[リストへもどる]
一括表示
タイトル人間の本当の姿とは
記事No1959
投稿日: 2013/03/24(Sun) 11:22:10
投稿者桃青
人間の本当の姿とは、空、でしょう。
一念三千でしょう。

人間に現れる一念三千の世界に、やがて仏と成る人間の姿を観ることでしょう。

「人間の本当の姿は菩薩です。
 人間は菩薩の使命を果たすために生まれるのです。」

ある意味間違いではないのだろうけれど、なーんか違和感。
続いて話されることが、いつも某M教的な話ばかりだからだろうか。

例えば、
*心おきなく布施(物施、金銭的援助)するために商売繁盛に邁進する人の話、
→布施をボランティに変えれば、マネーゲームのエクスキューズとして、言われる言葉にそっくりだ。

亡くなられた師匠の頃は商売する基本姿勢として話されるのは、商売で得た儲けから布施をするのではなく、商売そのものを布施と捉えての「布施の三輪清浄」を想起させる体験談ばかりだったのに・・・。と、哀しくなって来る。
仏教や日蓮聖人の御言葉を表題として話す内容が、キリスト教的「使命」や某M教的「人生の目的」な話に終始するのなら、せっかくの「仏教」を伝える意味がないでしょうに・・・。

タイトルRe: 人間の本当の姿とは
記事No1960
投稿日: 2013/03/24(Sun) 11:36:29
投稿者桃青
というようなことを講話される導師に言いたいのですけれどね、
現実世界では立場上言えないのですよね。

なので、こんなところで書いています。

タイトルRe^2: 人間の本当の姿とは
記事No1961
投稿日: 2013/03/24(Sun) 12:50:40
投稿者桃青
「人間の本当の姿とは、使命を持って生まれた菩薩である。」

という御話の中で、

「世は義農の世となりて」という御言葉が引用されました。

「日蓮聖人も世は義農の世となりて、と言われています。
 義農は使命ですから。」

義農が何故菩薩の使命と繋がるのでしょう??

義農は伏義、神農という中国伝説上の人物の名前です。

ネットからのコピーですが
「伏羲の時代は生産力発展の時期に当たり、多くの重要な発明が伏羲と関わりがある。古書によると、伏羲は万物による八卦を作った。伏羲はまた網で魚を捕る漁法を人々に教えた。豊作と結婚式をお祝いするために、瑟という楽器を作り、「駕辯」という曲を創作した。伏羲は木をすり合わせて火種を取る方法をみんなに教え、更に食べ物を火で焼いた後食べます。これによって、人々は野蛮な生活を終えた。」

「神農氏の時代は父系氏族会社の初期にあたり、人間の間が平等友好で搾取と抑圧がなかった。史書によると、神農氏が在位した時、男性が農作業に従事し、女性が編物をし、国を治めることにとって監獄と刑罰は必要がなく、指導者にとって軍隊と警察は必要がない。」

義農が何故「使命」なのか、尋ねてみたかったけれど、こちらも立場上聞けなかった。

もっともこれは私が、講師の「菩薩の使命をもって生まれたのが人間本来の姿。人間だれしも果たすべき使命がある。」というキリスト教の人間の使命的解説が頭にカチーンと来ているので、講師の言わんとするところが、伝わらないだけで、解るかたには解るのかもしれませんが。
でもなー。

キリスト教の「人間の使命」を使って、「やがて仏になるべき我等」を解説すると、絶対に間違いが起きると思うですよ。
とは、やっぱり、現実世界では立場上言えないな。
ああ!やだやだ。

タイトルRe^3: 人間の本当の姿とは
記事No1962
投稿日: 2013/03/25(Mon) 10:07:17
投稿者しんのすけ
> 「日蓮聖人も世は義農の世となりて、と言われています。
>  義農は使命ですから。」
> 義農が何故菩薩の使命と繋がるのでしょう??
> 義農は伏義、神農という中国伝説上の人物の名前です。

講義を聞いていませんので本当のところはわかりませんが、
「義農は使命」の
義農(の世)とは、立正安国の意味でしょ?
法華の使命は、立正安国の確立へのまい進ですから。
もって生まれた使命ではなく、法華を自覚した時からの使命でしょ。
それは、直ぐに実現しないけれど自分の家庭で、会社で地域で作って
いくもの?まずは自分の心の環境改善を意味するのでは?

タイトルRe^4: 人間の本当の姿とは
記事No1964
投稿日: 2013/03/25(Mon) 18:47:29
投稿者桃青
> 「義農は使命」の
> 義農(の世)とは、立正安国の意味でしょ?
> 法華の使命は、立正安国の確立へのまい進ですから。

確かに!

> もって生まれた使命ではなく、法華を自覚した時からの使命でしょ。

そうなんです!
「誰でも持って生まれた使命がある。」というから話がオカシクなるんですよ。


> それは、直ぐに実現しないけれど自分の家庭で、会社で地域で作って
> いくもの?まずは自分の心の環境改善を意味するのでは?

