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タイトルとーちぜーしょ
記事No2053
投稿日: 2013/05/20(Mon) 22:28:02
投稿者ぽん州
こんばんは。 違う環境からアクセスすると、桃林がブックマークにないから、
玄関から入ることになりますね。
で、当知是処 即是道場 というテロップを久しぶりに見ました。
寝床からとび起きて、掃除をします。 朝まで 延ばしていた仕事を片づけます。
他人の中に勝手に仏を見出していくのは、愉快なことだなあ とおもいますね。
まあ ともかく とーちぜーしょ そくぜーどーじょー は新鮮な響きでした。
有難う。 南無妙法蓮華経

タイトル他人の心に、悪魔を見る
記事No2054
投稿日: 2013/05/21(Tue) 17:01:11
投稿者ぽん州
こんにちは。 すっかり暑いですね。 デモ寒いです。

もちろん他者に仏を見出していくというのを聞くのは胡散臭いですね。
で、他者の中に悪魔を創り上げていく。エクソシストの世界かな。
事実云々はさて置いて、真実を見ていく生き方もあるでしょうし、
最初に真実を解っていると勘違いして、閾値を設定してレッテルを作り
他者を攻撃していく。 多くの場合 幼児期の刷り込みでしょうね。

僕は、他者に「頑張れ!」とは言えないのだけど、3.11を経て
やっぱり「頑張れ!」と言うべき時もあると痛感しました。それで
救われていく人もあるでしょうね。 だから僕は何度も「頑張ってください」と
声をかけたのです。素直に受け取ってくれました。素直にこちらの意を
受け取ってくれた方は、僕にとっての変化の人なのですね。

南無妙法蓮華経

タイトルつまりは、まづ行動
記事No2055
投稿日: 2013/05/21(Tue) 18:58:42
投稿者ぽん州
最近は外でWiFiを使うようになったので、書き殴るんだけど。

宗教は政治的に行動し、事の根っこから変えていかないと変わらない
ということでしょう。 僕は、自分の生育した環境が電気屋の世界
だから、福島の事故が起こるまでは、原発の信奉者だったわけだけど
今は、深く反省している。 中電を辞めて大学に戻った従兄弟と
法事であうのだが、相変わらず電気屋根性の彼ともう価値観が
すっかりずれているから、会っても面白くもない。
今TEDを観ていたら、アル・ゴアが信念よりも行動すべき、あるいは
信念をもって行動すべき時と言っていたが、そうだと思う。
政治にコミットして法律を変えなければならないし、自分の事として
受け入れて、生活を変えていかなければ 何も変わっていかない。
憂さ晴らしをしてる時ではないんだなあと思う。

タイトルRe: 他人の心に、悪魔を見る
記事No2057
投稿日: 2013/05/22(Wed) 18:00:22
投稿者桃青
>
> もちろん他者に仏を見出していくというのを聞くのは胡散臭いですね。

胡散臭くはないですよ。
ぽん州さんが「私はは他者の中に仏を見た。」と、言われるのなら、ぽん州さんは確かに仏を御覧になったのだろうと、私は受け止めます。

「仏はどこから来るのだろうか。わたしが(仏のところへ)行くところとてない。わたしが念ずるところに現れたもうのである。心が仏を作り、心において自らの心を見るのであり、仏の心を見るのである。この仏の心というのは、わたしの心が仏を見たてまつっていることなのだ。心は自らの心を知ることはない。心は自らの心を見ることもない。心に想いがあることを愚かなこと【癡】という。心に想いがなくなったときに、悟りにいたった。【泥おん】(涅槃)というのである。このような心のあらわれは他に示すことができない。みな、念ずることによって、そのようなあらわれとなるのであって、念ずることができたときには、こころになんのとらわれれもない空を会得したというにすぎない。」
(天台大師『摩訶止観』より)

タイトルRe^2: 他人の心に、悪魔を見る
記事No2059
投稿日: 2013/05/22(Wed) 20:12:41
投稿者ぽん州
> 胡散臭くはないですよ。
> ぽん州さんが「私はは他者の中に仏を見た。」と、言われるのなら、ぽん州さんは確かに仏を御覧になったのだろうと、私は受け止めます。

だからさ、 僕が仏を観たことを 確かと受け止めていただけるなら
お母さんも仏であると 受け止めることもありなんじゃない?桃青さんの為に菩薩行を
積んでいるなんて、些細な事に拘泥しないで。 (でもブッダチャリタには
ゴータマという菩薩は、世の人々の苦を抜くために 誕生された と書いてあるから些細でないかもね)
仏だって、よだれを流すし、うんちも垂れ流すこともあるって。よだれを流して
ションベンをちびって、ウンコを垂れ流す仏って お嫌いですか?

