[リストへもどる]
一括表示
タイトル痛ましい
記事No2246
投稿日: 2013/09/06(Fri) 11:28:13
投稿者桃青
さて、誰が楽になるのでしょう?

或る女性。
御主人が70歳で脳梗塞で倒れられ、寝たきりになられ、介護の日々。
「私がこうして元気でいられるのも、主人が病気になってくれたお陰だと思うと、病気の主人に感謝ができるようになりました。
つくづく信仰してきて良かったと思います。合掌。」

別の女性。
75歳の夫の母95歳は施設にいる。
「オカネがかかって・・・。私たちも年金暮らしだし、早く死んで呉れないかと思う。」

そのどちらへも御上人は私にしたように
「御主人はあなたの身代わりに病気になったのだから」
「あなたがた夫婦が元気でいられるのも、お母さんが病気になってくれたお陰ですから。」
と、話されたのだろう。

御上人が
「信仰心があるか、ないかで、こうも違うかと思います。
片方は御主人へ感謝の日々。片方は早く死んで呉れと愚痴の日々。
 信仰心がないと困りますね。」
と、言われたので、
「早く死んで欲しい。」と願うまで追い詰められたかたが、御上人から「このひとは信仰心がないからダメだ。」と、切り捨てらはしまいか、と、私は心配になり
「お姑さんが病気になったから、自分達が健康だ。ということは立証がしようのないことですから。」
と、申し上げてみたのですが・・・。

タイトル何処に滞りがあるのか
記事No2247
投稿日: 2013/09/07(Sat) 19:18:22
投稿者桃青
滞り つまり、仏教でいうところの「通塞」の塞ですね。

仏教では、病気に対応するには、病気の発生の仕組みを見破り(破法)、病態を識別する(通塞)ことも大切であるが、病状が好転するように対処しなければ、せっかくの知見(破法、通塞)も役に立たない。
と、言われていますが、眼の前の苦しみを言いたてているひとに破法も通塞もなく、対処しようとするのはどうなんでしょうね。
と、思います。

苦しみもがくひとに美しいファンタジーを呈示して、「これが真実だと信じ込めば楽になるよ。」と、説くしか手段がないのが宗教というのであれば、宗教とはなんとつまらないものだろう。と思う。
勿論、これは「いやいや、仏教はそれだけではおまへんでー。」という思いの反語である。

仏教は破法を説き、通塞を説き、かつ、病状を好転させなければ意味が無い。(中観)と、明言しているではないか。

タイトル困った事態と方便の教え
記事No2248
投稿日: 2013/09/09(Mon) 17:46:10
投稿者桃青
考えてみたいと思う。

何によらず困った事態とは病気のようなものである。
困った事態には、困った事態になるだけの仕組みと困った事態という状況がある。

仏教というものは、困った事態になる仕組みと状況を冷静に、何にも捉われずにありのままに見よ。
と言っているのだ。
これを破法と云い、通塞というのであろう。

法華経の説く眼目は、「皆共に」である。
誰かを誰かの身代わりにして事態の好転を計るという解決方法は、仏教的な解決法とはいえないだろう。

「あなたが健康でいられるのは、御主人が(御姑さんが、お母さんが)病気になって呉れたおかげです。

という説き方に違和感を抱くのは、説く方の

「介護が辛い、辛い、と思うばかりでは、気持ちがますます辛くなるばかりです。此処は発想の転換をして、御主人の病気に感謝できるようになってごらんなさい。そしたら心が楽になり、介護も楽になりますよ。」

という本意が透けて見えるから。というのが一番の理由である。
それでは心を楽にするための方便にはなっても、困った事態を根本的に解決する方向には結びつかないであろう。
仏教が「ありのままに見よ」と説くのは、困った事態の根本解決を計らなければ、ありのままに見る意味がない。ということでもあろうに。
というのが一番の理由である。


がそれと同じくらい方便で説かれるところの
「御主人が病気になってくれたお陰で、あなたが健康で居られる。」
という言葉に潜む考え方を危惧するからであろう。
この言葉の意味するところは、
「誰か幸福であるためには、誰かが犠牲になっている。」に他ならない。

