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タイトル宗教的真実
記事No2014
投稿日: 2013/04/30(Tue) 11:54:12
投稿者桃青
某M教には「宗教的真実」という言葉が好きなひとが多く居る。

宗教的な荒唐無稽な御伽噺や、教えや説教の現実世界との整合性のなさを指摘されると、
「これは宗教的真実ですから、信じないか、信じるかだけです。」という。
宗教的真実とはどんなものかの実例を知りたければ、某M教の機関紙を一冊読むだけで解るだろう。

しかし、宗教的真実が好きなひとは、某M教だけに居るのではない。
仏教を聞くひとにもいる。沢山いる。
どちらかと言えば、宗教的真実を求めるひとが宗教の門を叩き、宗教の熱心な信仰者になるのではないか、と思いたくなるときもある。


認知症に関して
「誰もがなりたくないという姿になってまで、あなたに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのです。」
というのは、「宗教的真実」の部類であろう。

何故なら、それが「宗教的」という冠をとった「真実」なら、
認知症になった世界中の人々、そして動物は全て、誰かに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えるために、わざわざ認知症になったということになるが、こんなことを認知症学会で誰も発表しようとは言ってる御本人も思わないだろう。
某M教の論者は、しきりに「医学的真実と宗教的真実は違う。宗教的真実は、医学的真実とは、別の次元に存在する。」という類のことをいう。
そういわなければ、某M教は成り立たないからである。
医学的(科学的)真実と宗教的真実は違う。などと難しげなことを言っているが、要は「現実無視の夢物語ですよ。」と言うのとどこが違うのだ?
しかし、
現実の現象をありのままに観じるところから始まる仏教は、医学的真実を見つめたところにも、法を観じなくてはウソだろうと思う。
某M教あたりの宗教者は、現実と乖離した教説を擁護存続させるために、宗教的真実、医学的(科学的)真実と言うが、医学的真実とは、現実現象なのだ。

空も、無自性も、そして一念三千も、現実をありのままに見て、見て、見つめて、現実といささかの乖離もない。

タイトルRe: 宗教的真実
記事No2016
投稿日: 2013/05/02(Thu) 11:13:38
投稿者桃青
某M教の中にも、某M教が説く宗教的真実とは現実乖離の御伽噺だと、承知しているひとは多数おられます。
彼らは現実乖離の御伽噺を真実と信じているひとを「せっかく美しい夢を見て良い気持ちでいるのだから、彼らの夢を醒ましてはいけない。また、そのような権利は誰にもない。」
と、いうようなことを頻りに言われます。
自分とこの教説が現実乖離の夢物語と解っていて、教会員が増えることを願うってどういうこと?
と、現実主義の私は不思議でしかたないのですが・・・。

しかし、

「わざわざ人の嫌がる認知症になってまで、誰かに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのです。」

実際にこう説かれる時、「誰かに」には、必ず認知症のかたを介護する立場になったひとの名が入るので、これは、介護に苦しむ者に対して与えるために用意された言わば美しい夢物語なのではないかと思う。
これを言う御本人が、例えば認知症になった私の母を観て、
「ああ、桃青さんのお母様は、この私に受持・読・誦・解説・書写する機会を与えるために、認知症になってくださった菩薩なのだ。なんとありがたいことだろう。」
とは、決しておっしゃらない。(笑)
つまり、認知症になった母は、私には菩薩でも、そのかたには菩薩では無いとおっしゃっているのと同じです。
それて、仏教的には変じゃないですか?

ひとりの人間の中に全ての人間を観じ、全ての人間にひとりの人間を観じる。
それが一念三千の世界です。

認知症になったひとを「誰かに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えるためにわざわざ認知症になってくださった菩薩。」と、捉えるなら、それは全ての認知症になったひとのことであり、誰かとは、これまた全てのひとである。
というのが仏教的には正しい捉え方なのではないかと思います。
認知症もまた人間というものが普遍的に抱える苦の姿と捉えるのが仏教的な捉え方なのではないでしょうか。
そしてそこからは認知症に関わる全ての問題を自分の問題として考え解決して行こうという姿勢も生まれるでしょう。

しかし、「誰か」に、具体的な介護者の名前が入ると話が違ってきます。
「○○家の誰それが認知症になった。それは○○家の問題であるからして、その家の者が一心に唱題し、書写すればよいことなのだ。」
で、留まってしまう。
そこからは、全ての認知症に関わる問題を皆で共に解決していこうじゃないか。という仏教的な姿勢は生まれようがないのではないかと思われます。

実際、介護者の現実的な苦悩を救うのは、性能の良いリハビリパンツ。や、介護保険だったりする。
介護保険というもの、「自己責任」という発想からは生じようがないものでしょうに・・・。
日本人は介護保険を当たり前のように、考えていますが、全てを「個人の行為の結果」と見る自己責任の人間観では、介護保険などというものがあるほうが間違っているのですよ。
熱心に唱題行する○○家の方々も介護保険は使うでしょう。
そして、その教説によってどこか日本と日本人を下に見ている傾向のある某M教のかたがたも日本に住まいする限りは日本の社会制度を当然のごとく利用するでしょう。
そういうことです。

タイトル「宗教的真実」に心穏やかでいられない。
記事No2021
投稿日: 2013/05/06(Mon) 10:50:29
投稿者桃青
別スレでぽん州さに御示唆をいただいて、母の世話をする時唱題してみた。
唱題してみて、自分の心のざらつきがよく解った。

そして、私は何故、私に向かって説かれた
「桃青さんのお母様は、誰もが嫌がる認知症になってまで、桃青さんに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
という言葉に、心が穏やかでいられないかも解った。

母はなりたくて認知症になったわけではない。
という現実がある。
母は、認知症を自覚した時から、この話をした導師に向かって「ぼけるってヤだよぉー!!」と、あんなに何度も何度も悲痛に訴えていたではないか。
母は「認知症になりたくない。なりたくない。」と、身悶えするような苦しみのなかに認知症になって行ったのだ。

それを
「わざわざ誰もがなりたくない認知症になってまで、桃青さんを導く菩薩なのです。」
と、説くのでは、母の手に掴んだ砂がこぼれおちるようにずるずると認知症の中に沈んで行く恐怖、不安というものを全く度外視しているではないか。
母はわざわざ認知症になってくれたのではない。
母ばかりでなく認知症になるひとは、誰ひとり、あの者に仏道修行させてやろうとなど思って認知症になるわけではないだろうに。