南無妙法蓮華経

「低級な信仰」なのかなあ。 ← 勝手に挿入された??

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^3: 他人の心に、悪魔を見る
記事No2061
投稿日: 2013/05/22(Wed) 21:17:25
投稿者ぽん州
> > 胡散臭くはないですよ。

僕は 宗教に関わるものは 胡散臭いと思ってるのですよ。

桃青さんも 拙者も 胡散臭いのです。
その胡散臭さの中から真実を見出していけたらという思いです。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^4: 他人の心に、悪魔を見る
記事No2064
投稿日: 2013/05/23(Thu) 11:06:57
投稿者桃青
> 僕は 宗教に関わるものは 胡散臭いと思ってるのですよ。
>

そうなんですか。
私は、宗教には胡散臭い部分もあるけれど、宗教全てが胡散臭いとは思っていません。

> 桃青さんも 拙者も 胡散臭いのです。

私は自分が胡散臭いかどうか、正直どうでもいいです。
私を胡散臭いと見たければ、どうぞ、御自由にと言う感じ。
ぽん州さんを胡散臭いと思ったこともありません。

私自身は、できれば、このひとは胡散臭い、とか胡散臭くない、
とかでひと見ずに、このひとの言っていることはウソだな。とか、根拠がないな。
とか、正確に判断できるようになりたいと思っていますが。

> その胡散臭さの中から真実を見出していけたらという思いです。

それが

「宝山に来り登つて瓦石を採取し栴檀に歩み入つて伊蘭を懐き取らば悔恨有らん、」(日蓮聖人『法華取要抄』)

というような意味で言われているのなら、私も同感です。

タイトルRe^3: 他人の心に、悪魔を見る
記事No2063
投稿日: 2013/05/23(Thu) 10:49:45
投稿者桃青
> だからさ、 僕が仏を観たことを 確かと受け止めていただけるなら
> お母さんも仏であると 受け止めることもありなんじゃない?

ええと・・・。
私に「母は仏である。」と、観ることを強要しないでください。

私は、母を私と同じく十界互具の人間。
すなわち「あなたも、わたしも、皆、様々な相を見せてやがて仏となって行く人間」と見て、安心しているのです。
母もまた今世に「私、つゆ(仮名)」として生まれて様々な相を見せて、今世の修行を終えて行くのだ。
そして「私、桃青」もまた。

常不軽菩薩の「但行礼拝」も、「やがて仏になる」を礼拝したと聞いています。
この「やがて仏になる」ことの有り難さ、清々しさもまた、観たことのないかたには、わかっていただけないでしょう。
と、思いますけども。

南無妙法蓮華経。

>桃青さんの為に菩薩行を
> 積んでいるなんて、些細な事に拘泥しないで。

認知症の周辺症状に苦悩する家族に向かって
「あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩なのだから」と、法の導師が説かれるのですから、おっしゃるほど些細な事でもないでしょう。


> 仏だって、よだれを流すし、うんちも垂れ流すこともあるって。よだれを流して
> ションベンをちびって、ウンコを垂れ流す仏って お嫌いですか?
>

嫌うも何も、認知症になれば、誰でも否応なく大小便垂れ流すものなのですよ。
認知症になれば、ぽん州さんも垂れ流す。私も垂れ流す。
それが、認知症というものなのです。

そして、大人の垂れ流しの処理は、誰にとっても何らかの苦痛を伴うものなのです。

今朝も迎えに来たスタッフから「この間は、ありがとうございました。」と、何度も御礼をいわれましたよ。
それほど出がけの粗相の始末をスタッフが迎えに来たことを幸い、「じゃ、向こうへ着いたら替えてやってね。」と、お願いする家族が多い、ということでしょう。

わかりませんね。
何故、認知症の姿を仏である。菩薩である。と観なくてはいけないのですか?
認知症もまた、条件が揃えば(因と縁によって)あなたや私が見せる相。ではいけないのですか?

うらを見せ 表をみせて散る 紅葉かな

様々な相を見せて、私もあなたもいつか仏になって行くのです。

南無妙法蓮華経

>
> 「低級な信仰」なのかなあ。 ← 勝手に挿入された??

どこに?
私は挿入してません!!
なんという失礼なことを!!!

