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タイトル感覚鈍磨
記事No2135
投稿日: 2013/07/02(Tue) 13:09:46
投稿者桃青
このところ、「介護は大変」という話しばかりしていますが、
一番大変な時期は過ぎたのではないかと思っています。

介護が始まって四年目で母は介護度4になりましたが、振り返ってみれば、大変だったのは、介護度1、2から3にかかるころだったのではないかと思います。
これは私ばかりでなく、他のかたの介護ブログを拝見しても、どうもそのようで、介護度4くらいになると派手なエピソードはなくなり、ブログの更新速度もぐっと落ちる。

御世話もルーティンワーク化し、何も考えずに手足が動くようになる。
母に対する時は、何も考えず、何も感じない。これはそうしようと思ってそうなるわけではなく、身体が反応して感覚が鈍磨する感じです。
楽になったといえば、楽なのですが、自分としては、母の変化に驚き、嘆き、怒っていた頃の生き生きとした人間らしい感性が無くなってしまったのではないか、とこれはこれで心配になる。

タイトルRe: 感覚鈍磨
記事No2136
投稿日: 2013/07/03(Wed) 09:53:59
投稿者桃青
感覚が鈍磨すると、さすがにうんこ祭りはこたえるが、大洪水くらいは「あらま、しちゃったのねー。」と、何も感じない。
股間にぷらん、とぶら下がったもっこりリハパンなどちょろい、ちょろい。
などなど、これ以上は母の名誉のために書けませんが、ま、そういうことです。

介護度1から3あたりまでの母の様子は、母が正気であれば、公表されることにとても耐えられないでしょうから、その全ては書けませんし、実生活でも、介護認定を受けるための聞きとり調査以外では、全てを話したことがありません。
これは、私ばかりでなく、おそらく御家族のかたの多くは、そうでないかと思うのも、体験してみて見えてきたものの一つです。

垂れ流される大小便と格闘していたころは、
「「お母さんはわざわざ認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
と、力説されると、腹が立ったものですが、
感覚が鈍磨した今は、この言葉がどこか遠いところで語られているように聞こえ、この言葉に対する感覚も鈍磨したのではないかと思われるのです。

タイトル宗教と感覚鈍磨
記事No2137
投稿日: 2013/07/03(Wed) 11:16:13
投稿者桃青
眼の前で垂れ流される大小便や、「お母さんはわざわざ認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」という言葉に対して、何も感じないと言う感覚を感じつつ、
「宗教と感覚鈍磨」ということをぼんやりと考えた。

信仰者に対してよく「思考停止に陥っている。」という批判がなされることがある。

私は、母の大小便垂れ流しに接するうちに感覚鈍磨の状態になってはじめて、感覚鈍磨や思考停止の気持ちよさが本当にわかったような気がした。
「仏様に任せる。」「神の御心のままに」
は、場合によって単なる甘美な思考停止にいざなうため言葉となっていることもあるかもしれない。

タイトル仏に任せる。
記事No2138
投稿日: 2013/07/03(Wed) 19:05:03
投稿者桃青
昔、抱えていた問題が、師匠も何年もの間、ずいぶんと解決にむけて力を貸してくださったのですが、どうしてもこうしても解決しなかった時、師匠が
「もうこうなったら仏様に任せるしかないわな。」
と言われた。

私は、「ああ、師匠もついに匙を投げられたのか、困った。どうしよう。」と、思う反面、「ああ、もう、このことについて解決しようとしなくても良いのだ。」
と、ほっとするところもあった。

仏様、お任せします。

と、私はその問題を自ら解決することはやめた。
今、振り返ってみると、それで良かったのか悪かったのかわからない。
ただ、それ以後、「仏様にお任せしてあるの。」と、言われるかたの御顔を拝見すると、皆さん一様に似たような安堵の頬笑みを浮かべておられる。

私は、そこまで任せきっていないので、そのような頬笑みを浮かべて、他人様に「仏様に任せましょう。」とも「仏様に任せてあります。」と、言ったことはない。

どこかで、「え?そんなに簡単に任せちゃっていいの?」と、いう思いを払拭できないからであるし、昔、「もう仏に任せなさい。」と師匠に言われて、「ああ、今まで、なんとしても解決しなくては、とあれこれ嫌な嫌な思いをしながら頑張って来たけれど、もう今日からしなくてもいいんだ!」と、ほっとした自分が許せないからでもあろう。

タイトル仏に任せるということ。
記事No2139
投稿日: 2013/07/04(Thu) 10:21:31
投稿者桃青
法座などで「仏に任せる。」と、いう言葉を最近は聞くことが多い。
以前、師匠が御存命のころ、師匠から「仏様に任せる。」という言葉を聞いたのは、私はただ一度、私に言われた言葉だけである。

私に対して言われたように、個別には言われたことはあったかもしれないけれど、法を語る場で言われていたのは

「仏様に護っていただく自分をつくりましょう。」

だった。
どちらかといえば、「仏に任せる」よりは、「仏に護っていただけるようになる。」のほうが、法華経の記述に沿っているのではないかと思われるのですが、どうなのだろう?