そうですね。
その通りですね。

タイトル立正安国への道
記事No1965
投稿日: 2013/03/28(Thu) 10:08:16
投稿者桃青
> 法華の使命は、立正安国の確立へのまい進ですから。
> もって生まれた使命ではなく、法華を自覚した時からの使命でしょ。
> それは、直ぐに実現しないけれど自分の家庭で、会社で地域で作って
> いくもの?まずは自分の心の環境改善を意味するのでは?

環境改善。が法華の使命。。
そうなんですね。

私が講師が説くファンタジーにもやもやする原因がわかりました!
講師のファンタジーには環境改善に至る途がまったく見えない。
「親は子供の身代わりに認知症になってくださった菩薩である。」
という話には、正気を失ったかたへの対応に苦慮する、その苦慮のありどころを正確に見て解決しようという意志がない。

「仏様に全てをお任せし、御題目を一家が心を一にして唱えれば、
仏に守られて全ては上手く行きます。
ガンも治り、認知症のひとは蘇り、商売もするすると上手く行く。」

という御話には、「環境改善して行くのだ。」という視点が全くない。
どこか、某M教の私と私の家族、私の部族だけがハッピーになれば目的達成というニュアンスに通じるものがある。

「ボランティアをするためにカネ儲けするのだ。」
という話には、ボランティアしなければならない対象が生じる構造的な欠陥があるのならそれを正して行こうという視点がない。

ある女性、半生を法華の伝道に捧げられて、ついには大きな寺まで建てられ開祖となられた。
そこからは、法華らしい良い僧侶も育っておられる。
しかし、この女性の御子さん達は母が伝道に打ち込むあまり、世の母親らしいことは何もしてくれなかったと、母を恨み、亡くなった時には葬式にも参列しなかったという。
講師はどちらかというとこの女性に対して「我が子をないがしろにしてまで」と、批判的な眼を持っておられる。
しかし、私は思う。
そのように子供より法華の伝道を選ばざるを得なかった女性もまた菩薩の働きをされたことは、子供への愛情に生きた女性と同じだろうと。

タイトルRe: 立正安国への道
記事No1967
投稿日: 2013/03/28(Thu) 17:51:31
投稿者しんのすけ
ありがとうございます。
僕も最近なんでご宝壇前に読誦、ご修業ができないのか?
心のもやもやに悩んでおりました。会堂に出向いて導師や知壇は務めますが
家庭ではおろそかにしています。なぜかここ2年ほど気が進まなかったのです。
そんな事しても何も解決しないと!でも気がつきました。
具体的な行動ができるように、物事を冷静に判断できるように、仏知見を得るために読誦、題目の修業するのだと。
実際の解決は、具体的、科学的な対処、行動あるのみ。

タイトルRe^3: 人間の本当の姿とは
記事No1963
投稿日: 2013/03/25(Mon) 10:36:55
投稿者桃青
六波羅蜜を行ずることを「人間の使命」と捉える発想はどこから生まれたのか?
と、講師に尋ねてみたいけれど、これも立場上できない。

以下は私の推察なのだが、
亡くなった師匠が
「あの者は仏法をキリスト教的に捉えているから、心配だ。」
と、言い言いされていたので、御本人が独自に到達された境地なのではないかと思っているのだが、時折他の講師の口からも
「菩薩の使命」という言葉が飛び出すことがある。
が、そういう場合それは法華経に書かれてある「如来使」以上のものが付け加わることはない。
「ああ、如来使の使を流用して、菩薩の使命と言われているのだな。」
と、聞く。
ただ、その場合でも「せっかく如来使という言葉があるのだから、如来使とそのまま言っても良いのではないか。」という疑問は残る。

伝道の先輩達が使う「菩薩の使命」という言葉と、このかたのキリスト教的仏教理解が結びついて、「人間は誰でも果たすべき菩薩の使命をもって生まれるのです。」という説法となったのではないかと思っているのですが。
ことが人間に留まるのなら、まあ、良いのですが
「エビは人間に美味しく食べられるという使命をもって生まれたのです。」
となると、キリスト教の嫌な部分とそっくりでやり切れなくなって来る。
これもたぶん、そのかたなりの「悉有仏性」の理解なのでしょうが・・・。

果たすべき使命を神から与えれて生まれて、その使命を果たした者は、どうなる、こうなる。というようなことをキリスト教や某M教は言うが、仏教は決して言ってはいない。

この講師、とても良いかたで親身に檀信徒の悩みを抜苦与楽しようとされるところは、まさに利他行菩薩行の実践の姿、菩薩行の大切さを強調する日蓮宗でも、このようなかたはそうはいない。
と尊敬しているのですが、仏教的とは言えないファンタジーを説法されるたびに、「いや、もっと仏教は奥が深い。仏の智慧も慈悲も奥が深い。」と、もやもや感がつのって来る。