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タイトルすれ違う心
記事No1973
投稿日: 2013/04/02(Tue) 18:22:07
投稿者桃青
認知症は恐い病気です。
母を看ていると、自分もやがてこんな姿になるのかと、心底恐ろしい。

母と接するたびに、
ああ、人間はこんな悲惨な姿になってしまうのか。
と、その悲惨さに驚き、
私もこういう姿を何年も何年も誰かに看取られて、死ななければならないのだろうか。
と、怖くなる。

人間は死に至る十余年をこのような姿で生きなければならないものなのか。
ああ、人間とはこういうものなのだ。

というところでもやもやしているのに
「お母さんは、あなたの身代わりに認知症になってくださった菩薩なのです。」
と言われても、私のモヤモヤを吹き払ってはくれない。
これは私のモヤモヤとは別のモヤモヤ、
たぶん
「あんなに誠実に生きて来たのに、どうして認知症になったのだろう?」
というモヤモヤを抱えているかたには、有効なのかもしれないけど・・・。

認知症は脳の病変で、なる時にはなるものだ。

と、理解している私には、「信仰してたのに、布施行も熱心にしたのにどうしてこうなった?」というところには、モヤモヤはない。

タイトルRe: すれ違う心
記事No1974
投稿日: 2013/04/03(Wed) 00:09:45
投稿者ぽん州

こんばんは ぽん州です。

桃青さんはよくやってるなあ。
僕もお袋の面倒見てる時に、いつまでこんなことが
続くのんだろうか とか思ったし、
姉もお袋の面倒見てたのだけど、つい姉との間も
刺々しくなったり。。。。
桃青さんも体に気をつけて、他者に任せられるところは
任して なかなか楽もできないだろうけど
ご自分を大切にしてください。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^2: すれ違う心
記事No1976
投稿日: 2013/04/03(Wed) 09:52:57
投稿者桃青
ぽん州さん 
レスありがとうございます。

> 僕もお袋の面倒見てる時に、いつまでこんなことが
> 続くのんだろうか とか思ったし、

ぽん州さんも介護を経験されたのですね。

認知症を介護されているかたの中には
「たとえ手袋ごしにでも、暖かいう○こを掴んだ経験のないかたの話は聞きたくない!」
と、いわれるかたもおられ」ますが、そう言いたくなる気持も解るようになりました。
大小便の始末は理屈でなく身体が反応して嘔吐反応が出るものなのですね。

介護施設のスタッフさんは仕事だから、慣れているのだろう。
と、思うのは間違いですね。
人間ですから、あなたや私が、「嫌だー。」と思うように、その「嫌だー。」の部分は全く同じのようです。
あとは「プロだから。」で、乗り切って行かれているようですが、虐待してしまうスタッフさんの気持ちもわかるような気がします。

劣悪な環境をそのままに、
「菩薩だと思って・・」とか「高度成長時代を支えてきた方々だから。」
と、精神論ばかりを押し付けてもダメなんじゃないかと思うのです。
介護のやる気を引き出すのは、環境の改善のほうが有効だと思います。

始まりにあるべき問い掛けであり、最後まで残る問いかけとは
「経済活動が何もできなくなり、今後も回復の見通しのない者に対して国家社会がどのような視線を持てば良いのか。」
という、つまりは「人間とは何だ。」という問いかけでしょう。

その答えとして、
「あなたを救った菩薩だから。」「高度成長期を支えた人々だから。」
「神から与えられたあなたの使命だから。」
「選択の自由。自己責任。」
というのでは、あまりに浅いのではないかと思うのですね。
浅い答えからは浅い解決策しか出て来ない。
浅い解決策のどこが問題かといえば、それは常に一番立場の弱いところへ苦労を押し付けて「これで問題解決」としてしまうというところです。

タイトルRe^3: すれ違う心
記事No1977
投稿日: 2013/04/03(Wed) 14:04:01
投稿者通りすがり
 飛び入り失礼します。わたしは修行者さんと同じタイプの人間です。
 ただし、宗教はどちらかというと仏教よりキリスト教を好み、車も運転免許ももってません。

> 認知症を介護されているかたの中には
> 「たとえ手袋ごしにでも、暖かいう○こを掴んだ経験のないかたの話は聞きたくない!」

 あまりぞっとしない経験ですよね。わたしはある方から「俺は定年過ぎて介護の仕事をしてるが、あなたも介護の仕事をしてみないか」といわれましたが、断りました。「わたし自身が将来に介護の人のお世話になりたいのに、人の世話などとんでもはっぷん」という気持ちです。現在は体調不良で家でじっとしてるときが多くなりました。
 こういうときは日曜に教会に行けばウサがはれるのですが。もう両親はいませんので介護などで苦労することはないのですが、兄弟の職の世話などで頭の痛い毎日です。自分が体が動けなくなってもはたして兄弟が介護してくれるか心配です。
 まして認知症になってあさましい惨めな姿を世間にさらすようなことがあってはと心配です。やはりお釈迦さまのように菩提樹の下で涅槃に入るような死に方がよいでしょうね。
 桃青さんこの世で功徳と思って介護を。わたしも介護されたいです。

