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タイトルクローズアップ苦悩
記事No2006
投稿日: 2013/04/22(Mon) 11:19:23
投稿者桃青
盲人が象をなでる。と言うが、苦悩というものもそのように、自分が触ったところが全てだと思うのかもしれない。

母がアルツハイマー型認知症になり、認知症の周辺に存在する苦悩の様々が見えるようになった。
当たり前だが、私と似た苦悩を感じていおられかたもおられれば、私とは違うところで苦悩を感じておられるかたもおられる。

法の伝道師たる諸先輩は、認知症の周辺の苦悩に対して、どのような仏法の言葉を持っておられるのだろうか、と
複数の導師のかたに、私の苦悩を話してみたところ、これがですね、私の苦悩が通じないんですわね。
私の苦悩とは、「私もまた見苦しい姿で、周囲のひとに迷惑をかけて生きなければいけないのか。
家族の絆、助けあいと言われても、そのような姿になった私が居ないほうが、家族はもっと楽しいことに時間とオカネを使うことができるでしょう。
私は、愛してやまない家族なればこそ私などのために貴重な時間とオカネを費やしてもらいたくないのです。
人間80年、90年、100年まで生きてその最後の10年、20年。一生という時間の五分の一という長い期間をこのような姿で生きなければならない人間とは・・・。」
つまりは、「人間とはなんだ。」という根元的なところへ帰結するものなのだが、こういう苦悩は少数派なのだろうか。

「桃青さんは認知症にならないから大丈夫だって!」(←根拠ないだろおーーー!!)
「お母さんは、自身が認知症になることによって、桃青さんに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。
なので、介護は嫌だ、苦しいとばかり思わずに、そういう面もあるのだということで・・・。」
(←これも法話としては定番で、認知症ばかりでなく苦悩のあらゆる場面で話されることですが、受け取る時と場合によっては、こじつけだとしか思えないこともある。
信仰とは、耐えがたい現実問題を解決できないままに、別の意味を持たせるだけの役割を担うものなのだろうか。
耐えがたい現実問題を直視する勇気と、その問題の現実的解決法を見出す勇気を与えてくれるのが本当の信仰なのだと、私は思う。
そして、それは仏教であり、天台中観であり、日蓮聖人なのだと。)

私「菩薩と思えとか、親は苦労してあなたを育てたのだから、恩返しとか、認知症を介護する側の心得ばかり、説かれますが、介護される側、つまり、自分が認知症になった時の心構えも、もっと説かれても良いと思うのですよ。
お寺には、明日にも認知症になるかもしれないかたがいっぱい来られているじゃないですか。」
導師「そうです!そうです!ですからね。子供が当てにならない時は、早く成人後見人を決めて置くべきなのですよ。私も、もう○人の檀信徒のかたの後見人しています。」
(←いや、そういうことではなく。と、言ってもダメか。)

タイトル三浦綾子さん「身障者の使命」
記事No2007
投稿日: 2013/04/23(Tue) 12:29:03
投稿者桃青
「お母さんは、自身が誰もが嫌がる認知症になることによって、桃青さんに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」

「氷点」の作者でクリスチャンの三浦綾子さんは、誰もが何かの使命を持って生まれて来る。というキリスト教の教えに従って
「身障者は、誰かに善行を行わせることを使命として生まれたのだ。」
と言われ、当の身障者のかたからも批判の声があったと聞く。
三浦綾子さんの「(身障者に対して)善行を行わせるのが身障者の使命」と、「認知症になることによって、誰かに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えた」という説は、キリスト教と仏教の風味が違うが、内容はまったく同じである。
宗教、信仰の場ではいつでもどこでも誰かによって思いつかれやすいロジックなのだろう。

しかし、どうなのだろう。
実際に認知症になった者が、「私はあなたが如説修行できるように認知症になってやったのだ。」と、自分で言い出したら、言われたほうはむっと来るだろうし、周囲も「自分で言うことではないわな。」と、言うだろう。
それはつまりは「認知症になったひととは、認知症になってまで、あなたに如説修行の機会を与えてくれた菩薩。」というのは、美しいファンタジーではあるが、実相ではない。ということであろう。
実相ならば、本人が「私は、あなたが如説修行できるように認知症になった菩薩なのだから、もっと私を大切にして、私のために書写行しなさい。唱題行をしなさい。」と言いだしても誰も反発はできないだろう。
本人が言ったら認められず、誰かが話すから美しく聞こえるというところが、それが真実実相ではないことを物語っているのではないだろうか。
本当に美しいひとや、頭の良いひとが、
自ら「私は美人だ。」「私は頭が良い。」と、言ったら、
「美人や頭の良さを鼻にかけて嫌な奴。」と、思われることはあっても、美人である。頭が良いということを認めざるを得ない場合と比べてみたらわかるだろう。