるのは、(某M教徒以外の)日本人の選びの結果、ついでに原爆を落とされたのも(某M教徒以外の)日本人の選びの結果だと漠然と思っている。
問い詰めれば、相手の剣幕に驚いて「たとえ教えはそうでも、私はそうは思っていません。」などと、あわててその場逃れに言うが、外部の眼が届かない自分達だけの集まりの場だと思えるようなところではそのように言う。
その場の雰囲気に合わせて、自分の立場が良くなるようにウソでもなんでも言うという姿勢は、先の大統領選で「時々で自分の都合のよいように立場を変える」と評された某M教徒の候補者ばかりではない。
そして、そのような姿勢のひとは、某M教徒ばかりに見られるのではなく、どこにでもいる。

(某M教の元大統領候補氏が時々で主張を変えることに対して、アメリカ国内では不信感をもつ者もいたが、某M教会内で自他共に知識人を認ずる人々は「物事に対して柔軟に対処できることは素晴らしい。その柔軟さこそが某M教の真骨頂だ。その柔軟さが日本人にも欲しい。」と称賛している。
日本人的感覚だと、そのように軸足を時々でコロコロと変えるひとは、あいつはすぐにブレるとか、言ってることに信用が置けない。とか、不信感を持たれるのが普通だ。
いや、アメリカ国内にも、ロ氏は軸足が変わる、と批判するひともいたぞなもし?)


認知症になるのも、家族が認知症になるのも、全ては、そのひとの選びの結果だというように、
つまり、「あのひとは私とは全く関係ない別の世界の出来事の中にいる。」
と、漠然と思っているひとは、某M教会内ばかりでなく、どこにでもいる。
そういうひとは、例えば、仏教の因縁の説明を聞いても、聞いた途端、瞬時に
「なるほど、認知症になったのは、そのひとの作って来た因縁によるのだな。私は、あのひとのようには生きて来なかったので、私の因縁とあのひとの因縁は違う。
だから私は認知症にはならないわ。ああ、良かった!」
と、ほっとするのだ。

タイトル none of my business
記事No1795
投稿日: 2012/12/13(Thu) 10:17:58
投稿者桃青
ひとが「選択の結果」「自己責任」を前振りに話しだすことや為す行動は何故か、他を冷たく切り捨てるようなことばかりだ。

例は、数限りが無いので省くが。

何故なのか、考えてみた。
結局、「選択の結果」とか「自己責任」を持ちだしたがるひとの心の根底にあるのは

none of my business

という思いなのだろう。

タイトル他業、自業、他得、自得、そしてその先
記事No1796
投稿日: 2012/12/14(Fri) 10:34:55
投稿者桃青
某M教会の説くように、あるいは、某M教会の教えを知らないままに某M教のようにモノを見る人は、認知症も家族が認知症になることも、そのひとの「選びの結果」だと見る。
とりわけコンピューターの動作の基本が、「0」と「1」であると知っている世代には、「人生て結局、全て、する、しない。どちらを選ぶかだ。」というような考え方に取り憑かれているひとを散見する。

 実は、白状すると、私も、ちら、とそんなことを考えたこともあったので、彼らが0、1で物事を捉えて考えているようなことは解るのです。(笑)
私の場合は、私のその思いつきを即座に否定し一笑に付してくれた大人達がいましたが、某M教なんてところは宗義がそうだから一生「0、1」「するか、しないか」思考で生きて行くのでしょうね。
おまけにそんな思考の持ち主が、社会のルールを決める側に立ちつつある。
困るなー。ほんとーに、困る。

さて、仏教では、「認知症の母」を見るのにも、「認知症の母を介護する私」を見るのにも、「選択の結果」などという見方はしない。
他業他得、他業自得、自業他得、自業自得と見る。
そして、この4つをひっくるめて自業自得と見る。

某M教を代表とする「0,1」「する、しない」思考が説く「選択の結果」などというものが、狭い意味での自業自得のそのまた一部分でしかないことが解るだろう。

タイトルRe: 他業、自業、他得、自得、そしてその先
記事No1797
投稿日: 2012/12/15(Sat) 12:33:34
投稿者桃青
そこらじゅうに結果は現われ、
現われる結果というものは、
他業他得、自業他得、他業自得、自業自得であるものなのだ。
ここまでは、人間の眼で普通に解る。
ただし、某M教や某M教的思考のかたは、他業他得、自業自得しか眼に入らないようなんですねー。
でもね、実際には自業他得、他業自得ということはあるわけです。
彼らは、それに気づかないものだから、それらを無いものとして、社会のルールを造り上げようとするわけですよ。
例えば、日本の「国民皆保険」という制度は、他業他得、自業自得しか見えない人々には絶対に理解できないルールだと思うですよ。
なので、日本人がアメリカナイズされてきて、やれ選択の結果だのなんだのというモノの見方が幅を利かせてきた昨今、国民皆保険制度がゆらぎはじめている。
困ったもんだなー。

