[リストへもどる]
一括表示
タイトル
記事No1913
投稿日: 2013/02/19(Tue) 21:15:24
投稿者修業者
病はいやですね。でも人間の定めなのでやむを得ません。
65歳を過ぎての病は、単純なケガ、打ち身、骨折などを除くとかなり厄介です。
がん、脳卒中、肝硬変、腎臓病などが主体になるからです。
若い頃の暴飲暴食や不規則な生活のつけが現れてきたのです。
でも入院するのは嫌だな、どんなに設備が揃っ良い環境の病院でも、病院独特の雰囲気に馴染めません。でも仕方ないかぁ〜。

昭和30年以前は、病院の数が少なかったこともあるが、在宅治療が多かったようです。離れの小部屋を病室代わりにし、息子の嫁さんたちが交互に介護してました。
そして、週に何回か医者が自転車で往診に来ていたようですが、医療技術や薬の効用が現在と比較にならないくらい低かったので、殆どの人が助からなかったようです。
臨終の間際に特に親しかた親族や友人を呼び、最期を看取ってもらっていました。病人に対する人間的な温かみがあったようです。

現代は、夫ががんや肝硬変になると、病院に入院させてあとは知らん顔。まぁ〜世間体もあるので、月に数回見舞いに行く程度です。
そして病院で病死、あとは葬儀屋の指示でお通夜、告別式、火葬と機械的に進行します。脳卒中や腎臓病(透析が必要)で長持ちしそうな患者は、介護付き老人ホームに送り込まれます。

あと20年も経ったら、超超高齢化社会、受け入れてくれる病院も無く、介護付き老人ホームへの入所も5千万円以上必要になるでしょう。ましてや在宅治療に協力してくれる家族は皆無だと思います。

対策として日本伝統の姥捨山制度を復活するしかないようです。

タイトルRe: 病
記事No1914
投稿日: 2013/02/20(Wed) 03:36:57
投稿者通行人
> 病はいやですね。でも人間の定めなのでやむを得ません。
> 65歳を過ぎての病は、単純なケガ、打ち身、骨折などを除くとかなり厄介です。

 お釈迦様の死病老苦ですね。年をとると病気になりがちで、病気をすると苦しんで、最後は死ぬ。死後の世界は地獄か極楽(西洋では天国)のどちらかのようです。藤原氏は死後の幸福を夢見て豪華な寺院を建てました(庶民にはそんな財力も権力もない)。仏教では六道輪廻を説き再び人に生まれ変わるか、動物に生まれ変わりるか、など説いてます(中世のカタリ派というキリスト教の一派も生まれ変わりを信じていたとか)。
 もし西洋の中世のキリスト教会が売り出した免罪符があるなら、先祖や子孫のために大枚をはたいて購入するのが、親心または子の心なのかと思うこのごろです(地獄の沙汰も金次第)。
 死後の世界はお金に悩まされず済むのがよいようです。しかし、命よりだいじなお金と豪語する人も世の中にはおられるようで(金の亡者)。「天国には教会はありません」と説いたのが無教会主義の内村鑑三さんでした。

タイトルRe^2: 病
記事No1916
投稿日: 2013/02/20(Wed) 11:39:02
投稿者桃青
>  お釈迦様の死病老苦ですね。

お釈迦様の、とつけるのでしたら「生老病死」の「四苦」ですよ。
そして四苦八苦のその奥には「行苦」があるのですよ。
一般人向けの仏教説法では「行苦」まで語られる機会は少ないので、「仏教はこの世は苦しく辛いものだ、と説いている。」とだけ思っているかたが多いのは残念なことです。

>死後の世界は地獄か極楽(西洋では天国)のどちらかのようです。

浄土真宗も最近は説き方が、ぐーっと変わりました。
具体的にいうと、西方浄土への往生だけでなく、阿弥陀浄土本来の「往還」を前面に出した死生観を一般門徒にも説くようになっていますよ。

>仏教では六道輪廻を説き再び人に生まれ変わるか、動物に生まれ変わりるか、など説いてます

それは、たとえ話でしょう。
もっとも悉有仏性ですから、「私」が動物に生まれるということはあるかも知れませんが・・・。

(この「私」、アートマンではありませんよ。念のため。)

>(中世のカタリ派というキリスト教の一派も生まれ変わりを信じていたとか)。

カタリ派を知らなかったので、検索してみました。
Wikiによると、カタリ派自身は記録を残さなかったので、正確なところはわからないとか。
でも、「生まれ変わり」を説いたというようでもないですが??

