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タイトルう○こ祭り
記事No2032
投稿日: 2013/05/15(Wed) 12:29:58
投稿者桃青
日記のほうに書くべきことがらかもしれませんが、

今朝の母は、久しぶりのう○こ祭り、でした。

人間だから、認知症になるのです。

お寺へは、「どうして親は、配偶者は、認知症になったのでしょう?」
「私は、何故、認知症の親や配偶者を介護しなければならないのでしょう。」
という、苦しみを訴えるかたがよほど多いのでしょうか。
認知症に関しては、
「誰もが嫌がる認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
という話しかなされない。

何故認知症になったのでしょう、って。ね。
そりゃ、人間の肉体を持っているからですよ。
生きていれば、風邪もひくし、認知症にもなる。
ただそれだけ。

タイトルRe: う○こ祭り
記事No2035
投稿日: 2013/05/15(Wed) 22:50:25
投稿者ぽん州

> 今朝の母は、久しぶりのう○こ祭り、でした。

仏だってウ●コ祭りをするでしょ。仏がウ●コ祭りしたら
いけないの?

南無妙法蓮華経

タイトルRe^2: う○こ祭り
記事No2038
投稿日: 2013/05/16(Thu) 00:49:24
投稿者桃青
>
> > 今朝の母は、久しぶりのう○こ祭り、でした。
>
> 仏だってウ●コ祭りをするでしょ。仏がウ●コ祭りしたら
> いけないの?
>
> 南無妙法蓮華経

仏のう○こもやっぱり臭いのでしょうか?

タイトルRe^3: う○こ祭り
記事No2040
投稿日: 2013/05/16(Thu) 20:56:53
投稿者ぽん州

> 仏のう○こもやっぱり臭いのでしょうか?

お袋は腸閉塞だったから、排便コントロールしてたので
下の世話は他人任せ。 で 臭いに関しては どーだったかな
覚えていないけど 臭いと思えば臭いような気もするね。

タイトルRe^4: う○こ祭り
記事No2043
投稿日: 2013/05/17(Fri) 11:42:42
投稿者桃青
> お袋は腸閉塞だったから、排便コントロールしてたので
> 下の世話は他人任せ。 で 臭いに関しては どーだったかな
> 覚えていないけど 臭いと思えば臭いような気もするね。

お母様は、腸閉塞という御事情もあったので、また違うのでしょうが、
たとえ認知症のかたが仏菩薩であっても、誰かがそのかたのう○この御世話をして、「う○こ、くっさーい!気色悪ーい!」という嫌な思いを引きうけることには変わらないのですね。

私や皆さんが、認知症になれば、誰かに「う○こ、くさ〜。気色わるーい」という嫌な思いを引きうけて貰わなくては、身を保つことができないのです。
誰かに、嫌な思いを押しつけながら、その誰かに向かって
「私は、あなたを法に導くため認知症になったのですよ。」
と、言えますか?思えますか?
私は思えません!!

どんなに介護に慣れても、たとえ専門職であってもう○こ祭りに出会えば、気持ちは萎えるものなのです。
たとえ、仏菩薩のう○こ祭りであっても、う○この形状や祭りの様相が同じであれば、気持ちは萎えるでしょう。
そういう気持ちの萎えを汲みとることも、抜苦与楽の菩薩行を目指すのなら、必要なのではないのでしょうか。
おそらく、介護保険の制度化に尽力したひとや製紙会社の製品開発のひとのほうが、「わざわざ認知症になってまで、あなたに法に出会う機会を与えてくれた菩薩である。」と、説くひとよりは、そのような介護する立場の者の気持ちの萎え(苦悩)に理解を持って、現実的な解決を模索しているような気がしてきた・・・。

釈尊は人間の苦しむ姿をみて、法を説かれたはずなのに・・・。

タイトルRe^5: う○こ祭り
記事No2044
投稿日: 2013/05/17(Fri) 14:31:46
投稿者ぽん州
> > お袋は腸閉塞だったから、排便コントロールしてたので
> > 下の世話は他人任せ。 で 臭いに関しては どーだったかな
> > 覚えていないけど 臭いと思えば臭いような気もするね。
>
> お母様は、腸閉塞という御事情もあったので、また違うのでしょうが、
> たとえ認知症のかたが仏菩薩であっても、誰かがそのかたのう○この御世話をして、「う○こ、くっさーい!気色悪ーい!」という嫌な思いを引きうけることには変わらないのですね。
>
> 私や皆さんが、認知症になれば、誰かに「う○こ、くさ〜。気色わるーい」という嫌な思いを引きうけて貰わなくては、身を保つことができないのです。