他業他得、自業他得、他業自得、自業自得は、まあ、言われれば、よほど某M教的モノの見方に取り憑かれているのでなければ、気付きますが、そこからジャンプして「ひっくるめて自業自得」という「自業自得」は、理解が難しいのではないかと思われます。
講師も力を込めて「だから、自業自得以外ありえないのです!!」と声高に言われるばかりで・・・。
まあ、御自分は解っているので、力むしかないのでしょうが、大声で言えば、伝えたいことが伝わるかといえば、そうはならない。

「自業自得」と言う言葉を聞いた途端、聴衆は、
他業他得、自業他得、他業自得、自業自得、と並べた段階での「自業自得」と理解し、この4つをジャンプしたところにある「自業自得」だとは気がつかないのじゃないのかなあ。
では、お前は気が付いたのか、解ったのか、と問われると、困るけれど、全く気が付かないでいるよりは、少しは解ったと思うのだけれど・・・。

でも、せめて他業他得、自業他得、他業自得、自業自得と4つ並べて、世俗化した「自業自得」が、あらゆる結果を構成する一部分であること、だから「選択の結果」などというものも、それが結果をもたらすほんの一部分であることを、もっと世の中のひとに知って欲しいなあ。
選択の結果だの、自業自得だの言いたてて、美味しいところを独占しようとする者達に、自分の人生をいいようにされないためにもね。

タイトルRe^2: 他業、自業、他得、自得、そしてその先
記事No1800
投稿日: 2012/12/20(Thu) 10:04:47
投稿者桃青
全ての私が受ける全ての結果は、

ある部分は他業他得、ある部分は自業他得、ある部分は他業自得、ある部分は自業自得で、それらは分かちがたく一体となっている。

「選択の結果」を主張する人々というものは、
この一体となっているものの、一部分だけを看て、
「選択の結果」を言いう。
しかもそれは時に、「選択の結果」ですらない・・・すなわち、その者の行為と結果に因果関係すらない場合でも、その者が結果を受けているというだけで、結果を受けている者にその全ての結果責任を押し付けることに使われる。

ちなみに某M教には、悩みごと、困りごとを指導者に相談に行くと、
それはあなたの選びの結果、なので自己処理しなさい。と突き放されたというお怒りモードの体験談をしばしば見かける。
 (確かに、指導者というもの、時には、相手を突き放すという手段も必要だろうと思うが、突き放す根拠が「選びの結果」では、相談した方はやり切れないんじゃないかなー。)
 
ただ、某M教には、そのように「自己責任」で突き放す姿勢を「厳しくて好きだ。」と言うかたもおられる。
(そういうひとはたいてい突き放す側。)
こういう「(自己責任で)突き放す姿勢が好き。」という感覚は、「自分の身は自分で守る。」と銃を所持する権利を手放さないアメリカ人の感覚にも通じるのかな、と思うが・・・。

しかし、ねー。
日常の安心安全を個人の「自己責任」だけで確立しようとしたら、スーパーマン(超人)にでもならなければ無理なんじゃないでしょうか。
アメリカでは、金持ちが自己責任でカネにあかせて万全のセキュリティ設備を施した高い塀とカネで雇ったガードマンに守られたエリアに住んで、やれ安心、と思っていたら、そのガードマンやメイドに殺されるという事件も珍しくないようだ。

社会の問題を全て「選びの結果」「自己責任」しておけば、解決できるということは絶対ない。
なぜなら、結果というものが、好ましい結果も好ましくない結果も、個人の「選びの結果」だけで、出て来るものではないからです。

タイトル介護の花びら
記事No1792
投稿日: 2012/12/10(Mon) 01:29:21
投稿者桃青
介護の花びらとは、宮沢賢治の「業の花びら」を意識したものですが・・・。

介護そのものを楽しいと言うひとに出会ったことがない。

どうあがいても、介護は苦役に似ている。
しかし、営々とただ石を運ぶような時間の中にも、小さな花が咲くことがある。
ごくたまに、母との間に、ふーっと昔のような懐かしく温かい空気が流れることがある。
すっかり変わってしまったけれど、此処にいるのは、やっぱり間違いなく母なんだなあ。とほっとします。
最近、なんだか、そんなことがよくあるのですよ。

と言っても、認知症が治ったり、進行が止まっているかといえばそんなことはありません。
認知症が治るとか、進行がとまるとか、予防法があるとかいいますが、認知症はそんなに簡単な病ではありません。
マスコミはNHKですら視聴率がとりたいからなのか、健康雑誌のように大げさな見出しを掲げますが、認知症はその原因も治療薬も、ましてや予防法も今の段階では「仮説」です。
介護にあたる家族は、「間違ったイメージを与えるような報道はやめて欲しい。」と、短絡的な報道を嘆いています。