>  もし西洋の中世のキリスト教会が売り出した免罪符があるなら、先祖や子孫のために大枚をはたいて購入するのが、親心または子の心なのかと思うこのごろです(地獄の沙汰も金次第)。

そんなことを考えているうちに、カネ取り宗教にひっかからないように御用心ください。

>「天国には教会はありません」と説いたのが無教会主義の内村鑑三さんでした。

内村鑑三さんは、当時「キリストの復活を本当に心から信じているクリスチャンがいない。」と、嘆かれたようですが、キリストの復活を心から信じているクリスチャンが殆ど居ないのは、現在も同じかもしれませんね、

タイトルRe: 病
記事No1915
投稿日: 2013/02/20(Wed) 10:49:00
投稿者桃青
> 病はいやですね。でも人間の定めなのでやむを得ません。

病にもいろいろありますからね。。
「定め」というと「人間は誰でも必ず病気になるものだ。」というニュアンスがあり、病気にならないひともいるのに、何か変だ、て思われたことはないですか?

どうみても、
「人間は誰でも病む可能性がある。」のほうが現実に合っているじゃないかと、思うのですが??

もっとも死は臓器の不全により引き起こされるものですから、そういう意味では、病は定め、かもしれないです。

よく仏教の解説者は
「病気は金持ちにも貧乏人にも公平に訪れる。人間にとってもっとも公平なもの。それは病気だ。」
と、解説しますが、貧乏でなかったら罹らなかったであろう病気のほうが、金持ちならではの病気より遥かに多いのではないか?
これも、どうも納得できないのです。

生活レベルが平均化している日本で、「心筋梗塞は金持ちだからといってならないわけではない。」「ウィルスは相手が金持ちだから、貧乏人だからと選んで感染するわけではない。」と、解説されると、
「なるほどー」って、座の一同、頷くのですが、はてさて?

> 65歳を過ぎての病は、単純なケガ、打ち身、骨折などを除くとかなり厄介です。

「老」が常に随走するようになりますからね。


> がん、脳卒中、肝硬変、腎臓病などが主体になるからです。
> 若い頃の暴飲暴食や不規則な生活のつけが現れてきたのです。

どうなんでしょうね。
若いころからの節制は、たしかにそれらの病気になるリスクは減らすかもしれませんが、節制してこられたかたでも、それらの病気になるかたもおられますよ。
「あんなに節制して来たのに、なぜだ!!」と、驚き嘆くのと
「若いころからムチャしてきたから、しかたないわな。」と、あきらめるのと、どちらがどうなのか・・・。

> でも入院するのは嫌だな、どんなに設備が揃っ良い環境の病院でも、病院独特の雰囲気に馴染めません。でも仕方ないかぁ〜。
>

私も病院独特の雰囲気には馴染めません。
でも、ひと様々で「病院が好き」「病院も悪くない。」というかたもおられるのですよ。

>数が少なかったこともあるが、在宅治療が多かったようです。離れの小部屋を病室代わりにし、息子の嫁さんたちが交互に介護してました。
> そして、週に何回か医者が自転車で往診に来ていたようですが、医療技術や薬の効用が現在と比較にならないくらい低かったので、殆どの人が助からなかったようです。
> 臨終の間際に特に親しかた親族や友人を呼び、最期を看取ってもらっていました。病人に対する人間的な温かみがあったようです。
>

それはある意味理想かも。。。
でも、昔でも、そういうかたばかりでもなかったはずですけど。。

> 現代は、夫ががんや肝硬変になると、病院に入院させてあとは知らん顔。まぁ〜世間体もあるので、月に数回見舞いに行く程度です。

確かに、知らん顔のかたもおられるけれど、毎日のように通うかたもおられますよ。
通いたくても通えないというかたもおられるだろうし・・・。
人間てほんと様々です。
でも、誰でもそれがその時は精いっぱいなんですよね。

> そして病院で病死、あとは葬儀屋の指示でお通夜、告別式、火葬と機械的に進行します。脳卒中や腎臓病(透析が必要)で長持ちしそうな患者は、介護付き老人ホームに送り込まれます。
>

「ホーム」と名のつくところは費用がお高いのですよ。
お覚悟を。

> あと20年も経ったら、超超高齢化社会、受け入れてくれる病院も無く、介護付き老人ホームへの入所も5千万円以上必要になるでしょう。ましてや在宅治療に協力してくれる家族は皆無だと思います。
>
> 対策として日本伝統の姥捨山制度を復活するしかないようです。

姥捨て山制度は悪くないと思います。
自宅に居たいと思う者には自宅が、施設で最後まで、と願う者には施設が、姥捨て山になれば良いと思います。
具体的には、80歳以上には積極的な医療を施さず、緩和ケアのみ、というのはどうでしょうか?
緩和ケアだけでも体力のあるかたは、長生きされるでしょう。

「自然に優しく」最後の何年かを過ごすのが、現代版「姥捨て山」の姿で、「姥捨て山は花盛り。」となるのが、私の理想です。