誤字、当て字があっても断りなく編集しないようにしているのに。
挿入なんてとんでもないいいがかりです。

ぽん州さんが、○○上人と個人名を書かれたのを「K上人」と書きなおしたのは、私のプライバシーに関わることだからです。
その旨御報告の書き込みもしましたでしょう?


そもそも私は、信仰を「低級な信仰」「高級な信仰」という捉え方をしたことがありません。
信仰は信仰。ただそれだけ。

発酵も腐敗も現象は同じ。それをこれは発酵、これは腐敗と分けるのは、人間の都合からでしょう。
そのように信仰も同じだと思っています。

タイトル事実と真実
記事No2065
投稿日: 2013/05/24(Fri) 09:48:47
投稿者桃青
> 事実云々はさて置いて、真実を見ていく生き方もあるでしょうし

事実を無視して語られる真実なら、真実と言う名付けられたファンタジー(妄想)でしょう。
ファンタジーを基として語られる宗教もありますが、仏教に惹かれるひとは全部とは言いませんが、私を含めてそうしたファンタジーを基とした宗教に安心できない者が多いように見えます。

仏教は事実、現実をひたすら見つめて、真実を掘り当てた教えですから、いくら事実、現実を突きつけられても、諸法実(空)相と呼ばれる真実が否定されることはありません。


> 最初に真実を解っていると勘違いして、閾値を設定してレッテルを作り
> 他者を攻撃していく。 多くの場合 幼児期の刷り込みでしょうね。
>

具体的にどういう事象に対してこのように言われているのかよくわかりませんが、幼児期の刷り込みを打ち破るものは、そのひとがもつ問題意識だけではないかと思います。

タイトル十界互具と仏
記事No2066
投稿日: 2013/05/24(Fri) 10:33:39
投稿者桃青
> もちろん他者に仏を見出していくというのを聞くのは胡散臭いですね。
> で、他者の中に悪魔を創り上げていく。エクソシストの世界かな。

十界互具ですから、認知症の母に菩薩の片鱗、仏の片鱗を見ることはあります。
同時に、餓鬼畜生の片鱗を見ることもあります。

私は、仏の片鱗、菩薩の片鱗を見て、「母の本態は仏だ。」とは思わないし、かと言って、餓鬼畜生の片鱗を見て「母の本態は餓鬼、畜生だ。」とも思わないのです。
人間は十界互具。様々な相を見せて、やがて、いつか仏になって行く可能性を持っている。
それが、法華経の説く人間観で、私は人間観としてはこれ以上現実の人間というものを捉えている真実はない。と、思っております。

「我が母」が、餓鬼畜生の片鱗を見せることを我を忘れるほど悲しむかたに
「わざわざ餓鬼、畜生になってまで、あなたを法に導く仏である。」
と、説くことも方便としては間違ってはいないと思いますが、
私のように、母も私も十界互具、なので、悲しいことに時に餓鬼、畜生の姿を見せることもあるのだ。
どんなに自分をコントロールしたくても、それができなくなる認知症になった時、私は、どのように己身の餓鬼、畜生に対処していったらよいのだろう。
と悩む、その悩みには、「お母さんは、わざわざ認知症になってまで云々」という言葉は、虚しくひびく。

人間が餓鬼、畜生の時、自分も苦しいが、周囲も苦しめる。
その苦しみを度外視して、「認知症の姿も方便、本態仏菩薩」と説くのは、私はどうも納得が行かない。

と、私は思うのであって、ぽん州さんがお母様に仏を御覧になったことを否定するつもりは、全くありません。
仏に出会われたということは素晴らしいことだと思います。

タイトルRe: とーちぜーしょ
記事No2056
投稿日: 2013/05/22(Wed) 17:38:37
投稿者桃青
> で、当知是処 即是道場 というテロップを久しぶりに見ました。

天台大師の説かれた「非行非座」の修行に通じるところですね。
この「当知是処 即是道場」も日蓮宗では大切にしますね。
ですから、前にも書きましたように、「日蓮聖人も非行非座の修行を説かれて、日蓮宗ではここ、を大切にしています。」と、いうのなら、日常生活の全てを「菩薩行」に照らして観ないとおかしいでしょう、と言いたいのです。

『妙法蓮華経神力品』

若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧房。若白衣舍。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆應起塔供養。所以者何。當知是處。即是道場。

もしは園中においても、もしは林中においても、もしは樹下においても、もしは僧坊においても、もしは白衣の舎にても、もしは殿堂に在っても、もしは山谷・曠野にても、この中にみな塔を起てて供養すべし。
 ゆえはいかん、まさに知るべし、この処はすなわちこれ道場なり。諸仏ここにおいて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃したもう。