[リストへもどる]
一括表示
タイトル認知症の周辺
記事No1931
投稿日: 2013/02/27(Wed) 10:37:56
投稿者桃青
先日、ある尼僧様とお庫裏様と、三人で歓談する機会があった。

尼僧様は姑様を介護中、御庫裏様は御実父と舅様(先代住職)を介護の後に送られている。
三人共に、認知症の介護経験あり、ということで、介護の悲喜こもごもを話合った。

先代住職様とうちの母は周辺症状が似ているようで、お庫裏さまと私は「食事はひとりでできますか。ときかれれば、ひとりで出来ます。けどね・・・。のけどね、の部分に篭もるものがあるんですよね。」
というだけで、通じ合うのだが、尼僧様はきょとんとされている。

尼僧様の姑様は、御話から察するところ、要支援2、要介護1、せいぜい要介護2あたりではないかと思われる。
先代住職は要介護4要介護5の時期を何年も過ごされていた。
私の母は現在要介護4である。

この尼僧様の姑様の御話は、法座でも現住職から聞く機会がしばしばある。
家業の農業の手伝いも、家事もできなくなってからは、唱題行を一日、5時間、最近は6時間されているという。
唱題行をされていないときは写経をされる、というように、尼僧様も言われたように「身口意」全てで行をされています。

私の母が、介護度1、2くらいのころ、御住職はよくこのかたの例をだして、「あなたもそうしたら。」と、母に勧めてくださったものですが・・・。

タイトルめがけるところが見つからない
記事No1932
投稿日: 2013/02/28(Thu) 10:26:59
投稿者桃青
母が認知症の介護度1、2のころ、御住職はこの尼僧様の姑様の話をして、「あなたもそうしたら?」と、折に触れて勧めてくださったが、
母は、かすかに鼻で笑うばかりで結局「では、私もそうしてみよう。」とはならなかった。

母は私がもの心ついていらい、神だな、仏壇、神社仏閣に手を合わせるときは、まず最初に
「どーかっ、戦争がありませんように!日本が平和でありますように、○○様、お守りください。」と祈る。
そして、時々特に願うことがあれば、その後に願う。
例えば、「桃青が試験に合格しますように」また母は旅行が好きだったのでよく旅行していましたが出発前に「無事に旅行から帰って来れますように。」と祈る。
特に無ければ、戦争が無いこと、日本が平和であること。だけでお終いです。

「皆は家内安全や家族の幸せを願うけれど、戦争になったら、家族の幸せなどふっとんでしまう。家族の幸せも、国が平和であってこそだから。」
と言う母には、日蓮聖人の

「夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」(『立正安国論』)

という言葉は、「我が意を得たり。」と響いたのでしょう。
この言葉をよく言っていました。

御住職から母へ、尼僧様の姑様の唱題行を見習えという前振りに、
「○○家の幸せと繁栄を祈るのが私の役目、と、気が付かれて、さあ、それからは毎日、5時間!5時間ですよ!!御題目を唱えておられるのです!
そうするとね、そういうおばあさんの姿を見て家族も変わりました。
おばあさんを大事にしないといけない。と、いう気持ちに自然になるというものです。
今では皆でおばあさんを大事にするのはもちろん、今まで以上に家族そろって御題目を唱えておられます。」

という話に対して
「たいしたもんだね。」
と相槌は打つものの、母は寂しげだった。

で、「あなたもそうしなさい。」と言われると、微かに鼻で笑って返事をしなかった。
「無言は最大の反論なり。」
という言葉がありますが、母は気に入らないことや言いたいことがあっても立場上言えない、という時は徹底して無言になります。
眼に怒りの色を浮かべて。

母はね、「家族の幸せだけ」を祈ってでは、御題目を一心に唱えて無心になって行くことができなかったのかもしれません。

真言宗では「止」を行ずるとき、一字の文字を見つめるそうですが、御題目も何かをめがけて唱えるほうが、行じやすいのかもしれませんね。

自分にぴったりのストーリーが与えられたら、母も唱題行がもっと楽にできたかもしれません。

母が認知症になってから、どうも日本には大難が降りかかります。
母の「日本の平和」を願っての一心の題目が効いていたのかもしれません〜。

タイトル「当たり前」という感覚
記事No1933
投稿日: 2013/03/01(Fri) 09:45:48
投稿者桃青
認知症の周辺には、「当たり前」という感覚と「当たり前ではない」という感覚が渦巻いている。

時々、当事者と家族の「当たり前」という感覚にたじろぐことがある。

一つの例として。
御庫裏様と私が、徘徊に付き合う大変さを愚痴っていたら、尼僧様がニコニコと言いだされた。

「家の近所のおじいさんはマッチで火遊びするのが大好きで、家のかたが気が付くと、家の中で新聞紙が燃えあがっていたり、納屋から煙が出ていたり、そんなことがしょっちゅうなんですって。
家のかたは、常におじいさんの様子を見ているので、すぐに消すので大事にはなっていないのですよ。
おじいさんは独りで外へ出ていってしまうこともあるので、近所のかたには、『家のおじいさんはマッチで火をつける癖がありますから、おじいさんの姿を見かけたら、気をつけてくださいね。』と、挨拶して、近所のかたにも了承してもらっているそうですよ。」

