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タイトルNHNあさいち「介護で不幸にならない方法」
記事No2073
投稿日: 2013/06/03(Mon) 11:14:34
投稿者桃青
今朝のあさいちは、「介護で不幸にならない方法」であった。

「わざわざ認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩」と説くかたは、この番組をどう御覧になるだろうか?

タイトル最強のタッグ
記事No2074
投稿日: 2013/06/03(Mon) 11:54:51
投稿者桃青
「あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩、仏」
「親を施設に預けるなど、子供としてしてはいけないことです。」

この二つが同時に説かれ時、それは最強のタッグとなって、
介護にあえぐ者のまえに立ちはだかることもある。

さて、「あさいち」では、
「私の人生は、このまま介護で終わってしまうのだろうか。」
と、いう思いから、母親を施設へ入居させた女性を取り上げていた。

母親は、「(娘から施設へ行くようにいわれた)あの時ほど悲しかったことはない。今でも思い出すと涙が出る。」
と、涙声でインタビューに答えていた。

冒頭、介護を受ける世代の方々は、インタビューに
「介護されるなら、娘、嫁。我儘が言えるから。」
と答えるかたがどちらかというと多かった。
そういうものだろうなあ。とも思う。

そういう方々はその我儘を受け止めて疲れて行く娘、嫁のことは思わないのだろうか?

人間の「苦」を深く見つめて説かれた仏教の釈尊の本意を伝えると自負する日蓮宗の導師らが、認知症の介護に苦悩するものたちへ説く言葉が
「あなたのために認知症になってくださった菩薩、仏」
「親を施設に預けるなど子供として、してはいけないことです。」
だけでは、あまりにもさびしい話ではないだろうか。

タイトル私を見る眼の変化
記事No2075
投稿日: 2013/06/03(Mon) 18:10:26
投稿者桃青
NHK「あさいち」番組中での証言は、介護する側、される側どちらも、いちいち「そういうことってあるよね。」「そういうひといるよね。」と、頷くことばかりであった。

私の身近に、嫁として姑の介護をする女性がいた。
実際にお眼にかかったことはないが、その介護のさまを伝えてくださるかたがいて、大変な思いをされていることは知っていた。
休みなしの介護があまりに大変そうなので、その話を伝えてくださったかたに、デイサービスの利用を勧めてみた。
お姑さんは当初嫌がったが、一度行ってみたら、意外に気にったらしく、それから週に3日デイサービスを利用されるようになり、
お嫁さんは「楽になった。」と、喜んでおられると聞いた。
私は、その時ふと「お嫁さん、楽の味を知ってお姑さんを施設へ入居させることになるかもしれないな。」という思いがよぎった。
その後、しばらくして、お姑さんは施設へ入居させられた、と、聞いた。

さて、この話を伝えてくださったかた(男性70代)は、これまで毎日のようにデイサービスを利用して何やら楽そうに介護している私と、苦しげなお嫁さんを比べて、私をどこか非難する風情があった。
が、お嫁さんがお姑さんを施設に入居させていらい、私に対する態度がなんだか急に柔らかくなったように感じるのですね。
介護サービスを利用しながらも在宅で介護している、その「在宅」というところを評価されているのだろうかとも思う。

在宅介護サービス利用なし>>>>在宅介護サービス利用>>>>>>>>>>>>施設へ入居

という社会的評価は、まだまだ厳然としてある。と感じる。

タイトル蜜の時間
記事No2081
投稿日: 2013/06/06(Thu) 10:29:27
投稿者桃青
蜜の時間、この場合の密は仏教でいうところの「蜜」ではなく、「乳と蜜の流れる」の蜜です。

母がショートへ出かけると、途端に頭の上に青空が広がったような爽快感を感じます。
そして、春を迎えた樹木のように身中にさらさらと流れだすものを感じます。

「あなたを育ててくれた親に対して、なんということを感じるのだ。」
と、思われるかたもおられるでしょう。
私も自分に対してそう思いますもの。
それでも、母がショートへ出かけている日々は、蜜のように甘美な日々です。

介護者のブログでは、どんなに親孝行なかたでも、使命感正義感で舅姑を介護されるかたでも、要介護者がショートへ出かける日を指おり数えて待ち焦がれて、介護の日々を過ごしておられます。

我が宗門の導師は
「親を施設へ預けるなど、子供としてしてはいけないことです。」
と、声を荒げて言われますが、
その導師の実家は農家で、常に大人が5人6人家に居られる。
大人5、6人で一人の認知症者を介護するのと、
都会サラリーマンの家で、娘や嫁が実質一人で介護するのとでは、事情がまったく違う。
専業主婦で家にいるからいいじゃないか。と言われるかもしれないけれど、正気を失ったひとと46時中一緒に居る息苦しさは、専業主婦のほうが辛いかもしれない、とは、導師は思わないのだろうか。

ブログには、この「蜜の日々」を
「忘れていたけれど、(あのひとがいなければ)これが当たり前の日々なのだ。」
と、書くかたがしばしばおられる。

私がケアマネさんに「デイ、ショート、今のローテーションが最高です。楽をさせていただいて感謝しています。」
と、言った時、ケアマネさんは
「楽になりすぎてもね。」と、ちょっと眉を曇らせた。
その時はその答えに「ん?」と、変な感じを受けたが、どうも
ショートの「蜜の日々」を知ってしまうと、介護がつくづく嫌になって要介護者を施設へ入居させたがる、という流れもあるようだ。
介護保険では無理となると、有料でも。と。
眉を曇らせたケアマネさん、その後、私が「最後まで在宅で」と、折にふれてきっぱりと意志表明するからなのか、最近やっぱり私に親切なんですよ。

「あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩」
「親を施設に預けるなど子供としてはしては、してはいけない事。」
と、説く御二人、どちらかと言えば、認知症発症もそう遠くないというお年頃である。

御二人とも認知症になって「いないと頭の上に青空が広がる。」と、思われる立場にならないという保証はないですよ。
そういう立場になった時、自分はどのように法を保てるのか、どのように生きたら良いのか、
介護する立場のひとに向けてばかりでなく、介護される立場のひとに向けての御話も聞きたいものです。
お寺には、明日にも介護される立場になりそうなひとがいっぱいお話を聞きに来られています。

自分が介護される立場になった時の生き方が定まってこそ、介護する立場での生き方も定まる。
と、思われてなりませんが・・・。

タイトルRe: 蜜の時間
記事No2082
投稿日: 2013/06/07(Fri) 12:27:12
投稿者桃青
導師は「お母さんは、あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩。」と言われ
ぽん州さんも、お母様を仏と御覧になり、「桃青も早く母親が仏だということに気付くといいね。」
と、言ってくださった。

私は、行こうと思えば今すぐにでも、母を菩薩、仏と観る側に行くことはできると思う。
でも、私は、ブログに「あのひとがいなければ、こんなに穏やかな日々なのに。」と、書くようなひとの側にいたいと思う。

母を菩薩、仏と見てしまっては、認知症の周辺に起きる問題に苦しむひとの、その苦しみが見えなくなってしまうような気がするから、私は「母は私のためにわざわざ認知症になってくださった菩薩、仏なのだ。」という側には、絶対に行くまい。
と、心に決めている。
人間の苦を深く見つめて法を説かれ、苦を滅する法がある。と言われた釈尊の弟子であるのなら、認知症周辺にある苦を見ないでどうするのだ。

タイトルキリストか?
記事No2083
投稿日: 2013/06/08(Sat) 11:58:08
投稿者桃青
「お母さんはわざわざ認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
と、説かれた導師は、こうも言われた。
「お母さんが認知症になってくださったから、もうあなたは認知症にはなりません。」
私は、思わず立場も忘れて「そんな保証はありません。認知症は誰でもなりうる病気ですから。」と、反論してしまった。
導師は苦笑されていた。