タイトルRe: 仏に任せるということ。
記事No2140
投稿日: 2013/07/05(Fri) 19:01:36
投稿者桃青
「仏を信じ、仏に任せなさい。」

言われるたびに、

仏が何かしてくださるのだろうか?

なんだか、どうもおかしい。

と、私は思う。

何か忘れはいませんか?
御釈迦様が頼れば、「よし、引き受けた。」と何かしてくださるかたならば、コーサラの王が釈迦国を攻め滅ぼすということもなかっただろう。

タイトル欲令衆
記事No2141
投稿日: 2013/07/06(Sat) 09:29:12
投稿者桃青
『欲令衆』
「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。」

日蓮宗では、この欲令衆をよく読む。
勤行の毎回読むといっても過言ではない。
此処に書かれていることからは、困りごとの解決を「仏に任せなさい。」という発想は生まれようがない、と思うのですが・・・。

師匠が存命のころは、諸氏から語られる法座の体験談も「仏智をいただいて、こうこうして、解決しました。」
確かに、仏智の内容も解決方法も???というものもありましたが、それでも常に「仏智」ということが日々の暮らしの念頭にあったのではなかったか?
たしかに当時も「仏様にお任せし、ひたすら御題目を唱えたら、望み通りになりました。」という御話もなされましたが、どちらかというと、田舎のオバサンたちも皆さん口を開けば「仏智」「ぶっち」と言っていた。
最近、気がついたら「仏に任せて、御題目を唱えたら、自分の思い通りになりました。」と、いう話しばかりになっている。

ひろさちやさんは、

「仏教は慈悲、キリスト教は愛の宗教と言われるが、仏教は智慧の宗教です。」

と、解説していましたが、せっかく欲令衆を毎日読みながら、
仏の智慧(般若の智慧)が、念頭から消えて行くのは残念を通り越して心配です。

タイトルRe: 欲令衆
記事No2142
投稿日: 2013/07/08(Mon) 10:04:51
投稿者しんのすけ
今日は佐渡にてはじめてご本尊を顕された日ですね、顕正会(けんしょうえ)
16日は立正安国を上提された日ですね。
まず、信仰の寸心をかえないとね。

タイトルRe^2: 欲令衆
記事No2143
投稿日: 2013/07/08(Mon) 16:24:37
投稿者桃青
> 今日は佐渡にてはじめてご本尊を顕された日ですね、顕正会(けんしょうえ)

けんしょうえ、とけんしょうかい。読みが違います。
旧暦の7月8日ですから、新暦では8月ですからね。
秋の早い佐渡では星がよく見えたのでしょうね。

> 16日は立正安国を上提された日ですね。
> まず、信仰の寸心をかえないとね。

そうですね。
御聖人のように曇りの無いものを真っ直ぐに求めたいです。

タイトルRe^3: 欲令衆
記事No2144
投稿日: 2013/07/08(Mon) 18:40:32
投稿者しんのすけ
ご本尊(妙法曼荼羅)は虚空会でお釈迦様(本仏)に一同南無と帰依している姿です。そこに向い南無することは仏さまにすがるというより自ら虚空会に参加し仏様と一体になることだと思います。だから仏に任せるというより、仏と同じ働きをしなければと思います。ただすがり何もしないのではない、自らも化他の心を持つ事が本仏の御心に叶う事だと思うのですが?

タイトルRe^4: 欲令衆
記事No2146
投稿日: 2013/07/09(Tue) 00:08:26
投稿者桃青
> ご本尊(妙法曼荼羅)は虚空会でお釈迦様(本仏)に一同南無と帰依している姿です。そこに向い南無することは仏さまにすがるというより自ら虚空会に参加し仏様と一体になることだと思います。

仏様と一体になると言う感覚は、まだ解りませんが、
参加しているという感覚は解りますよ。

>だから仏に任せるというより、仏と同じ働きをしなければと思います。ただすがり何もしないのではない、自らも化他の心を持つ事が本仏の御心に叶う事だと思うのですが?