仏教は誰かが幸福であるためには、誰かの犠牲が必要だ。
とは説いていない。

自分が幸福であるために、誰かを犠牲にしておいて、犠牲になった者へ思い切り感謝をすれば、それで良いというのは、仏教的な考え方ではない。
と、私は思う。
もう一度、「御主人が病気になったおかげで、あなたが健康で居られるのです。」
という言葉を見てみよう。
私が健康なのは、誰かが犠牲になっているから。。
では、私は誰かを犠牲にしなければ健康でいられないのか。

某M教あたりでは、誰かが幸福になるためには誰かをを犠牲にするのはやむを得ない。
と説く。
なので、「原爆落としてくれてありがとう。」と云いだす某M教徒も登場するのであるが、アメリカ人の思考に詳しいかたに言わせると
「アメリカ人はどれだけ犠牲を出しても、それを上回る利益がほんの少しでも出れば、その作戦は成功だったと捉える。」
のだそうだ。
これがあながちそのかたの偏見でもないことは、そのような観点から彼らの行動をとらえると、彼らの行動が辻褄があってくるところからも解るだろう。
さて、この「犠牲あってこその成功。」という考え方は、どこから来たのだろうか。

たとえ方便の教えであっても、「皆共に仏道を成ぜん。」という法華経の眼目を離れないものであってほしいものだと思う。
南無妙法蓮華経。

タイトル信仰とは見破られるウソを信じることなのか
記事No2249
投稿日: 2013/09/10(Tue) 12:22:16
投稿者桃青
「あなたが元気なのは御主人が(あなたの代わりに)病気になって呉れたから。御主人に感謝しなくてはね。」

これを信じこんで御主人に感謝できるようになった女性は、信仰心を称えられ、

「あなたたちが元気なのは、御姑さんが(あなた達の代りに)病気になって呉れたから。御姑さんに感謝しなくてはね。」
これを信じこめなくて、これ以上の介護はどうにも経済的に苦しいから早く死んで欲しいと口走る女性は、仏を信じる心が無いからダメだ。と眉を顰められる。

しかし、どうだろう。
「あなた達が元気なのは、誰かがあなたの身代わりに病気になって呉れたからです。あなたの身代わりに病気になって呉れた人に感謝しましょう。」
こんな話が世間に通用するだろうか。
私たちは生きていれば様々な病気になる。それは決して誰かの身代わりに病気になるのではない。
内的外的要因によって病気になるのである。
仏法はそもそも科学的知見を無視しなければ成り立たないような教えではない。

世間に通用しないような御伽話を信じこまなければ非難される。というのでは、トンデモ教義を信じこませるカルト集団と変わるところはないではないか。
カルト集団では、信者は集団に忠誠を誓うために、あるいは指導者に阿るために、信じていないことでも信じていると言うらしい。

タイトルRe: 信仰とは見破られるウソを信じることなのか
記事No2260
投稿日: 2013/09/13(Fri) 12:11:57
投稿者HIROMI

> 仏法はそもそも科学的知見を無視しなければ成り立たないような教えではない。
>
> 世間に通用しないような御伽話を信じこまなければ非難される。というのでは、トンデモ教義を信じこませるカルト集団と変わるところはないではないか。
> カルト集団では、信者は集団に忠誠を誓うために、あるいは指導者に阿るために、信じていないことでも信じていると言うらしい。

考えるのをやめた時、我々は簡単にこういう御伽話を信じたくなります。
幼稚なんだと思います。

先進国と呼ばれて久しい我が国ですが、
年々、御伽話がはびこり、流行っているような気がします。
これでは、難題に取り組み、解決するという
人類の英知が退化していってしまいます。

タイトルRe^2: 信仰とは見破られるウソを信じることなのか
記事No2262
投稿日: 2013/09/13(Fri) 16:28:31
投稿者桃青
>
> 考えるのをやめた時、我々は簡単にこういう御伽話を信じたくなります。
> 幼稚なんだと思います。
>

おっしゃる通り・・・幼稚なんですね。

> 先進国と呼ばれて久しい我が国ですが、
> 年々、御伽話がはびこり、流行っているような気がします。
> これでは、難題に取り組み、解決するという
> 人類の英知が退化していってしまいます。

「仏の顔も三度」という言葉の元となった御話がありますね。
はじめてその話を知った時、正直言うと、私は生国が滅ぼされるのを止めることができなかった御釈迦様に失望したのですよ。
超能力で奇跡を起こせなかったのか、とか、攻めて来る敵の大将をどうにかして説得する力も仏教には無いのか、とかね。