タイトルRe^4: すれ違う心
記事No1978
投稿日: 2013/04/03(Wed) 17:58:31
投稿者桃青
>  飛び入り失礼します。

飛び入りは歓迎です。

でも、「通りすがり」というHNはあまり喜ばしくないので、
別の名前に変えていただけませんでしょうか。

>  ただし、宗教はどちらかというと仏教よりキリスト教を好み、車も運転免許ももってません。
>

キリスト教の御好きなところはどこあたりですか?
厳しい裁き?それとも「愛」?
よろしければ是非。
もちろん、ノーコメントでも構いません。

>自分が体が動けなくなってもはたして兄弟が介護してくれるか心配です。

無理でしょう。
そのころには、御兄弟も身体が弱り、自分の身の始末だけでいっぱいいっぱいか、もしくは介護を受けていられる可能性のほうが高い。

>  まして認知症になってあさましい惨めな姿を世間にさらすようなことがあってはと心配です。

こればっかりは、なる時はなるので、どんなに嫌だと思っても、ならないという保証はありません。

脅すつもりはありませんが、施設で家庭で時には「う○こ製造機」と呼ばれながらそれでも生きなければならない身になる可能性は誰にでもありますよ。

>  桃青さんこの世で功徳と思って介護を。

うーむ・む・む。
なんだか「あの世でこの世で御褒美がほしければ天に宝を積め」という某M教の教えと似たようなニュアンスを感じますけれど?
もしかして、通りすがりさんは某M教のかたでしょうか?

>わたしも介護されたいです。

私はねー、私が生きているせいで、介護するひとに多大な負担をかけることを思うと、とてもとても介護される身になりたいとは思えないのですよ。
「介護を職業としてやっているひとは、それで食べているんだから、いいじゃないか。」
と言うかたもあるかもしれませんが、それでも介護って基本喜びが無い仕事ですよ。
スタッフのかたが、励みとされている「ありがとう。」という言葉も人間らしい表情も病気が進めば失われて行きますからね。
おまけに気の毒なほどの低賃金。
「手取り11万円、自給870円でう○この始末をさせるなー!」
と、ブログに書いていた施設のスタッフのかたがおられましたが、このかたは介護福祉士の資格が無いので、そのくらいなのかもしれませんが、それでも仕事の内容からすれば、とうてい、みあっている金額とは思えません。
そういう例は全国各地にあるのではないのでしょうか。
身心共に疲れ果てた家族やスタッフに御世話をかけて生きるのかと思うと、介護されたい、とは私は思えないです。

タイトルRe^5: すれ違う心
記事No1981
投稿日: 2013/04/04(Thu) 10:28:44
投稿者桃青
> >自分が体が動けなくなってもはたして兄弟が介護してくれるか心配です。
>
> 無理でしょう。
> そのころには、御兄弟も身体が弱り、自分の身の始末だけでいっぱいいっぱいか、もしくは介護を受けていられる可能性のほうが高い。
>

勘違いしたのかも?
他人同士、兄弟姉妹と呼びあうことに慣れていないので、つい
ここで通りすがりさんが言われる「兄弟」とは、実の御兄弟かと思ってしましましたが、日曜日教会に集っておられるということですので、日頃「○○兄弟」と呼びあう教会員のかたのことだったのかな?

だったらなおさら、○○兄弟に介護は期待できないのではないですか?
御自分が「自分は介護をして欲しいけれど、誰かの介護はしたくない」って思っておられるように、その○○兄弟も介護はしたくないって思っていても不思議はないでしょう。(笑)

それにしても
「自分のして欲しいことを他人にもしなさい。」というのが、キリストの教えでしょうに。
「自分は介護をして欲しいけれど、他人の介護はしたくありません。」
て、どういうこと??(笑)

タイトルRe^6: すれ違う心
記事No1982
投稿日: 2013/04/04(Thu) 12:16:47
投稿者通りすがり
> > >自分が体が動けなくなってもはたして兄弟が介護してくれるか心配です。
> >
> > 無理でしょう。
> > そのころには、御兄弟も身体が弱り、自分の身の始末だけでいっぱいいっぱいか、もしくは介護を受けていられる可能性のほうが高い。
> >
>
> 勘違いしたのかも?
> 他人同士、兄弟姉妹と呼びあうことに慣れていないので、つい
> ここで通りすがりさんが言われる「兄弟」とは、実の御兄弟かと思ってしましましたが、日曜日教会に集っておられるということですので、日頃「○○兄弟」と呼びあう教会員のかたのことだったのかな?
>
> だったらなおさら、○○兄弟に介護は期待できないのではないですか?
> 御自分が「自分は介護をして欲しいけれど、誰かの介護はしたくない」って思っておられるように、その○○兄弟も介護はしたくないって思っていても不思議はないでしょう。(笑