後になって導師がそう言われ、苦笑された背景に思い当たった。
檀信徒さんの中に、次々と身の上に起きる大難を強くゆるぎない信仰で乗り切って来られた老婦人がおられた。
このかたは、最後辛い病で亡くなられたのだが、その病床で、家族の者にこのように言い残されたという。
「私の人生は辛く苦しいことが多く、今またこのような辛い病で死んで行く。
でも、な。私がこうやって皆の苦労や辛いことを全部引き受けて行くのだから、これから○○家には、良いことばかり起きるよ。
ただ、御題目だけは捨てたらいかんよ。」

この老婦人の御言葉が念頭にあっての
「桃青さんはもう認知症にはならない。」で、あったのだろう。
私は、この話もしばしば聞いていたが、その都度
「キリストの贖罪じゃないのだから、誰かが受ける因縁を誰かが身代わりに受けるなどということは出来ないだろうに。」
などと心の中で反発しながら聞いていたので、この老婦人の話をすっかり忘れていた。

「私が子孫が受ける苦労を全部もって行くのだから、もう子孫が苦労することはない。」
というお祖母さんの気持ちは、本当にありがたい。
人間がそのような考えを持ち得るというところがありがたい。
○○家の一員ではない私でも、その老婦人の心情に胸が熱くなるのだから、○○家の方々なら、なおさらだろう。

ただ、実際に○○家の人々に今後苦労があるか、ないかはまた別の話だろう。
母が「桃青を認知症にしないために、私が認知症になったのだ。」
と、思い、私もそう思ったとしても、私が認知症にならないと言う保証はない。
認知症は病気です。
「私がガンになったから、もう私の子孫はガンにならない。」とは、普通誰も思わないだろう。
ただ、ガンになられたその老婦人はそのように信じておられたようです。

ガンになって苦しむひとが
「あなたが○○家のガンを全部持って行くのだから。」
と、説かれ「そうか、子孫をガンの苦しみから解放するために私はガンになったのか。」
と、思えたら心が安穏になるのかもしれない。

私のように、「ガン遺伝子があるくらいだから、私がガンになったということは、私の子孫もガンになるだろう。のほうが、正しいのではないか。」と、思うようでは、信仰はできないということ?

いや、そんなことはない。
お釈迦様は人間の苦を深くみつめて「苦を滅する法がある。」と、説かれた。
仏教は、近代科学の知見を度外視しなくては信じることができない。
などという宗教とは一線を画す教えだ。

タイトルRe: キリストか?
記事No2084
投稿日: 2013/06/08(Sat) 18:50:53
投稿者桃青
認知症は誰でもなる可能性がある病気である。

母は私に仏道修行させてやろうとして、わざわざ認知症になったのではない。
母は、自分が認知症だと診断を受けて戸惑っていたし、怒って、悲しんでいた。
母の名誉のために、詳しいことは書きませんが、とても、
「我が子に仏道修行させるためには、私が認知症になるしかない。」
とか「我が子の身代わりに私が認知症になってやろう。」
と、決意して認知症になったとは思えません。
おそらく認知症になったかた全員、たとえ法華経の信仰者であっても、そんなことを思って自らの意志で認知症になったかたはいない。
と断言できます。

認知症を「誰もがなりうる病気」と捉えるところから法や中観を説くことだって出来るでしょう。
そして、風邪や下痢のように誰もが成る可能性がある病気、と捉えてこそ、認知症の周辺の苦悩に対して実際的に有効な解決法を皆で見出して行くことができるのに・・・。

人間の苦悩や問題を他人事ではなく我が事として捉え、皆で解決策を見出して行こうじゃないか。

というのが仏教が説く人間の問題の解決法ではないのでしょうか?