キリスト教や某M教ばかりでなく多くの宗教や民族の伝説は、「我に仇為す敵」を打倒してしまう神や英雄の話を持っていますから。

ずーっと、何故、御釈迦様は生国が滅ぼされるままにされた。という話しになっているのだろうか。
と、考えていたのですが、そのうちにだんだんその答えが解ってきました。

最近、奥さんがシリア人というかたがシリア情勢について書いているものを読んだのですが、シリア人は「アメリカでもどこでもいいから政府軍の暴虐を止めて欲しい。」とアメリカの武力攻撃を歓迎しているというのです。
もちろん、シリア人が本当にそう言っているかどうか、裏付けがとりようがないし、シリアの独裁体制を考えれば、こういうことを言うのは憚れるのですが、あえていいますと、
御釈迦様が御覧になったのは、誰か圧倒的な力を持ったものが自分達を救いだして呉れたり、自分達に富と平和をもたらして呉れるという世界では無く、そういう世界にしたいのなら、自分達で地道になんとかして行くしかない世界だったのだろう。と。

自分達を苦境から救いだしてくれる誰かを期待する気持ちは、独裁者の登場も許してしまう下地にもなるのでしょう。

タイトル内観療法
記事No2250
投稿日: 2013/09/10(Tue) 12:54:16
投稿者桃青
病気になった御主人や御姑さんに対する感謝の念を起こさせることによって、介護の苦悩からの脱却を計るのが目的であるなら、自分がこれまでして来たこと、相手からしてもらったことをくまなく思い出させ、そこから相手への感謝を見出して行くという真宗の教えから生まれた内観療法というものがある。

これも、相手が御主人であるなら、甘い新婚時代もあったであろうから、感謝の念や相手に対する愛着を引きだしやすいからもしれないけれど、出逢ったときから険悪ムードだった御姑さんでは、難しいかもしれない。

「信仰心がないひとは困る。」と言われた御上人に、
「信仰心云々もあるでしょうが、相手が愛しい御主人とそれほど愛しくもない御姑さんでは、同じ病気になっても受け止め方が違うのではないでしょうか。」
とも申し上げておいたのだが・・・。

タイトルRe: 内観療法
記事No2251
投稿日: 2013/09/10(Tue) 20:52:27
投稿者HIROMI
> 病気になった御主人や御姑さんに対する感謝の念を起こさせることによって、介護の苦悩からの脱却を計るのが目的であるなら、自分がこれまでして来たこと、相手からしてもらったことをくまなく思い出させ、そこから相手への感謝を見出して行くという真宗の教えから生まれた内観療法というものがある。
>
内観療法ってそうなんだ。知りませんでした。
私は、ココだけの話、舅姑が嫌いで嫌いでしかたなく、
でも、そういう心は醜い心だ、間違ってるんだ、と自分を戒め、
なんとか両名を好きになろうと、感謝できるところを探し、
いいところばかりを意識して、
なんとか好きになろうと努力したこともありました。

でも、無理でした。
姑は病であまり長くかからずに鬼籍に入りましたので、
我々は介護の苦労をせずに終わりました。
ですから、「介護をさせないでくれてありがとう。」とは
素直に言えますが。
でも悲しいことに生前の姑を思い出すにつけ、
ほとんどがいやな思い出で、
亡くなった人を悪くは言いたくないし、
亡くなると思い出は美しくなると俗に言われているけれど、
やっぱり好きになれないでいます。
やっぱり感謝の心が足りないんでしょうか?
不遜の塊なんでしょうか?
私はよっぽど信仰心からかけ離れたどうしようもない、
ほんとにどうしようもない人間なんだなあ、って思っちゃいます。
ちなみに私がうつ病を患ったのは姑が亡くなった直後でした。
(俗にいう祟りかな?こわっ。)

タイトルRe^2: 内観療法
記事No2252
投稿日: 2013/09/11(Wed) 19:00:52
投稿者桃青
HIROMIさん こんにちわ

> 内観療法ってそうなんだ。知りませんでした。

内観療法もひとによってはネガティブな思い出しか浮かんでこないことも当然あるでしょう。
なのでまともな心理療法の現場では、内観療法も様々なアプローチの選択肢の一つという扱いですが、宗教指導者はえてして、対人関係の苦しみを抱えて相談に来るものに対しては、「とにかく感謝ができるようになれば、すべて上手く行く。感謝できるように指導しなくては。」としか思っていないのではないか、と疑いたくなるようなことが多々あります。