御庫裏様と私は絶句したのだが・・・。

何事も当たり前と思ってしまえば、心は楽なのかもしれない。

しかし、「家のおじいさんは認知症になってからマッチで火遊びをするのが好きになってしまって・・・。おじいさんの姿を見かけたら、御宅の外のものに火をつけるかもしれないので、用心してくださいね。」
と、挨拶されたほうも、
「そっかー、そーなんだ気をつければいいのよね。」と、思うかたばかりでもあるまい。
中には、「外出から帰ったら家が丸焼けになっていたらどうしよう、寝ている間に火をつけられたらどうしよう。」と、不安でたまらなくなるひともいるだろう。

「近所に了承してもらっている。」と、当事者は安心しておられるけれど、「放火が趣味というひとは危ないから、家に縛っておけないのなら施設へ入れて欲しい。」と、願っているかたもおられるのではないか。

尼僧様は顔をしかめて
「親を施設へいれるなんてとんでもない!子供として、してはいけないことです!」
と、声を大にして言われる。
尼僧様は、どこでも誰に対してもそう説法されているのだろうか?
御実父と舅様を施設へ入れられた御庫裏様は複雑な顔をされた。
「介護度3以上のかたを家で見るには、余程条件が整っていないと、無理なんですよ。」
と、尼僧様に申し上げたかったけれど、「本人と家族、御題目の力で進行をくいとめた。」と言われるかたには、通じないだろうな。
と、思ったので、やめた。

タイトルRe: 「当たり前」という感覚
記事No1934
投稿日: 2013/03/01(Fri) 18:56:44
投稿者桃青
御本人と家族、心を一にしての唱題行によって、認知症の進行が止まったり、回復したりすることはある。
と、思う。
が、片一方には、深刻な事態へ突き進んで行くひともいる。

それは、御題目を唱えない。とか、仏様にまかせない。とか、
とは、別のところでも解決を図る問題ではないかと思われるのだが・・・。

タイトルRe^2: 「当たり前」という感覚
記事No1935
投稿日: 2013/03/05(Tue) 09:41:25
投稿者ぽん州

こんにちは。 ぽん州です。

なるほど、子どもは親を選んで生まれてきたんだなあと
思いますね。

タイトルRe^3: 「当たり前」という感覚
記事No1937
投稿日: 2013/03/05(Tue) 11:45:53
投稿者桃青
ぽん州さん こんにちわ

> なるほど、子どもは親を選んで生まれてきたんだなあと
> 思いますね。

よく世間では「子供は親を選べない。」て言葉を聞きますが、
ぽん州さんが
「子どもは親を選んで生まれてきた。」
と、思われる理由はどういうものでしょうか?

ちなみに私は、親となり子となるのも縁だと思っています。

タイトルRe^4: 「当たり前」という感覚
記事No1938
投稿日: 2013/03/06(Wed) 00:46:14
投稿者ぽん州
こんばんは

> よく世間では「子供は親を選べない。」て言葉を聞きますが、
> ぽん州さんが
> 「子どもは親を選んで生まれてきた。」
> と、思われる理由はどういうものでしょうか?

僕が両親を選んで生まれたからです。もう5年まえですか、母を
亡くしてから、つまり 自分一人になった時以来、ああ お袋は
最後を俺の看取りで死んでくれた、五百塵点劫の昔から
この両親の下に生まれるように請願して生まれたのだ と思うよう
になりました。

>
> ちなみに私は、親となり子となるのも縁だと思っています。

因縁生起、縁というものも自立存在であるはずもないと思ってい
ます。


南無妙法蓮華経

タイトルRe^5: 「当たり前」という感覚
記事No1939
投稿日: 2013/03/06(Wed) 12:09:18
投稿者桃青
>
> 僕が両親を選んで生まれたからです。もう5年まえですか、母を
> 亡くしてから、つまり 自分一人になった時以来、ああ お袋は
> 最後を俺の看取りで死んでくれた、五百塵点劫の昔から
> この両親の下に生まれるように請願して生まれたのだ と思うよう
> になりました。
>

そうだったのですね。
ぽん州さんのお母様への深い想いが伝わり、少し胸が熱くなりました。


少し立ちいった質問をすることをお許しください。
お母様が生きておられる間に、そのように思われたことは無かったのでしょうか?


身近なかたで、「自分がこうなったのは、母親のせいだ。」と、母への恨みを折あるごとに言っておられたかたがいました。
このかたはカウンセリングを生業としておられましたので、カウンセリングを受けに来られるかたそれぞれに、いかに母親というものが子供に決定的なダメージを与えるものか、ということを御自身の体験を踏まえて、カウンセリングをされていました。
その頃お母様は病院で闘病中でしたが、殆ど顔を出すことも無く、繰り返し、「私がこうなったのは、あの母親のせいだ。」
と、言っておられました。
ところが、間もなく御母様が亡くなられると、
「お袋がいかにこの私を愛していてくれたか、初めて解った。
 お袋は、全身で私を愛してくれていたのに、その愛し方があまりに不器用だったので、私には解らなかったのだ。
何故、今までそのことに気付かなかったのだろう?
不器用だったお袋も可哀そう。私も可哀そうだった。」
と、泣かれ、以後カウンセリングでも
「母親の責任だ。」と言うことを控えるようになられました。

また私の従妹も、叔母(叔父の配偶者)が、亡くなったとき
「私は母が嫌で嫌で・・・。私は母親が嫌いなんだと思っていたのに、亡くなったら、本当は母のことが大好きだったのだと気が付いた。」と、言って涙をぬぐっていました。

認知症介護のブログでも、何人ものかたが、
生きている間はどんなに嫌々お世話し、ウンザリ感をぶつけておられたかたでも、イザ、死の床に付かれたり、亡くなったりすると、ブログにそれまでと打って変わって優しい思いやりの言葉を書かれるのを拝見しました。

また、以前死刑執行を家族に知らせる役目をされていたかたの手記にも、どんなに迷惑をかけられ、絶縁している家族であっても、死刑執行を知ると、例外なく声をはなって泣く。
と、ありました。

以上、皆皆、何故生きている間に、その気持ちに気が付かないのでしょう。
生きている間に気がついたら、どんなにか心が楽になったでしょうに、と思わずにはいられないのですよ。

世間では、「子供は親を選べない。」云々と言い、それを受けて「こんな親の子供に生まれたくなかった。」と激しく親を怨むものもいます。

なので、「子供は親を選んで生まれてくる。」と、言われたぽん州さんの言葉が新鮮で、なにか、そこに「こんな親のもとに生まれたくなかった。」と親を怨む子供、怨まれる親の関係を変換できるヒントがないか、と、思いまして不躾な質問をさせていただきました。


> >
> > ちなみに私は、親となり子となるのも縁だと思っています。
>
> 因縁生起、縁というものも自立存在であるはずもないと思ってい
> ます。
>

もちろんそうです。

子供ができて親となる。

タイトル『黄昏流星群』の結末
記事No1936
投稿日: 2013/03/05(Tue) 10:57:54
投稿者桃青
認知症になった妻と兄の愛人だった女性との間で揺れた男は、
両方ともを「妻」と位置付けることで自身の心の落ち着きどころを得て、この話は終わった。

認知症への対応の結論としては物足りないが、中高年の恋愛をテーマとしたシリーズなので、しかたがない。

しかし、作品中の男のセリフは、認知症に遭遇した者の心の有様をよく活写していたと思う。
作家自身が介護者に聞きとりをしたのか、弟子に資料集めを任せたのかはわからないが、ロクに眼の前の相手の話を聞こうともせず、教理教学での結論を押し付ける宗教者よりは、この漫画工房の人々は、人間の苦悩を聞きとっているようだ。

すべては
「人間でなくなった妻」
というひとことに集約されていく苦悩。


漫画家は宗教者が与えるストーリーとは違うストーリーを男に与える。
流星群という表題に相応しく、人間を恒星に譬えて、
恒星が進化すると白色矮星になることがあり、白色矮星の成分は炭素と酸素なので、白色矮星が超高温、超高圧にさらされるとダイヤモンドが形成されるように、認知症というのは人間が白色矮星になってダイヤモンドになったようなものなのだ。
人間がボケるのも進化のひとつと考えれば、人間の晩年はみなダイヤモンドなのです。

美しいストーリーですね。
仔細に読めば、白色矮星がダイヤモンドになるには、それなりの条件が整えば、ということであるようですが・・・。

しかし、そんな美しいストーリーに男が涙していられるのも、
認知症の妻は施設で過ごしていて、施設の医者からの
「あなたでなくては出来ないということはもうありませんから、施設へはそんなに来なくてもよい。
これからはあなた御自身の時間を大切にしてください。」
という言葉をエクスキューズとして、一抹の妻への後ろめたさを感じつつも愛人との生活を楽しめるようになったからでしょう。
妻の介護費用、愛人との生活費も兄が残して呉れたもので、心配がない。

これを尼僧様を代表とする人々から見れば、
「糟糠の妻を施設に預けぱなしにし、姥捨て山に捨てて、自分は兄が残してくれたもので、兄さんの愛人だったひととよろしくやっている。」というスキャンダラスな状態としか見えないと思いますよ。
(世間に実際に無い話ではありません。)

認知症のかたとの日常生活は、身も蓋もなく言えば、
人間の肉体が放出するあらゆるものを処理するのに追われる日々です。
どんなに親孝行、親思いの子供でも、便秘薬をなるべくデイ先で効いてくるように時間調節して飲ませたり、そうでなくても「おねがい、たとえ一回でも施設で出してきてくれ。」と、祈るものなのです。

認知症のかたを施設へ入れて、衣食住の日常の細かい御世話を全て施設に任せて、日常生活の場にいない妻を想うからこそ、
「人間の晩年はダイヤモンド」と言えるのかもしれません。