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タイトル自己責任とは・・・
記事No1968
投稿日: 2013/03/30(Sat) 10:19:27
投稿者桃青
自己責任・・・いつのころからか良く聞く言葉になりましたね。

おや、新しい言葉だな。新鮮だな。
言ってることももっともだ。

と、飛びついて、今では当たり前のように、あっちでも
こっちでも「自己責任でやりましょう。」
と、言っています。

私には、どうもしっくり来ません。

なぜ、しっくり来ないのか。
ずっともやもやしていたのですが、最近、あ!ともやもやの有りどころが解りました。

それは、自己責任が言っていることとは、つまりは

「皆皆自分のことだけ考えましょう。」

これだからです。
違いますか?この言葉が使われる場面を思い浮かべて見てください。
これ以外の本意がある例があったら、教えてください。

「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(化城喩品)
とは全く正反対の思想だし、そもそも根底の人間観が、「皆共に」とは全く違う人間観を背景にもっている言葉なので、どうにもしっくり来なかったのでしょう。

皆共に、の背景にある人間観とは、無自性、相依の人間であり、
自己責任の背景にあるのは、キリスト教的な個としての人間でしょう。


子供のころ、周囲の大人の婦人たちが、様々な場面で
「自分のことだけ考えていてはいけないわね。」
と言っていましたが、以前の日本は確かに「自分のことだけ考えるのは良くないことだ。」という価値観が支配していた社会だったことは間違いありません。
全員がそういう価値観で生きていたかと言えば、そうではないでしょうが、社会を覆う空気のようなものは、
「自分のことだけ考えていてはいけない。」
「お互い様」
「明日は我が身」
そういうものだった。

どうですか?
最近、そんな言葉を大人の口から日常会話的に聞いたことが無いでしょう?
社会が大きく「自己責任」に舵を切ろうとしているか、既に舵が切られたか、そんな風に感じています。

「皆皆自分のことだけ考えましょう。」
「他人のことを考えるのは、自分に余裕ができてから。」

こんな風潮の社会は、どんな社会になって行くのでしょうね。

タイトル自分の頭のハエを追えない者が
記事No1969
投稿日: 2013/03/30(Sat) 19:08:34
投稿者桃青
日蓮系へ向けての批判はいろいろありますが、
最大のものは、

「自行もできてないものが、化他行などおこがましいわ。」
「至ってもいないものが、法を説いているよ。」

というものではないかと思います。

それは、宗祖日蓮聖人が、「理解できない言葉でも、仏法の真髄を伝えている言葉なら、とりあえず聞いたほうがよい。伝えたほうが良い。」
というかたであったということもあるでしょう。


さて、自分の頭のハエも追えていない者が、他人の力になりたいと願うことは非難されるべきことなのでしょうか?

アメリカ生まれのキリスト教らしく「自己責任」を説く某M教では、「まずは自分の暮らしを成り立たせてから、ボランティアをしなさい。」という姿勢です。
これで充分というほど生活が成り立っていると思えるひとはどれだけいるのでしょう。
大抵のひとは、まだまだ苦しい、できればもっと生活レベルを上げたい。
と願っているのではないでしょうか?

日蓮系を「至ってもいない者が、化他行なんてちゃんちゃらおかしい。」「生半可な理解のものが伝えると間違いが起きる。」
と、苦々しく見る人々とは、「これで充分というほど自分の生活が良くなったら、他人の御世話もしますけれど、自分の頭のハエも追えてないのに、他人のことなど考える余裕はありません。」
という人々と同じようなものではないか。
と、思うのですね。

タイトルRe: 自分の頭のハエを追えない者が
記事No1970
投稿日: 2013/04/01(Mon) 11:12:54
投稿者桃青
とはいえ、「生半可な者が・・・」と言うかたの気持ちも御心配もわかるのですよ。

それでもやっぱり、日蓮系の者は頭の上に輪を描いて飛ぶハエを乗せたまま、駆け回ってしまうのだろうな。
と、思う。
日蓮系は、どこかで「布施したい。(←大きな括りで、ですよ。)」と願っているような人が多いからね。



私はお眼にかかったことがない師匠の師匠は、常に、常に
「どうせ布施するなら、最高の布施を!」
と、言われていたそうですが、
布施の中の最高の布施、法施を最高の布施にするためには、
どうしたら良いのか。
と考えれば、答えは自ずから出てくる、はずなんですけれどね。