> 私は、ココだけの話、舅姑が嫌いで嫌いでしかたなく、
> でも、そういう心は醜い心だ、間違ってるんだ、と自分を戒め、
> なんとか両名を好きになろうと、感謝できるところを探し、
> いいところばかりを意識して、
> なんとか好きになろうと努力したこともありました。
>
> でも、無理でした。

そうでしょう。無理だと思いますよ。
嫌いになるにはなるだけのエビデンスがあるんです。
そういったものをいっさい無視して「嫌いになるほうが悪い。」と押し付ける。
押し付けるほうがにもエビデンスはありますが、それは主に道徳と美しい神話です。
美しい道徳と美しい神話で頭がいっぱいになっているので、相手の苦しみの様相(通塞)が眼に入らないのでしょう。

まずね、「誰かが嫌い」ということ自体とっても苦しいものなのですよね。
誰かが嫌いで嫌いで、心が苦しいのに、そこへ「感謝できないのは私が悪い」という苦しみが加わる。
感謝のおしつけなどやめればいいのに、と思いますね。

> 姑は病であまり長くかからずに鬼籍に入りましたので、
> 我々は介護の苦労をせずに終わりました。
> ですから、「介護をさせないでくれてありがとう。」とは
> 素直に言えますが。

ね。本当に有り難いと思った時て、どうせんでも「ありがとう」と自然に手を合わせたくなるでしょう?
なので、私は、無理に感謝を押し付けることはないって思うのですよね。

タイトルRe^3: 内観療法
記事No2253
投稿日: 2013/09/11(Wed) 23:19:42
投稿者大悲山
こんにちは。

> 内観療法もひとによってはネガティブな思い出しか浮かんでこないことも当然あるでしょう。

これがまた、ネガティブな思い出ばかりが浮かびやすいタイプの人に施術しようとする向きがあり、非常に危ういですよね・・・。
それに、想い起こす対象をまず母親とし、次いで家族、周囲の人、そして最後に再び母親について内観するようですが、母子関係に重きを置き過ぎるのも非常に危険な面があると思います。


> なのでまともな心理療法の現場では、内観療法も様々なアプローチの選択肢の一つという扱いですが、宗教指導者はえてして、対人関係の苦しみを抱えて相談に来るものに対しては、「とにかく感謝ができるようになれば、すべて上手く行く。感謝できるように指導しなくては。」としか思っていないのではないか、と疑いたくなるようなことが多々あります。

感謝の心に欠いた他罰的な人間は矯正させる必要があると脊髄反射的に思い込む指導者が多いようです。
しかし、そうした発想が最も他罰的なものだと思うのですが、「感謝教」を信奉する人にはなかなか通じなかったりします・・・。

>誰かが嫌いで嫌いで、心が苦しいのに、そこへ「感謝できないのは私が悪い」という苦しみが加わる。

そういう、なんとか心構えで何とかしなくては!と葛藤をおぼえやすい人は感受作用が強いほうですから受薀に乱調が生じやすいでしょうし。
つまり怨憎会苦に五取薀苦(五陰盛苦)が加わると、かなり辛いことになってきますね。

タイトルRe^4: 内観療法
記事No2255
投稿日: 2013/09/12(Thu) 09:46:45
投稿者桃青
大悲山さん
こんにちは。

> これがまた、ネガティブな思い出ばかりが浮かびやすいタイプの人に施術しようとする向きがあり、非常に危ういですよね・・・。

これもまた、おそらく施術する側に「ネガティブな思い出ばかり浮かぶのは、感謝する心がないからだ。感謝することができるようになれば、ネガティブな思い出ばかり浮かぶこともなくなる。」という信念があるからでしょう。
そもそも内観療法というものが、周囲に対する感謝の心を引きだすことによってトラブル(塞)の解消を図るというものですからね。
「人間、感謝を忘れてはいけない。感謝できない人間は人格的に欠陥がある。感謝できるようになれば人間関係は上手く行く。」と思いこんでいるかたには、内観療法は「我が意を得たり。これしかない!」という手法になるのでしょう。
そういうかたは内観療法もトラブルへのアプローチの一つの手段に過ぎないとは思えず、また「感謝できるかできないかが、トラブルの原因だ。」と思いこんでいるかたには、トラブルの通塞など見る必要はなくなるのでしょう。