 兄弟でなく兄弟姉妹ですね。宗教の兄弟でなく、実の兄弟姉妹です。最近は親でさえ介護も葬式もしない極端な場合が多いので、期待はできませんが、やはりだれにもみとられることなく死ぬのもいやですね。せめて骨ぐらいは拾ってくれないとね。うちの係累には無縁仏が多いらしく、そういう因縁なんですかね。

 極楽トンボのような桃青さんと見受けたのですが、語御堂の介護に苦労されていることをしって、桃青さんも苦労してると思うこのごろ。
 政治と行政がもっと高齢者介護に力をいれ、介護人の充実を謀ってくれればねー。桃青さんのような聖職者も葬式だけでなく、死にそうな人を救うのに努力して欲しいと思うこのごろ。
 桃青さんも、神様でなく、弱い人間でしかもか弱き女性であるので、神仏におすがりするように、要望をだすのは間違いでしょうが、つい愚痴がでてしまいます。

タイトル不幸
記事No1988
投稿日: 2013/04/05(Fri) 12:10:04
投稿者桃青
>  極楽トンボのような桃青さんと見受けたのですが、語御堂の介護に苦労されていることをしって、桃青さんも苦労してると思うこのごろ。

ふふふ。
亡くなった師匠は、説法の前振りによく

「幸福なひとはこんなところへ来ません。
 ここへ来ているひとは、みーんな不幸なひとばっかりですよ。」
と、言っていました。

居並ぶものは、皆互いに顔を見合わせて力なく「は・は・は。」と、笑ったものです。

今から思えば、この師匠の話は、現実に何らかの問題、例えば会社の経営が思わしくない。子供の素行が悪い。旦那が家庭を省みない。自分自身のあるいは家族の病気、などなど。を抱えているひとを指して不幸なひとと言ったと同時に、仏教では満、不満といいますが、満たそうとして満たされないひと、つまりは人間全員を不幸なひと、と言われたのだな。
と、解ります。

亡くなった師匠はね、世間の苦労話をするようでちゃんと仏教の行苦、大乗の教えを踏まえて御話をされていたのだなあ。
と、今は解りますが、問題を抱えていた当時の私には、そんなところまでは気がつきませんでした。

私、自分が大変だった経験はあまり書きたくないので、書きませんが、これでも結構、いろんな体験をしているのですよ。

なので不幸の中にある人間がどんなに幸福になりたいと願っているか。
は、少しは解っているつもりです。

私が某M教が気になってならないのも、某M教の「人間の幸福」「人間の不幸」の捉え方が、とっても浅いのと
表看板には、

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。」

という看板を掲げながら、人間はなぜ疲れるのか、何故思い荷物を背負うことになるのか、
つまり、人間は何故不幸になるのか、についてロクに考えようともせずに

「幸福な者は某M教会へ、不幸な者は他所の宗教へ行けば良いのだ。」
「某M教会員じゃないから不幸になるのだ。」

と、何のためらいもなく言い切ってしまうところが気になってしまうのでしょうね。



>  政治と行政がもっと高齢者介護に力をいれ、介護人の充実を謀ってくれればねー。

ですから、ね。
生産年齢でもなく、経済活動もできなくなった人間(ぶっちゃけ国家運営上、足手まといで居ないほうが、国家にとっては好都合な国家構成員)に対して、国家や社会はどういう視線を持つべきなのか。
が、問題になって来るのですよ。

それは「国家と人間」という問題でもあり、「人間とはなんだ。」という問題でもある。

「すべては選択の結果、自己責任」という人間観なら、老後、質の良い環境と介護人を確保するのもしないのも自己責任ですからね。

私は、「認知症になっても家族に大切にしてもらえるかどうかは、それまでのそのひとの生き方による。」
という考え方も要注意な考え方だと思っています。

それは、国家が「国家にとって足手まといの者をどうするか。」という問題を家族の問題にすり替える危険性があるし、
また「全ては自己責任」という考え方にも抵触する考え方ですからね。


>桃青さんのような聖職者も葬式だけでなく、死にそうな人を救うのに努力して欲しいと思うこのごろ。

死にそうなひとを生還させるのは、医者の役目でしょう。

>  桃青さんも、神様でなく、弱い人間でしかもか弱き女性であるので、神仏におすがりするように、要望をだすのは間違いでしょうが、つい愚痴がでてしまいます。

なぜ愚痴なのか、よくわかりませんが。

私は、仏をこの上無く信頼しているし、その教えにすがってもいますよ。
牛の尻尾にすがるハエのように、法華経の教えにね。
南無妙法蓮華経。