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タイトル童謡 紫陽花の涙
記事No2085
投稿日: 2013/06/10(Mon) 09:01:42
投稿者ぽん州
前庭の紫陽花に水を遣ったら、滴がたれて涙を流してたよ。
でも、紫陽花は涙を流さないんだ。
皆の悲しみを代わりに受け止めてくれたんだよね。
そっと潜んでおいでです。

誰の童謡だったかな? 思い出せない

南無妙法蓮華経

タイトルRe: 童謡 紫陽花の涙
記事No2086
投稿日: 2013/06/10(Mon) 09:15:23
投稿者ぽん州

1963年6月11日から50年 ティック・クアン・ドック師の命日6月11日に
京都市上京区の立本寺(七本松通仁和寺街道上ル)にて追悼供養と交流会が
行われます。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^2: 童謡 紫陽花の涙
記事No2088
投稿日: 2013/06/10(Mon) 16:11:49
投稿者桃青
>
> 1963年6月11日から50年 ティック・クアン・ドック師の命日6月11日に

南無妙法蓮華経。合掌。

タイトルRe: 童謡 紫陽花の涙
記事No2087
投稿日: 2013/06/10(Mon) 16:10:28
投稿者桃青
> 前庭の紫陽花に水を遣ったら、滴がたれて涙を流してたよ。

綺麗な詩ですね。
ネットで探してみましたが見つかりませんでした。

紫陽花に水がかかるとまんまるな水滴が出来て、それを「紫陽花の涙」というようで、こちらはいくつかの綺麗な写真がヒットしました。

紫陽花の美しい季節になりました。

タイトル法華経は草木を仏となし給う
記事No2094
投稿日: 2013/06/15(Sat) 02:21:31
投稿者ぽん州
> > 前庭の紫陽花に水を遣ったら、滴がたれて涙を流してたよ。
>
> 綺麗な詩ですね。
> ネットで探してみましたが見つかりませんでした。
>
> 紫陽花に水がかかるとまんまるな水滴が出来て、それを「紫陽花の涙」というようで、こちらはいくつかの綺麗な写真がヒットしました。
>
> 紫陽花の美しい季節になりました。

調べ物があって、日蓮宗ポータルサイトに飛んだら、今月の聖語は
「法華経は草木を仏となし給う」(上野殿ご返事)なんですね。

南無妙法蓮華経

タイトルRe: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2096
投稿日: 2013/06/15(Sat) 17:01:42
投稿者桃青
> 「法華経は草木を仏となし給う」

そうなんですねー。
「山川草木悉皆成仏」に感銘をうけたと言われるかたはすごく多いですが、「草木にも仏が宿る。」と、汎神論的に受け止めているかたもすごく多い。

日蓮聖人はこのように「仏となし給う」と言われているのに、なぜか
ふーっと、汎神論になってしまっているかたがすごく多い。
八百万の神を観ずることに慣れているからなのかなあ。

タイトルRe^2: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2097
投稿日: 2013/06/16(Sun) 00:29:49
投稿者ぽん州
> > 「法華経は草木を仏となし給う」
>
> そうなんですねー。
> 「山川草木悉皆成仏」に感銘をうけたと言われるかたはすごく多いですが、「草木にも仏が宿る。」と、汎神論的に受け止めているかたもすごく多い。
>
> 日蓮聖人はこのように「仏となし給う」と言われているのに、なぜか
> ふーっと、汎神論になってしまっているかたがすごく多い。
> 八百万の神を観ずることに慣れているからなのかなあ。

汎神論云々に拘泥しないで、日本人として受容してるんではないかな。
で、草木を仏になし給う法華経が、母親を仏にしないわけがないなあ。

幼児期のマインドコントロールから解放されればいいのにね。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^3: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2100
投稿日: 2013/06/16(Sun) 13:05:17
投稿者桃青
> 汎神論云々に拘泥しないで、日本人として受容してるんではないかな。

日本人は、八百万の神々を観ずることに慣れているので、

「山川草木悉有仏性、って、草木にも仏が宿るってことなのよね。
 山川草木、皆仏様なんだよね。
 これって一神教に比べたら素晴らしくね?」

でおしまいにしてしまい、「仏性」というものを深く観じようとしないのは、残念だ。
と、言いたかったのですけれども・・・。

> で、草木を仏になし給う法華経が、母親を仏にしないわけがないなあ。
>

そうですね。
母も私も、皆さんも、仏になる可能性がある故に「いつかは仏に成る」ことを約束されているのですよね。

で、仮に仏に成ったら、皆さん、何をしたいですか?