難しいですね。

タイトルRe^5: 欲令衆
記事No2147
投稿日: 2013/07/09(Tue) 00:35:49
投稿者しんのすけ
> 仏様と一体になると言う感覚は、まだ解りませんが、
> 参加しているという感覚は解りますよ。
そうそう、僕も煩悩が多すぎてわかりません。
虚空会に参加している感じ、本佛の慈悲の傘の下に入る感じかな?
本佛の己心の一念三千に入るということなのかな?
そこには、利己主義、商売繁盛や自分勝手な望みはないと思うのですけど。

タイトルRe^6: 欲令衆
記事No2148
投稿日: 2013/07/09(Tue) 12:10:41
投稿者桃青
> そうそう、僕も煩悩が多すぎてわかりません。

(^v^)

> 虚空会に参加している感じ、本佛の慈悲の傘の下に入る感じかな?

あ!これすごくわかります。
この安心感があるので、少々のことがあっても
「ま、地道にコツコツやっていれば、そのうち何とかなるだろう。」と、また歩き出せる。そんな感じ。

なので、「仏を信じなさい!」「仏を信じることが大切です。」と、連呼されると、「そんなにキリスト教の街宣車みたいに頭ごなしにガアガア言わなくても。」と、つい思ってしまう。

話を聞くうちに「へー、そうなんだ!そうなんだ!そんな視点は今まで気が付かなかった。言われてみたら確かに、そうだ。」
と、いうことが繰り返されて、いつの間にか、気が付いたら、そこは御花畑(浄土)だった。
というのが、いいなあ。と思うのですよ。

> 本佛の己心の一念三千に入るということなのかな?
> そこには、利己主義、商売繁盛や自分勝手な望みはないと思うのですけど。

そうなんです。
いつの間にか、利己主義から脱して、もっと大きな視野に立って生きられるようになる。
そういうのが、いいなあ。

とりあえず人寄せのために「仏を信じて、仏に任せて、御題目を唱えていたら、望み通りになりました。」
と説くということもあるかもしれませんが、それに終始してしまっては、そこから抜け出しようがない。

タイトルRe^2: 仏に任せるということ。
記事No2145
投稿日: 2013/07/08(Mon) 18:55:43
投稿者桃青
最近、
「とにかく仏を信頼しなさい。」と話されることが多い。

でもね。
そもそも、少しでも仏を信頼というか、リスペクトしていなければ、法座に話しなど聞きにきてませんでしょう。

仏の説かれたところを聞いて、一つでも二つでも、明日と言わず、今日生きる指針を得たいと思うから、来ているわけです。
え?!なんすか?義理で嫌々来ているだけだから、話しの内容などどうでもいい??

いや、それにしてもですね。
「仏を信頼して、御題目を唱えたら、病気は治るし、家業は繁盛。」
という話を聞いて「よし!私も御題目唱えてみよう。」と、思うのなら、マルチの会場で「今月の売り上げ女王は○○さんです。さあ、皆さんも頑張って夢をかなえましょう。」と、言われて、
「よーし!○○さんにできて私にできないはずはない。がんばるぞー。」と、思うのとそんなに変わらないのではないでしょうか?

タイトル浄土
記事No2149
投稿日: 2013/07/10(Wed) 11:31:31
投稿者桃青
某M教では、少し前から「家庭ををシオンにしましょう。」を指針に掲げているという。
古い教会員のかたは、「昔は世界中に某M教会を伝道して、世界中をシオンにしましょう。」というのが目標だったのに、「最近は縮こまって、内向きになってしまって」と、嘆かれる。
傍からみると、元々、選民思想をとり、「教会員のみが救わる」という思想なので、行き着く先が「(モルモン教会員の)家庭をシオンにしましょう。」でもしかたないのではないかと思うのだが・・・。

日蓮宗の浄土化運動、「立正安国」の行きつく先を
「○○家の繁盛」にしてしまっては、せっかくの仏教が、そこらの御利益信心を説く凡百の宗教と同じになってしまう。

御聖人が顕わされた「立正安国」が、「○○家の繁盛」と直結してしまうのは、

「夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」

この「国」を「○○家」とのみ捉え

「家族が生きる場所である○○家がまず安泰でなければ、法を保つことができない。」

と、思うからであろう。
こういう思いは、某M教の「家庭をシオンに」と、似たようなものなので、時と場所を選ばず、人間がいるところなら、いつでもどこでも立ち上がって来るものなのでしょうね。
また、凡百の宗教は、その思いに応えるべく、「うちところへ来れば、その願いが叶う。」と、手招きをする。

しかし、なんというか、人間が登場して以来、
「我が家のみ」の安泰と繁盛を願って、せっせせっせと、あれこれやって来て、現在の世界がこうである。
いい加減「我が家のみ」の繁栄を願っているだけでは、ロクなことにならないな、と気がつくひとが世界に増えてもいいのに、と、思うのですれけれど。

タイトルいずこも同じ
記事No2150
投稿日: 2013/07/10(Wed) 12:20:13
投稿者桃青
「信仰していたらこんなに良いことがあった。」という話しがどこでも飛び交う。
そういう点では、某M教の証会でも、日蓮宗の座談会でも変わりはない。
日頃、「信仰していたら良いことがあった。」という話しばかりしているので、「信仰していても、認知症になった!」と大騒ぎするのであろう。

「信仰していたのに、何故、認知症になったのだ?!」

「これは、仏のおさとしなのだ。」

「わざと辛い眼に合わせることによって、良いものを得させるという方便なのだ。」
「そのような方便を使うかたは、仏、菩薩なのだ。」

表現は違っても、このような、思考の流れは、どこの宗教にでもみられる。
人間の考えることは、そうそう変わらないものなのですね。


心理学では、耐えがたい出来ごとに遭遇した場合、

驚き→悲しみ→怒り、そして、受容が起きる。

と、説明している。
宗教は、最後の受容を形作る働きをするのだろう。

タイトルなんでも良いようにとらえて
記事No2151
投稿日: 2013/07/10(Wed) 19:19:06
投稿者桃青
「だからね、なんでも良いようにとらえて・・・」
「物事はとらえかただよ。(物は思いようだよ。)」

これも、宗教の集まりでは、よく言われますね。
時には「逆縁」などと難しい言葉を使って話される内容は
要するに、自分にとって好ましくない出来事を前向きにとらえるように努力しましょう。ということであり、
あるいは、小公女セーラのように、自分をファンタジーのヒロインとなぞらえてヒロイズムで、耐えがたい現実を乗り切ろうとすることであり・・・。

耐えがたい現実をのりきるためには、ファンタジーだろうが、なんだろうが良いじゃないか。
と、いわれるかたもおられるでしょう。

宗教関係の集まりでは、どんなことも良いように看做すことや、そうしているかたを称賛するようなところがあります。

でも、それでいいのだろうか?
私はそういうのは、どうもピンと来ません。
世の中には、私のようにピンと来ないかたも多数おられるでしょう。
たとえば、魯迅は『阿Q正伝』の主人公阿Qは、そのような物事をなんでも自分の受け入れやすいかたちとして受け入れる人物として批判的に書きました。
阿Qは悲惨な最後をとげます。
魯迅は阿Qを中国近代社会の矛盾と非合理をありのままに見つめることなく生きる人々を阿Qの姿で表したのです。

タイトルRe: なんでも良いようにとらえて
記事No2152
投稿日: 2013/07/11(Thu) 10:30:58
投稿者桃青
仏教では、仏になって物事を仏眼でみることに少しでも近づくことできるよう修行するわけですが、中には「仏眼でみる=物事を良いようにとらえる」だと思っておられるのではないか、というかたがおられる。
それも一人や二人では無い。
法の集いに来られるかたほとんど全てと言ってもよいかもしれない。

皆さん先輩なので、面と向かって「もしかしてちがうのじゃないの?」と聞けないところが辛い。

正見。
私は、正見のベースは仏教では「空観」とか「無性法忍」だ言われるものだと理解している。
なので、仏眼で見るベースもまた、「空観」を離れては有り得ないと理解している。

が、よく「八正道の正見とは、物事をありのままに正しく見るということです。」
などと説明されるが、何をもってものごとを正しく見るというのか、物事を正しく見たら、そこに何が見えてくるのか、というと、これが悩ましい。
真宗では物事をありのままに正しく見ると「阿弥陀様がおられることに気付きました。」
キリスト教(某M教)では、物事をありのままに正しく見ると「神は存在することに気付きました。」「全ては神の御業であることに気付きました。」
と、なる。

「だって、どうみても阿弥陀様はおられる。」「ありのままに見たら、神様がいないというほうがおかしい。」
両者とも口をそろえて「あなた、まだありのままに見てませんね。」

キリスト教の方々(牧師、神父といわれるかたも含めて)で、禅寺で座禅をして「世界をありのままに見る」という修行を自分に課しておられるかたも珍しくないですが、「座禅を通じて、神の存在を今まで以上に強く感じました。」と言われる。

私は私で、そのような話しをうかがいながら、
「まさに、人間とは空だなあ。無自性だなあ。」と。

タイトル法華経は優しい。その優しさとは、
記事No2153
投稿日: 2013/07/12(Fri) 11:15:06
投稿者桃青
よく法華経は優しい、といわれる。

寂聴さんは、説法で「仏様は優しいですよー。」と解説される。

仏の、法華経の、その優しさとは、中観。を指しているのだろうね。

そこらを知っていれば、「仏様の眼で見るとは、ものごとを良いようにとらえることです。」という理解は生まれないと思うし、
受け入れがたい現実を良いようにとらえて自分の気持ちを誤魔化すより、問題を大きく解決することにもなる。と思うのですけれども・・・。