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タイトル夏の法衣
記事No2232
投稿日: 2013/08/22(Thu) 09:19:32
投稿者桃青
袖口が大きく開いている法衣。
師匠が御存命のころから若上人とお呼びするのになれていた今の御住職も、いつの間にかそれなりの御歳になられまして、大きく開いた袖口から漏れだす我と我が身の加齢臭に「我ながら臭い!」と。
それで手持ちの香水を袖口に振りかけ、檀家さんの月行へ行かれたところ、
「今日はなんだか良い匂いがしますね。衣に香を焚きしめられているのですね。さすがですね。」
と、感心されることしきりだったので、
「まさか、加齢臭をごまかすために香水を振りかけたのです。とも言えず。」と、笑っておられた。

ん?今日は良い匂い?今日は??
と、いうことはその檀家さん、日頃は御住職の袖口から漏れだす加齢臭を「くっさー」と??

いや、実は私も以前から夏の御僧侶がたは若いかたもそれなりのかたもなんだか臭い。って思っていたんですよー。
その原因が袖口が大きく開いて脇の臭いと直結している法衣の構造にあるのだとわかりました。
せっかくの良い御話も臭いが気になって集中できないというのでは残念なことでしょう。
後日、私は御住職にブルガリの香水をプレゼントしました。

しかし、亡くなった師匠はどうだったのだろう。振り返ってみると師匠は月行に来られると、必ず袖口から木製の香合をすっと取り出して、中の抹香を回向してくださった。
その香りは、高雅にしてあたりが一瞬に清められたように感じるほど清々しいもので、それを申し上げたところ、「法を護持する者は、手に入れられる限り最上の香を常に持ち歩いて回向しなくては。」と、言われた。
私は自分では到底買えないような高価な香を月行のたびに回向していただくのを有り難いとも思い、楽しみにもしていた。
従兄(真宗住職)に、それを話したところ「ワシらもそうだよ。普通そうでしょ。ただ、相手によって持って行く香を変えるということはあるかもな。」と、言っていたのだが・・・。おいおい。

タイトルRe: 夏の法衣
記事No2233
投稿日: 2013/08/24(Sat) 09:20:03
投稿者しんのすけ
昨晩、家に帰ったら高校生の娘が僕のベットで寝て本を読んでいた。
まだ、加齢臭大丈夫!と一瞬思った(笑)
インドの夏はそりゃ臭そうだから、仏教には香がつきものなのかな?
相手により香を変えるのは、方便の教え?あかんあかん(笑)

タイトル娘は父親の匂いが好き?嫌い?
記事No2234
投稿日: 2013/08/24(Sat) 17:25:38
投稿者桃青
> 昨晩、家に帰ったら高校生の娘が僕のベットで寝て本を読んでいた。
> まだ、加齢臭大丈夫!と一瞬思った(笑)

さて、娘というものは父親の臭いが好きなのでしょうか?嫌いなのでしょうか?

これがねー。
好き、という説と嫌いという説と両方あるみたいなんですよ。
どちらももっともらしい生物学的説明がされています。
好きか、嫌いか、どっちやねん!どっちもー。(笑)

好き、説。の一例
http://woman.mynavi.jp/article/130609-013/

嫌い、説。の一例
http://hakuraidou.com/blog/?p=19239

タイトル乳香は臭い
記事No2235
投稿日: 2013/08/24(Sat) 17:58:58
投稿者桃青
> インドの夏はそりゃ臭そうだから、仏教には香がつきものなのかな?

確かに。
そういえば払子は元々は虫を払う道具だったとか。
虫も半端なく多いし。

キリスト教(カトリック)で焚く乳香を手に入れて焚いてみたら、もわ〜と濃厚な煙と濃厚な動物的な匂いが立ちのぼり、居あわせた人々一様に
「なんだこりゃー??」と不評でした。
勝手な想像ですが、キリスト教の乳香は生けにえの動物を焼いて神への捧げものとした名残なのかなー??
 神は生けにえを焼く煙を喜ばれる。(創世記8・21、レビ1・9 民数記15・3)

もしかしたら、乳香は心を静めるために焚く香というより生けにえの煙の代用品ということで動物的な匂いがするのかしら?
それとも単に私が手に入れた乳香が安物だったから?

タイトル公平と平等
記事No2236
投稿日: 2013/08/24(Sat) 18:05:13
投稿者桃青
> 相手により香を変えるのは、方便の教え?あかんあかん(笑)

そうそう、今日、興味深い御話を聞きました。

日蓮系のかたなら、よく御存知の「従果向因」と「従因至果」の御話です。

「相手によって香を変える」も、いわば「従因至果」なのかもしれないな。と、御話を聞きながら思ったのですよ。

つづきは後で書きます。

タイトルRe: 公平と平等
記事No2237
投稿日: 2013/08/26(Mon) 16:46:19
投稿者桃青
公平と平等はよく混同されます。
結論から言えば、仏教、とりわけ法華経は平等を説き、対して某M教等々は公平を説くと言えるのではないかと思います。

我が従兄が「相手によって持って行く香を変える」と言いますと、
眉をひそめるかたもおられるかもしれませんが、平等ではなく公平の観点からみれば、我が従兄の行為は正しく公平なのですよ。
お解りでしょうか?
仏教が公平を第一義に説く宗教なら、従兄の行為は当然として受け入れられ、「坊主がそんなことをしてもよいのか」と言う者は誰ひとりいないでしょう。

しかし、現実には檀家(主に布施の金額)によって態度や扱いを変える僧侶は、どちらかというと世の人々から「僧侶にあるまじき行為」と非難されることになる。
と、いうことは、世の人々は仏教が平等を説く教えだということをなんとなく知っているということなのだろうか。

人間はやっかいにも複雑なので、時に公平を求め、時に平等を求める。
人間は公平も平等もどちらも好きなのだが、公平を求めるひとには平等の教えは物足りないどころか、不公平を正しいとしているとしか見えないだろう。
平等を求めるひとには、公平の教えは世の不平等を肯定しているとしか見えない。

タイトル従因至果と従果向因
記事No2238
投稿日: 2013/08/27(Tue) 10:03:28
投稿者桃青
先だって従因至果と従果向因の御話を聞きながら、
これは、もしかしたら、公平と平等の話なのかもしれない。と、私は思った。

日蓮系がしきりに言う従果向因を検索してみるとヒットするページは日蓮系(特に某S学会)と真宗系ばかりだ。
真宗で従果向因を説明している全てのページが昭和の親鸞とも称される曽我量深師の言葉としているので、元々は日蓮系で盛んであった教説なのだろう。
しかし、どうもすっきりしないのは、この従果向因という言葉、日蓮聖人の御遺文中、偽書とされる御口義伝、百六箇抄にしか出て来ない言葉なのだ。
いったい誰が言いだした言葉なのだろう。
講師の説明も、「人間は仏の力によらなければ、成仏できない。」など、一歩間違うと「絶対他力」や「救いは神の恩寵」と同じように受け止められかねない危うさがあった。

それにしても、当地の布教研究会は昨今、当体義抄や御口義伝の研究に熱心なようだが、偽書と定まっているものをわざわざ檀信徒の教化に使う意味とは何なのだろう。
と、こんなことは匿名だからこそ書けるのだが。

タイトル従因至果と公平
記事No2239
投稿日: 2013/08/27(Tue) 12:23:30
投稿者桃青
従因至果とは、修行を因として段階的に仏になって行くことだと講師は解説した。

つまりは「竪の仏教」である。

日蓮聖人も親鸞聖人も「横の仏教」を伝えるかたであるから、門下は頭から堅の仏教を全く価値が無いように批判する。
仏教が教える平等を真理と観じる私も堅の仏教には批判的である。

が、観点を変えてると
ある修行をすれば誰でも仏になれるのであるから、公平という観点からみれば、これほど公平なことはない。と思わないだろうか。
(平等派は、此処に落とし穴があると見るが、公平派にはその落とし穴が見えないかもしれない。)

つづく

タイトル従果向因て何でしょうね?
記事No2240
投稿日: 2013/08/29(Thu) 11:34:58
投稿者桃青
思うに従果向因、従因至果というもの、日蓮聖人の教えを解説する教説ではあっても、日蓮聖人の教えそのものではないのではないでしょうか?

なので、従果向因、従果向因と言っているうちに、なんだかおかしなことになって行く。
たとえば、このサイトでも「従果向因」を大切なものとしていますが・・・。
http://fujisan.life.coocan.jp/index.htm
http://fujisan.life.coocan.jp/siryouko2/a%20inoritoha.htm
こちらの主宰者のかたは、このサイトの宗教を「ほんものの宗教」と言われているので、こう言っても失礼にはならないと思いますが、
ここでされている従果向因の解説は仏教ではありませんね。

でも、しかし。講師の御上人がされた従果向因に対する
「この世界は仏の世界であるから、仏の力によらなければ成仏できない。」
という解説は、聞く者をこのサイトで説かれているようなところへ導きかねないところがある。
いきなり神に結びつかないまでも絶対他力の阿弥陀如来を言っているようにも聞こえる。
これは、講師が師匠が「あの者は仏教をキリスト教的に理解している。心配だ。」と、言っておられたかただからなのか、
当地の布教研究会がそのように説こうという結論なのか、
どちらにしても、従果向因の説明に仏の力が出てくるのは、どうもすっきりしない。

タイトル因行果徳
記事No2241
投稿日: 2013/08/30(Fri) 10:47:07
投稿者桃青
従果向因と言う言葉は、偽書といわれる御義口伝、百六箇抄にしか出てきません。
そこに書かれているようなことをもっと端的に清々しく書いた一文が御聖人の御遺文にあります。

日蓮門下なら、誰でも知っている御言葉です。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」
『観心本尊抄』

いかがですか。

タイトルRe: 因行果徳
記事No2242
投稿日: 2013/09/03(Tue) 01:13:27
投稿者しんのすけ
> 従果向因と言う言葉は、偽書といわれる御義口伝、百六箇抄にしか出てきません。

おっしゃる通り。
恋愛に似てますね、好きになってしまうと全てが素晴らしく思える。
世界が輝いて見える。眩しすぎて影があること忘れてしまう。
でも、影は存在するから、ふとそれに気が付いたとき離れる。

タイトルRe^2: 因行果徳
記事No2243
投稿日: 2013/09/03(Tue) 01:29:25
投稿者しんのすけ
> 世界が輝いて見える。眩しすぎて影があること忘れてしまう。
> でも、影は存在するから、ふとそれに気が付いたとき離れる。
だから、影存在して全てを認めて付き合った方が長続きする。

タイトルRe^3: 因行果徳
記事No2244
投稿日: 2013/09/04(Wed) 17:32:24
投稿者桃青
> > 世界が輝いて見える。眩しすぎて影があること忘れてしまう。
> > でも、影は存在するから、ふとそれに気が付いたとき離れる。
> だから、影存在して全てを認めて付き合った方が長続きする。

それがねー。
惚れ切ってしまうと、アバタもえくぼ、影も影で無くなるんですよー。
そこまで惚れ切ってしまった本人は幸福でしょうが、こと宗教となると怖いこともあるし、贔屓の引き倒しということもあるんですよねー。

タイトルRe^2: 因行果徳
記事No2245
投稿日: 2013/09/04(Wed) 17:49:53
投稿者桃青
> > 従果向因と言う言葉は、偽書といわれる御義口伝、百六箇抄にしか出てきません。
>
> おっしゃる通り。
> 恋愛に似てますね、好きになってしまうと全てが素晴らしく思える。

いや、そのー。何と言うか・・・。
日蓮系で偽書を引用したがるということは、そういうのとはちょっと違うような気がします。
およそ偽書には他宗との差別化を強調している文言が多く、「他所とは違う、此処だけ!」というまるで某M教のようなメンタリティのかたにとりわけ偽書はしっくり来るようなんですね。
某S学会は「偽書ではあるが」と前置きはするものの、結局は偽書を引いて「他所はダメ、某S学会だけ」と主張する根拠とする。
なんだかそれと似ているからイヤになるのです。
檀信徒向けには偽書である、ということすら前振りしないし・・・。