仏に成ったら、認知症になって、介護するかたに大小便の世話をさせて、「これもあなたが仏になるための修行なのだから、臭いとか嫌だとか思わずに、もっとしっかり尻をふきなさい。」と、うんこだらけの尻とぐいっ!と、介護者の眼の前に突き出したいですか。
私は、たとえ仏になってもそんなことはしたくありません。
皆さんだってしたくはないでしょう。

そして、認知症になったかたは有り難い仏菩薩の化身なのだから、
「認知症の大小便垂れ流し、暴言、暴力、徘徊、妄想、異食、に付き合うのは大変だ。」
と、介護者が思うことはいけないことなのでしょうか?

認知症になれば、誰でも大小便を垂れ流すし、ひとによっては暴言暴力で介護者の心を萎えさせ、自らの妄想に苦しみ、徘徊、異食、等々、介護者の時間を消費するのです。
一日、24時間。要介護者に付き合って、日が暮れる。
「<私は何のために生きているのか。このひとのうんこの始末をするために生きているのか。このひとの奴隷なのか。>
というような思いが、ふっと浮かぶ。」
と言われるかたの気持が、私はすごく良く解る。
私もまた人生の終わりの何十年かを(以前は認知症は発症してから、5年くらいで寝たきりになり、7年くらいで死に至るといわれていましたが、現在は医療の発達により、15年、20年生存する例が増えて来ています。)
そのような状態で生きるのかと思うと、何ともいえない気持ちになる。
大小便垂れ流し、自らの糞便を口に運んだり、自分がそのようなことを言ったりしたりするとは思いもしないようなことを言ったりしたりしながら何十年も生きる自分を想像してみてください。
怖くなりませんか?
私は怖いです。

そのような苦しみを人間の「苦」を見つめるところからはじまったはずの仏教の指導者が
「あなたのお母さんは仏なのですよ。菩薩なのですよ。」
「親を施設に預けるなど、子供として、してはいけないことです。」
と、いう言葉で封じ込めにかかるのはどうなのだろう?
と思うし、「辛い。」という思いを無理やり封じ込めることと、「苦を滅する」ことは、違うはずだ。
と、言っているのですけれども・・・。


> 幼児期のマインドコントロールから解放されればいいのにね。
>

どのようなマインドコントロールから解放されたらよいのでしょうか?

タイトル九界を具するをもって
記事No2102
投稿日: 2013/06/17(Mon) 18:12:35
投稿者桃青
> で、草木を仏になし給う法華経が、母親を仏にしないわけがないなあ。
>

「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」
(『観心本尊抄』)

私はね、認知症になった母をみていて
「わざわざ誰もが嫌がる認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのです。」
という言葉より、日蓮聖人のこの御言葉のほうが「真実」だと思うのですね。

なので、母も、その他の認知症になったかたも、認知症になった、という点だけを取り上げて、仏、菩薩だと思うべきだ。
とは思わないのです。

母も私も、十界互具といえども、凡夫の私の眼に見えるところは九界の相。
認知症もまた人間が現わす相に過ぎないと思っています。

日蓮聖人が「現じ難し」と言われた仏界をぽん州さんが御覧になったことは素晴らしいと思います。
ただ、いくら勧めてくださっても母を仏だと見えるようになりたいとは思わないのです。
私如きが母を仏だと観よう、観ようとして見えたら、それは何か違うものを見て「仏だ」と勘違いしそうなんですね。
せっかく日蓮聖人もこのように言われているのですから、九界を見て仏界が確かにあることを信じられるだけで充分だと思っています。
母として現れた<私>も私として現れた<私>も、法華経をいただいてまめにこつこつやってれば、いつかは仏に成るでしょう。