だから僕は、お袋の下の世話なんてやってられねーぞ って ケアマネージャーさんに
言いましたよ。僕の代わりにお袋の下の世話を変わってくれる制度があるなら
菩薩行云々とは別の話と思っています。 幸いにその制度を最大限活用させて
いただけたから、 お袋が仏様なのです。

> 誰かに、嫌な思いを押しつけながら、その誰かに向かって
> 「私は、あなたを法に導くため認知症になったのですよ。」
> と、言えますか?思えますか?
> 私は思えません!!
>

僕が菩薩の道を行ずるためにお袋が菩薩となったのではなく、お袋を仏とみなしていくのは、お袋の中に 仏を見出していくのは
僕のベクトル、僕の勝手です。

> どんなに介護に慣れても、たとえ専門職であってもう○こ祭りに出会えば、気持ちは萎えるものなのです。

だから 萎えないために 制度を利用したり 追い詰められない方策を考え実行すれば良い。
なれない人間にケツの穴を掃除されるより、専門家にやってもらったほうがご母堂も
気持ち良いでしょうし、幸せでしょうから。

> たとえ、仏菩薩のう○こ祭りであっても、う○この形状や祭りの様相が同じであれば、気持ちは萎えるでしょう。

だから 割りきって 他人に(専門家に)任せるべきです。

> そういう気持ちの萎えを汲みとることも、抜苦与楽の菩薩行を目指すのなら、必要なのではないのでしょうか。

こんなところに 抜苦与楽の菩薩行 を持ち出さない。 僕は 訪看さんの手際良さと、
お袋の満足気な顔と、僕のお気楽さと すべてが相まって、 お袋との良好な
関係、お袋の尊厳を保つことができたなあ と思います。訪看さんはプロです。
菩薩行云々なんて失礼です。訪看さんが菩薩であったとしても。
  
> おそらく、介護保険の制度化に尽力したひとや製紙会社の製品開発のひとのほうが、「わざわざ認知症になってまで、あなたに法に出会う機会を与えてくれた菩薩である。」と、説くひとよりは、そのような介護する立場の者の気持ちの萎え(苦悩)に理解を持って、現実的な解決を模索しているような気がしてきた・・・。
>
> 釈尊は人間の苦しむ姿をみて、法を説かれたはずなのに・・・。

「わざわざ認知症になってまで、あなたに法に出会う機会を与えてくれた菩薩である。」が
間違いかというと、決してそんなことはありません。それで安心を得られて
救われる人がいるなら、それもまた一つの方便でしょう。他人の安心を
異安心と決め付けるのも 釈尊の出世の本懐とばかりは言えない気もします。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^6: う○こ祭り
記事No2045
投稿日: 2013/05/17(Fri) 18:31:46
投稿者桃青
> だから僕は、お袋の下の世話なんてやってられねーぞ って ケアマネージャーさんに
> 言いましたよ。

御世話になっているケアマネさんは
「殆どの息子は役に立たない!ダメ!パットの交換でさえ出来ないんだから〜」
と、言われていました。

>僕の代わりにお袋の下の世話を変わってくれる制度があるなら
> 菩薩行云々とは別の話と思っています。

そうでしょうか?
仏を信心し、成仏を願っての菩薩行。
日蓮宗は菩薩行を大切にしています。と、説くのなら、日常全てが菩薩行にならなくてはウソでしょう。
日常生活のこの部分は菩薩行。こちらは、菩薩行オフレコね。
では、おかしいのではないでしょうか?

>幸いにその制度を最大限活用させて
> いただけたから、 お袋が仏様なのです。
>

そういうことです。
誰もが安心して仏道修行に打ち込むことができる世界が浄土なんですよね。
介護保険がなかったら、私も仕事できませんから、たちまち生活自体が行き詰まってしまいます。

しかし、介護保険をあるのが当たり前の制度だと思っていると、とんでもないことになるかもしれませんよ。
制度なんてものは、それこそ誰かかれかの都合で、簡単に変わりますから。
介護保険をしっかりとしたものにして行くの行かないのも、私たち一人一人の意識の問題です。

「介護くらい家族がするのが当然。」
「親を施設にいれるなど、子供として、してはいけないことです。」

こんな意識を大勢のひとが持てば持つほど、介護保険を充実して行くことはできません。

「認知症になってまで、あなたを法に導く菩薩。(と見えないようでは、いけない。)」
これも、皆が安心して菩薩行できるよう介護保険を充実して行こうではないか。。というところへはつながりにくい。
「そんな有り難いかたの下の世話を自分がしたくないからといって、他人に任せるとは何事だ。」
「あなたのために認知症になってくださった菩薩様に対して、う○こ祭りに心が萎えるなど口に出しても、思ってもいけない。」
ということになる。

>
> 僕が菩薩の道を行ずるためにお袋が菩薩となったのではなく、お袋を仏とみなしていくのは、お袋の中に 仏を見出していくのは
> 僕のベクトル、僕の勝手です。
>

ですからね。例えば、ぽん州さんが、お母様の中に仏を見出すことが間違っている、とは言っていません。

介護から生じる問題に苦悩する者に向かって
「誰もが嫌がる認知症になってまで、あなたを導いている菩薩である。」
と、思わけなければならない。思えるようにならなければいけない。

と、押し付けるのはどうなのか、と、言いたいのです。

> だから 萎えないために 制度を利用したり 追い詰められない方策を考え実行すれば良い。

ですから、介護に関して
「誰もが嫌がる認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
と、だけしか説かないのは、心萎えている者に制度を利用することを躊躇させてしまう懸念がある。
と、言っているのです。

同様に「親を施設にいれるなど、子供として、してはいけないことです。」
も、介護保険を利用することを躊躇させるのに十分な言葉だと思いますよ。
介護保険を利用しようとすると、まず、当人が猛烈な抵抗をする例がほとんどです。
その抵抗のいくばくかは、こうした言葉を日頃聞いたり、言ったりしてきた経験にも拠るのでは、ないかと思うのですが・・・。
すなわち、施設を利用したり、介護保険を利用するひとを見て、
「あのひとは、家族がいるのに、面倒を見てもらえない。家族に捨てられた。気の毒だ。」

> なれない人間にケツの穴を掃除されるより、専門家にやってもらったほうがご母堂も
> 気持ち良いでしょうし、幸せでしょうから。
>

いーえ。母は私に面倒を見てもらいたいのですよ。
まだ元気なころの母は、介護されるようになった知人や親せきの誰かれを見舞に行って帰ってくると
「あのひとは家族に捨てられた。」だの、「あのひとは、娘や息子、優しい嫁さんに家で至れり尽くせり面倒を見て貰って、幸せだ。」「おまえもまさか、親を施設などいれたりしないわね。」と、言い言いしてましたから。
それでも、とうとう一人にはしておけなくなり、私も仕事をしなければなりませんから、介護サービスを受けることとなったのですが、デイサービスのかたが迎えに来たら、逃げ回って暴れましたよ〜。
ショートへ行ってもらったら「家に帰ると言って暴れているから迎えに来て欲しい。」と、呼び出しがかかったこともありました。

これは母ばかりではなく、どんなかたでも、いざ、行くとなると、殆どのかたが、「行きたくない」と、抵抗されるようです。
今はもう母は、そんな段階も過ぎて、デイもショートもスタッフのかたの誘導のままに、だまって連れて行かれる母ですが、私としては、母に対して「あんなに嫌がっていたところへ行ってもらっている。」と、いう後ろめたい気持ちはあります。
施設では、精一杯の愛想を振りまいて「有り難い、有り難い」を連発している母ですが、家に帰って来ると私に対しては、とーっても不機嫌です。
これも母にかぎったことではなく、ケアマネさんは
「一番身近で御世話するするひとに対して出る。」と言われますが、「あんなに言っておいたのに、よくも親を施設へ行かせたわね。」という怒りも「我が子にかぎって親を施設になど行かせないと思っていたのに・・・。」と、悲しみもあるのではないかと、思うのですよ。

>
> こんなところに 抜苦与楽の菩薩行 を持ち出さない。


そうでしょうか?
現実には、う○こ祭りに参加して呻吟するかたは多数おられるわけで、そうした苦悩を聞きとるのも、観音行ではないのでしょうか?
人間が仏に成って行く過程は、そういう人間の苦悩がよく聞こえるようになって行く過程でもあると、理解しているのですが。。。


> 僕は 訪看さんの手際良さと、
> お袋の満足気な顔と、僕のお気楽さと すべてが相まって、 お袋との良好な
> 関係、お袋の尊厳を保つことができたなあ と思います。訪看さんはプロです。
> 菩薩行云々なんて失礼です。訪看さんが菩薩であったとしても。

プロだから、う○こ祭りの世話など何も思わずお手のものだろう。
というのは、間違いです。
プロ意識に徹すればこそ、の手際です。
オフレコでは「できたらしたくないよね。」これが本音。
母の久しぶりのう○こ祭りは、デイサービスのスタッフが御迎えに来て、玄関を出ようとした時に始まりました。
具体的に言えば、異臭と異音に気が付いて、リハビリパンツの中を覗いてみたら、下痢便が・・・(後は御想像にまかせます。)

私とスタッフ二人、同時に「あーーーー!!」
御二人は複雑な顔を見合わせておられる。
私「ごめんなさい。少し待っていていただけますか。着替させて来ますから。」
大急ぎで、始末して、連れて行くと、
御二人は、実に嬉しそうに「ありがとうございます。」「ありがとうございます。」 と、何度も私に頭を下げて行かれました。
こういう場合、スタッフが来たことを良いこと幸いに、「着いたら替えてくださいね。」と、預けてしまう家族が殆どだそうで、「くそー、低賃金で自分が嫌なことをさせるなー。」と、思わず頭に来る、みたいなことが書いてあったのを読んだことがあります。
少しでも嫌な思いをさせてはいけない、と、私は、おえーを堪えながら頑張りましたよー。(笑)
でも、かなーり、いい加減に拭いたので、後で御二人
「しまった。あんなに何度も御礼言うんじゃなかった。」と、思われたかもしれません。
認知症のう○こ祭りの周辺にはそんなこともあります。
施設のスタッフだって、できればう○こ祭りに参加したくないでしょうて。
看護師さんでも、あまり汚い症状の患者さんの御世話は、嫌だ、と言われますもの。
それをプロ意識で乗り切るのも菩薩行、観音行でしょう。
というより、「患者さんが少しでも楽なように」というプロ意識を持てるのも、十界互具の人間だからこそ、だと私は思っています。

>
> 「わざわざ認知症になってまで、あなたに法に出会う機会を与えてくれた菩薩である。」が
> 間違いかというと、決してそんなことはありません。それで安心を得られて
> 救われる人がいるなら、それもまた一つの方便でしょう。

ですから、私は、「それも間違いではないだろうが、そればっかりでも、問題ではないか。」
と、書きました。


>他人の安心を
> 異安心と決め付けるのも 釈尊の出世の本懐とばかりは言えない気もします。
>

異安心と言う言葉は、ぽん州さんが

>桃青さん流に言えば
> できないから俺は人間だ と安心するところもあります。

と、書かれたので

私は、べつに
「これでいいのだ、人間だから。(別に仏にならなくてもいいんだ。)
とは思ってません。」と弁明したのですけれど。

で、「人間でいいのだ。」というところで安心してしまうことを真宗では「異安心」というようです。
と、補足説明したのであって、「仏に成る」教えを奉じておられるぽん州さんの安心について「その安心は異安心だ。」とは言っておりません。

かいつまんで言えば、

私は、菩薩行が少しでもできるようになりたいと願っていて、決して「これでいいのだ、人間だから。」とは思っていない。
もし、私が「これでいいのだ、人間だから。」と、思っていると、ぽん州さんが、思われたのなら、それは間違いです。

と、言いたかったのですが・・・。

タイトルう○こ祭り補足
記事No2050
投稿日: 2013/05/19(Sun) 23:31:38
投稿者桃青
> だから 萎えないために 制度を利用したり 追い詰められない方策を考え実行すれば良い。
> なれない人間にケツの穴を掃除されるより、専門家にやってもらったほうがご母堂も
> 気持ち良いでしょうし、幸せでしょうから。

知っておられるかたには、蛇足ですが、
介護サービスで、毎日の便の処理にヘルパーが通って来ることはありません。
もし、一人暮らしで、下の世話を含めて生活全般の介助が必要になったら、いやおうなく施設へ入居することになります。
ぽん州さんのお母様は、腸閉塞に対する医療行為として、便コントロールのもと訪問看護師のかたがされていたのでしょう。

排便はいつ起きるかわかりませんので、それに合わせてヘルパーが来てくれるなどということは、ありません。
24時間、看護師なりヘルパーなりを自費で雇わない限り、同居する家族が、下の世話を担当することになります。

ぽん州さんは、もちろんそれを御存知で書いておられるとは思いますが、まったく介護保険制度を利用したことのないかたが、誤解されるといけないので、補足いたしました。

また、う○こ祭りというのは、トイレへ誘導して排便させる。あるいは、リハビリパンツの中にされた状態の良い排便の始末を意味しません。

例えば、弄便、あるいは、リハビリパンツ&パットから漏れ出るほどの多量の便(多くは下痢便)、トイレではないところで為された排便。
(朝起きたら、リビングが大変なことになっていた等)
激しい状況になっているので「祭り」なのです。
女性の場合は、あまりないのですが、男性はその肉体的構造によるのか、場所を構わずの排尿をされることが多く、これを「大洪水」と呼んだりします。

う○こ祭りや大洪水に遭遇したら、心は萎えます。
それが毎日のように、というかたもおられます。

そうでなくても、虐待が起きるきっかけは、排便の介助や、粗相だったりすることが多い。
特に介護するひとが男性の場合。

母は幸いなことに、恐怖の弄便は、2,3度、それもカーテンにう○こをなすりつけるくらいで、卒業しました。
トイレへ誘導した時に大体は排便してくれますし、リハビリパンツの中になされる場合も、振れば落ちるという状態で、先日のような激しい下痢便や、寝ている時にお祭り状態になり、朝、ベッドの中で背中までべっとり、布団やシーツが・・・というようなう○こ祭りは滅多にありません。
これが、毎週一、二度、あるというかたもおられるのですから、私は楽させていただいてますね。
この点では、本当に母に感謝しています。
こういう場合、信仰者は「お母様は、長い間法華経を信仰してこられたから、」とか「御題目のお陰ですね。」とか、言われたり、家族もそのように周囲へ言ったりしますが、私はそのように言わないようにしています。

何故なら、母のう○こ祭りの開催が稀なのが、信仰して来たからなのか、御題目のお陰なのか、立証のしようがない以上、
「法華経を信仰していれば、そして御題目を唱えていれば、認知症の症状が激しくなくてすむ。」
という短絡的な因果関係の方向へ話が行ってしまうことを警戒するからです。

亡くなった師匠が「あのかたは、法華経に書いてある通りに、生きておられる。」と、称賛されていたかたが、最後は大変苦しい病となり、「法華経を信仰して来たのに、何故、こんなに苦しい病になったのだ。ほんとうに、どうして私はこのようになったのだろう?」と、ばかり悩まれ、師匠がどんなに言葉を尽くして、話をされても、まったく耳をかさず、「何故だろう?何故だろう?」と、苦しみつつなくなられた、と、師匠から伺いました。

熱心に信仰し、唱題行もしてきたのに、、とがっかりしないためにも、また、御題目さえ唱えていれば大丈夫と心の準備をしないより
「病になる時はなる。」という現実をしっかり伝えたほうが、心の準備を含めて、適切な対応を考えておくことができるのではなかと思います。

半生をひたすら菩薩道を歩かれたかたでも、苦しい病に成る時にはなる。
半生をひたすら教化に生きられたかたでも、認知症になる。
もしかしたら、そこから「わざわざ認知症になってまで、導く。」という説き方となったのかもしれませんが、認知症の介護の現場は、要介護者に菩薩の姿を観じる努力よりも、う○こ祭りに出会ったら、すかさず無感覚になる術を会得するほうが、心の疲弊を防いでくれるような気がします。
介護ブログを読んでいますと、この「無感覚の術」を早めに会得されたかたほど、早く楽になって行かれる様子がわかります。
私も、最近ようやくこの術をマスターしたのではないかと、思っていますが、つぎのう○こ祭りが来てみないことには、わかりません。