この「手紙」という歌も、認知症のひとが増えたからでしょうか、中学校等で紹介されることが多くなっているようです。
若い人たちがこの甘やかな歌から認知症のひとに、優しい気持ちがもてるようになるのなら、よいのですが、

タイトルRe: 介護の花びら
記事No1798
投稿日: 2012/12/18(Tue) 11:32:23
投稿者桃青
介護の日々に、母との間にふーっと流れる暖かいもの。
もしかしたら、これがあるか、無いかが、御住職の言われた「それまでどういう関係を築いてきたかによる。」ということなのでしょうか・・・。

介護のブログを読んでいると、父親にはすーっと寄り添えるが母親にはそれが出来ない。
というかたもあれば、その反対に母親はすーっとで、父親はダメ。
というかたもいる。

すーっと寄り添えると、介護の苦労もなんのその、という感じですが、寄り添えない場合は苦痛の悲鳴をあげることになる。

すーっと寄り添えるが、寄り添えないか、は理屈ではないので、難しいですね。
親のほうは、どんなに愛情込めて、接していても、子供がその愛情を受け止められないということもあるでしょう。
そういう場合、親も辛いが、子供も辛いでしょう。

母と私の場合は、たまたま呆ける前の母と私の長い歴史の中で「すーっと流れる暖かいもの」があっただけで、それは、たぶん、ほんとうにたまたま、なんだと思う。
同じように、例えば、数多の介護ブログのかたがたが、父母や配偶者にすーっと寄り添えるのも寄り添えないのも、相手と本人のどちらに問題がある、ということでもなく、「たまたま」なのじゃないかしら?
恋愛なら、通じない愛、片思いの愛、温度差のある愛。など当たり前のこととされるのに、
親子になると、通じない愛の存在が否定されるのは、何故なのだろう。

タイトルボケるのも自己責任なのか
記事No1799
投稿日: 2012/12/18(Tue) 11:52:32
投稿者桃青
さて、NHKでも「ボケは予防できる。」「ボケは習慣によっておきる成人病」などいう特集を組む。
原因が現在仮説なら、原因から導き出された予防法も現在仮説でしょう。
それをさも、原因が特定され、予防法も決定されのように報道する。困ったもんだなー。

「魚中心の食生活。炭水化物に偏った食事をしない。」
「料理は脳を総合的に使うので、ボケ防止には料理をするとよい。」
て、ねー。
食事と認知症の関係ですが、認知症になったひとの一生を通じての食歴を統計学的に有意なほど調査したのか、
と、言えばどうもそういうことでもなさそうだ。
料理はボケ防止に役立つってもね、
そもそも年中料理している主婦だって認知症になるのですから。
女性の認知症の場合、「なんだか、最近お母さん(女房)の作る料理がおかしい。」
と、思ったら認知症が始まっていたという例ばかりですよ。


介護ブログでは、介護サービスの見直しをうけて「団塊の世代が高齢化するに従い認知症の大発生が予測されるので、政府はいよいよ家庭を姥捨て山にするつもりだ。」という声もあがる。
穿った見方をすれば、NHKが認知症の特集を組むのも、政府の要請を受けて「認知症は予防できる病なのに、予防を怠った本人が悪い。ボケも自己責任。」という社会認知を広めて介護サービスを徐々に縮小しようという魂胆なのかしら?

某M教の会員のかたと、「宗教は社会を変える力を持つか」というやりとりをしたことがある。
そのかたは、「宗教は個人に慰安を与えるだけで、社会を変える力は無い。」と書かれた。
私は「社会は人間の意識が造る。宗教は人間の意識に作用するので、宗教には社会を変える力がある。」
と、書いた。

ですからね。
ほら!
某M教が世界中に宣教している「選択の結果。」「自己責任。」という意識は間違いなく社会を変えて行く力をもっているじゃないですかー。
困ったもんだなー。

タイトルスーパーコピー 安全なサイト
記事No2471
投稿日: 2023/12/16(Sat) 15:54:03
投稿者スーパーコピー 安全なサイト < >
参照先https://plaza.rakuten.co.jp/tereeshnvgbsl/diary/202306060000/
今回は、コピー商品を取り扱っている&#8203;スーパーコピー 安全なサイト&#8203;「ankopi」をご紹介します。スーパーコピー商品は、高級ブランド商品のデザインや素材を忠実に再現したもので、その品質の高さから多くの人々に愛されています。しかし、スーパーコピー商品を取り扱うサイトには、偽物や詐欺サイトも多数存在しています。 https://plaza.rakuten.co.jp/tereeshnvgbsl/diary/202306060000/