タイトルRe: 九界を具するをもって
記事No2103
投稿日: 2013/06/20(Thu) 04:16:30
投稿者ぽん州
> > で、草木を仏になし給う法華経が、母親を仏にしないわけがないなあ。
> >
>
> 「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」
> (『観心本尊抄』)
>

 過去の下種結縁(けちえん)なき者の権(ごん)・小(しよう)に執着する者は、たとい法華経に値い奉れども小・権の
見(けん)を出でず。自見(じけん)を以て正義(しようぎ)となすが故に、還(かえ)つて法華経を以てあるいは
小乗経に同じ、あるいは華厳・大日経等に同じ、あるいはこれを下(くだ)す。

  過去に下種・結縁を受けなかった者や権経(実義を顕わす前にかりに説いた教え)や小乗経の理論に執われている者は、
  たとえ法華経の教えに出会っても、小乗や方便の権(かり)の教の見方から抜け出ることができないでいる。というのは、
  自分の見方を正しい道理と頑なに固執するために、かえって法華経を小乗経と同じと考えてしまったり、あるいは
  華厳経や大日経と同じと考えてしまったり、あるいはそれらの諸経よりも下の位置に置いてしまうからである。

タイトルRe^2: 九界を具するをもって
記事No2104
投稿日: 2013/06/20(Thu) 05:46:15
投稿者ぽん州
十界互具これを立つるは、石中(せきちゆう)の火・木中(もくちゆう)の花。信じがたけれども縁に値いて出生すれば
これを信ぜん。人界所具の仏界は、水中の火・火中の水、最もはなはだ信じがたし。しかりといえども、竜火(りゆうか)は
水より出で、竜水は火より生ず。心得られざれども現証あればこれを用いん。すでに人界の八界これを信ぜり。仏界何ぞこれを
用いざらん。堯舜(ぎようしゆん)等の聖人(せいじん)のごときは、万民において偏頗(へんぱ)なし。人界の仏界の
一分(いちぶん)なり。不軽(ふきよう)菩薩は所見の人において仏身(ぶつしん)を見る。悉達(しつた)太子は人界より
仏身を成(じよう)ず。これらの現証を以てこれを信ずべきなり。

 たしかに十界互具を重要な教えとして重んじるのは、さながら石の中に火があるとか、木の中に花があるというような
 もので、甚だ信じがたいことではあるが、縁にふれて実現するならば、これを信じないわけにはいくまい。人界に仏界が
 具わっているということは、木の中の花や石の中の火どころか、水の中に火があるとか、火の中に水があるというような
 もので、最高に信じがたいことである。しかしながら、竜火は水から出るのであり、竜水は火から出るという。いかにも
 承知しにくいことであるが、現実にあらわれている証拠があればこれを信じないわけにはいかない。今、あなたはこれまでの
 対話を通じて、遂に人界に縁覚・声聞以下の八界を具えていることを信じるに至った。そうであるならば、人界に仏界が
 具わっているということをどうして信じられないのであろうか。かの中国の古代において三皇に次いで理想的な統治を
 した五帝のうちの堯王・舜王らの聖人は、すべての民衆に対して平等な態度で接して、万民に対する慈愛にかたよりが
 なかった。これなどは人界に仏界の一分が具わっている証拠である。法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる常不軽菩薩が、
 道行く人に会うたびに合掌し礼拝したのは、人々に本来具わっている仏身を見たからである。そしてまた悉達太子と
 よばれた若き日の釈尊は、人の身を受けて王宮に生まれたが、やがて修行をかさね、現実に仏陀の身を達成したではないか。
 こうした数々の現実の証拠をもって、人界に仏界を具えるという十界互具・一念三千の教えを信じないわけにはいかない。

タイトルRe^3: 九界を具するをもって
記事No2106
投稿日: 2013/06/20(Thu) 09:57:36
投稿者桃青
> 十界互具これを立つるは
<以下略>

こちらも『観心本尊抄』の「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」
の後の部分ですね。

その内容は
「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」

に集約すると思われますが??

御紹介いただいたぽん州さんのご本意がわからないのですが・・・。

タイトルRe^4: 九界を具するをもって
記事No2109
投稿日: 2013/06/24(Mon) 02:57:48
投稿者ぽん州
百界千如は有情界(うじようかい)に限り、一念三千は情(じよう)・非情(ひじよう)に亙(わた)る。

  百界千如を一念に具備していると言った場合、有情(すべての生き物)と通じる世界を具備するということにとどまるのに対して、
  三千世間を一念に具備すると言う時には、有情と非情(精神作用を持たないもの)との域にわたる世界を具備することになる。

百界千如・一念三千にして非情の上の色心(しきしん)の二法たる十如是これなり。しかりといえども木画(もくが)の二像においては、
外典(げてん)・内典(ないてん)共にこれを許して本尊となす。その義においては、天台一家(いつけ)より出(い)でたり。
草木の上に色心(しきしん)・因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃(たの)み奉ること無益(むやく)なり。

  百界千如・一念三千であり、情(こころ)をもたないものも、色法(形あるもの)と心法(心の世界)を具えるという十如是の教義が
  基本となっていることである。しかしもともと、木像や画像については、外典であっても仏教であっても、ともに本尊と仰ぐことを許容する。
  だが、それが成立する趣旨は天台宗の教義から出ている。つまり、草木(という情(こころ)なきもの)の上に色心(色法と心法)と
  因果とを納めているのでなければ、木像・画像を本尊として仰ぎ奉ることは成り立たないからである。
・。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^5: 九界を具するをもって
記事No2110
投稿日: 2013/06/24(Mon) 03:01:51
投稿者ぽん州
天晴れぬれば、地明(あき)らかなり。法華を識る者は、世法(せほう)を得べきか。

  天が晴れれば地が非常に明るくなる。それと同様に法華経の真髄を識る者は、天変地夭などの世法(世間法)における出来事の
  由来の根本を知ることができるのである。

一念三千を識らざる者には、仏(ほとけ)大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に
懸けさしめたもう。

  「一念三千」の法門を識ることができない者に対しては、教主釈尊が大いなる慈悲の手を差し伸べ、妙法蓮華経という五字のなかに
  この珠をつつみ、末代のいとけなき凡愚の衆生の頸に懸けさせたもうたのである。

【 投稿者により修正されました。】

タイトル久遠の釈尊を観たてまつらんと欲す
記事No2112
投稿日: 2013/06/24(Mon) 22:09:31
投稿者ぽん州

為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く

  一切の苦しむ人をみんな救おうと巧みな手だてを用いて、入滅したりしてみせてたけれども本当は
  決して死んだりなんかはしないのだ。いつも この世に住んでいてこうして教えを説いている

質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山

質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず

  柔軟な心をもって ただし あくまでも まっつぐに 只管に 仏を会いたいと願って 身命さへも惜しまないなら
  私は、多くの僧をともなって霊鷲山に姿を現す

タイトルRe: 久遠の釈尊を観たてまつらんと欲す
記事No2115
投稿日: 2013/06/25(Tue) 17:56:23
投稿者桃青

> 為衆生度故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
>
<以下略>

こちらは「自我偈」

ぽん州さんは、「観心本尊抄」と「自我偈」で、
何を御教示されたかったのでしょうか?

タイトルRe^6: 九界を具するをもって
記事No2114
投稿日: 2013/06/25(Tue) 17:51:01
投稿者桃青
> 天晴れぬれば、地明(あき)らかなり。法華を識る者は、世法(せほう)を得べきか。
>

「此れを以て之を惟うに正像に無き大地震大彗星等出来す、此等は金翅鳥修羅竜神等の動変に非ず偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか、天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。
 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、
四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公の文王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。」

『観心本尊抄』の結びの部分ですね。

タイトルRe^5: 九界を具するをもって
記事No2113
投稿日: 2013/06/25(Tue) 17:46:12
投稿者桃青
> 百界千如は有情界(うじようかい)に限り、一念三千は情(じよう)・非情(ひじよう)に亙(わた)る。
>

「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、」
(『観心本尊抄』)

タイトルRe^2: 九界を具するをもって
記事No2105
投稿日: 2013/06/20(Thu) 09:52:41
投稿者桃青
>  過去の下種結縁(けちえん)なき者の
<以下略>

御紹介の御遺文は『観心本尊抄』の
「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、」
あとに続く文章ですね。

ぽん州さんが観心本尊抄のこの部分を御紹介くださって何を言われたいのか私には全くわかりません。
できれば、そのあたり詳しく書いていただけたら幸いです。

タイトルRe^3: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2107
投稿日: 2013/06/21(Fri) 09:56:19
投稿者桃青
こちらはよくまとめられていると思われますが・・・。

http://okwave.jp/qa/q2041831.html

私は、仏性があることと成仏は違う。 と理解しています。

ぽん州さんはお母様を仏様そのものだと御覧になるのにも、そう御覧になるだけの根拠がおありになるのでしょう。

でも、私が母を十界互具の人間だと観るのにも、そう観るだけの根拠があるのです。

そして認知症のかたが仏様であろうが、人間であろうが、
認知症のかたに四六時中付き合うのは、本当に辛いことだし、
自分が認知症になる、ということも辛いことなのです。

その誰もが遭遇する可能性がある辛さをなんとか軽減できないものだろうか。
というお話をしています。
認知症という病気が無くなれば、認知症に関わる辛さも無くなるわけですが、現在のところ認知症にならない方法も認知症を治す方法もありません。

タイトルRe^4: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2128
投稿日: 2013/06/28(Fri) 21:53:40
投稿者ぽん州

> ぽん州さんはお母様を仏様そのものだと御覧になるのにも、

??? あれ? 僕がどこかに書きましたか???

まあ 桃青さんにそう言われると お前のお袋は仏様そのもの と
言っていただけたようで嬉しくなります。 認知症のお袋の中に
一念三千の仏界を観ていき、一心欲見仏 で その中に久遠の
釈尊の常住したまいて、説法をされているをみる 素晴らしい
ことですね。 桃青さん ぽん州を褒めてくれてありがとう。

タイトルRe^5: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2130
投稿日: 2013/06/29(Sat) 08:54:11
投稿者桃青
>
> > ぽん州さんはお母様を仏様そのものだと御覧になるのにも、
>
> ??? あれ? 僕がどこかに書きましたか???
>

書いておられましたよ。
以下再掲しますね。(私って意地悪?)

=============================

NO2033 5月15日
僕は 自分の母親がなくなった時 本当にこの人は僕の仏だったな
と思いましたよ。 僕のようなものにあふれんばかりの愛情を注いで
くれたからね。

NO2035 5月15日

仏だってウ●コ祭りをするでしょ。仏がウ●コ祭りしたら
いけないの?

NO2044 5月17日

だから僕は、お袋の下の世話なんてやってられねーぞ って ケアマネージャーさんに
言いましたよ。僕の代わりにお袋の下の世話を変わってくれる制度があるなら
菩薩行云々とは別の話と思っています。 幸いにその制度を最大限活用させて
いただけたから、 お袋が仏様なのです。

==============================

タイトルRe^6: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2131
投稿日: 2013/06/29(Sat) 22:25:49
投稿者ぽん州

すっかり忘れていた。 再掲ありがとう。

その話は、仏と見ていくベクトルも有るのでは という流れの中で
書かなかったですか。はじめから そのまま仏 ではないでしょ。
そう観じていけば、僕にとってお袋は仏になってくる でしょ。
そして実際お袋が亡くなったとき、「僕にとっての仏様」と感じた
のだと。

仏がウンチ云々 というのは 僕の母親がそのまま仏だから と
書きましたか。 もう忘れたけど 多分 仏が応現すれば そりゃあ
ウンチもすれば よだれも流す姿もあるわいな ということで書かなかった
ですか。それは、以前 ヒンズーの悟りを得た聖者が僕の目には全くの
ボケ老人にすぎないと思えたが、今思えば 確かに悟りを得た聖人で
あったかもしれない。 よだれを流す見た目に「たーけの子」でも
ひょっとしたら 仏の応現かもしれない と思えば、 見た目が汚く
「たぁーけ」と蔑まれる人であっても、リスペクトしなければならない
存在だ ということでしょ。

桃青さんは ぽん州は母親を<仏そのまま>と見る とおっしゃる
仏そのまま とは なんですか?

仏が よだれを垂らしウンチしたら悪い というのは どんな修行の
結果で得られたのですか。

タイトルRe^7: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2133
投稿日: 2013/07/01(Mon) 00:34:51
投稿者桃青
> 桃青さんは ぽん州は母親を<仏そのまま>と見る とおっしゃる
> 仏そのまま とは なんですか?

??
ぽん州さんが、「本当にこの人は僕の仏だったな
と思いましたよ。」
と、書かれたからですが??

>
> 仏が よだれを垂らしウンチしたら悪い というのは どんな修行の
> 結果で得られたのですか。

??
大人の垂れ流しの御世話は辛い、という話をしているだけですが??
そして、いつか自分もこのような辛さを誰かに味あわせるのかと思うと、どうしようもなくやりきれなくなってくる。という話をしているのだけですけども、それがどうして「仏は垂れ流すのか垂れ流さないのか、」という話しになるのでしょうか?

タイトルRe^6: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2132
投稿日: 2013/06/30(Sun) 22:11:30
投稿者ぽん州

> NO2044 5月17日
>
> だから僕は、お袋の下の世話なんてやってられねーぞ って ケアマネージャーさんに
> 言いましたよ。僕の代わりにお袋の下の世話を変わってくれる制度があるなら
> 菩薩行云々とは別の話と思っています。 幸いにその制度を最大限活用させて
> いただけたから、 お袋が仏様なのです。
>

この部分のレスを忘れてたな。

>幸いにその制度を最大限活用させていただけたから、 お袋が仏様なのです。

不幸にして その制度を最大限活用できなかったら 僕にとってお袋が仏となった
かどうか。 この話は、桃青さんが苦しんでいる。桃青さん あなただけではないよ
僕だって お袋を仏と観ることができたけど、一つ違えば 桃青さんと同じ
苦しみを味わったかもしれないな と 書いたんだけど;;;

タイトルRe^7: 法華経は草木を仏となし給う
記事No2134
投稿日: 2013/07/01(Mon) 01:30:09
投稿者桃青
> 不幸にして その制度を最大限活用できなかったら 僕にとってお袋が仏となった
> かどうか。 この話は、桃青さんが苦しんでいる。桃青さん あなただけではないよ
> 僕だって お袋を仏と観ることができたけど、一つ違えば 桃青さんと同じ
> 苦しみを味わったかもしれないな と 書いたんだけど;;;

ケアマネさんとも「あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩である。」について話をしたのですが
「介護って、実際そんなものじゃないよねー。」
と。

結局は「人間とは何か。」「人間が生きて死ぬということ」というところに突きあたる。
仏教、法華経、日蓮門下なればこそ「あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩なのです。」でお終いにしてはいけないと思うのですよ。
こんな言葉は使いたくないのですが、廃人になった人間に対してひとや社会はどういう視線をもつべきなのか。
その答えの基となるものを提供して行くのも宗教の役目だろうと思う。
「それは社会福祉で政治の問題。仏教、法華経関係ありません。」
ではないだろう、と思うのですけど・・・。
例えば、人生は選びの結果の積み重ねでどんな結果も「自己責任」というのであるなら、公的介護保険制度など無用の制度でしょう。
突き詰めれば、やっぱり「人間とは何か。」「人間が生きて死ぬということはどういうことなのか。」という問いかけになる。