> それに、想い起こす対象をまず母親とし、次いで家族、周囲の人、そして最後に再び母親について内観するようですが、母子関係に重きを置き過ぎるのも非常に危険な面があると思います。
>

少し前から「女性なら誰でも生まれながらに母性があるというのは神話だ。」ということも言われるようになってきましたが、内観療法という手法が成立したころは、母性神話が信じられていた時代ですから、内観療法は母性の神話を元にしているということも念頭に置いておいたほうが良いかもしれませんね。

少しずれまずが、キリスト教圏では、心理療法や精神医学の現場で「神の愛に気付かせる」という手法がよく使われると、某精神科医から聞きました。
精神医学をあくまでも科学として見たいと立場からは、治療者が積極的に宗教を利用することに対して批判があるそうですが、成果は確実にあるそうで、日本でもクリスチャンの医療者の中には積極的に治療に神の愛を使うかたもおられると同じ精神科医のかたが言われてました。

神と母。。姿が見えない神と違って現実の母を用いるには余程の注意が必要だろうと思います。

>
> 感謝の心に欠いた他罰的な人間は矯正させる必要があると脊髄反射的に思い込む指導者が多いようです。
> しかし、そうした発想が最も他罰的なものだと思うのですが、「感謝教」を信奉する人にはなかなか通じなかったりします・・・。
>

通じませんね。
それは「感謝の心が無いからトラブルが起きる。」と固く思いこんでおられるからでしょう。

トラブルを成り立たせている要因は「感謝の心」だけではないでしょうに。

タイトルRe^5: 内観療法
記事No2257
投稿日: 2013/09/12(Thu) 16:09:17
投稿者大悲山
>感謝できない人間は人格的に欠陥がある。

そういう発想しかできないほうが問題(塞)があると思うんですが、そういう心理療法家、宗教者は多いですね(~_~;)

>感謝できるようになれば人間関係は上手く行く。」と思いこんでいるかたには、内観療法は「我が意を得たり。これしかない!」という手法になるのでしょう。

感謝じたいは好いことだと思いますし、人間関係もスムーズに行くことも少なくはないでしょう。
それによって和やかな人間関係を招いたのであれば、ストレスも軽減するのでしょうが、それを原因論に持ち込むことは変な話ですね。

内観では次のように省みるようです。

1、お世話になった事
2、して返した事
3、迷惑を掛けた事

なぜ、まずお世話になった事から始めるのでしょうね^_^;
それと「4、迷惑を受けた事」を付け加えてほしいですね(笑)
そうでないと偏ると思いますわ。

不登校の若者に養育費の計算までさせる事もあるそうです(-_-;)
「そこまでして育ててくれたのか!」と感謝する子もおられるでしょうが、感謝したから病気が治るとは限らない(というか私見では治らないほうが多い)のに、状況は変わらず自責の念だけを募らせるとしたら大変な事になります。
内向的な人は内観は受けない方がよいと思います。
むしろ、政治家とかワンマン社長といった軽躁成分の強そうな人に適してるような(笑)

Googleで「内観療法 弊害 」で検索してみました。
これといって弊害もないので受け易いとか書いてるサイトもあって驚きました。
「内観療法のご紹介と注意点について」という記事はきちんと長短が書かれていて好いと思いました。

>キリスト教圏では、心理療法や精神医学の現場で「神の愛に気付かせる」という手法がよく使われると、某精神科医から聞きました。

うわ・・・なんか恐いですね。
効く時は効くのでしょうが、一時的な方便であってほしいように思います。
日本の精神科医でも摂食障害に、ダイアモンドの心が埋まってると説いて自信を付けさせる医師がいましたが、如来蔵系の経典と似た所があるなあって思ったものです。
私はその手の経典はあまり好ましく思っていないのですが、そういうのが向いている人・・・というか、そういうのが必要な場面もあるのかもしれませんね。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^6: 内観療法
記事No2261
投稿日: 2013/09/13(Fri) 12:32:45
投稿者桃青
> >感謝できない人間は人格的に欠陥がある。
>
> そういう発想しかできないほうが問題(塞)があると思うんですが、そういう心理療法家、宗教者は多いですね(~_~;)
>

人間関係にトラブルがあるという状態を成り立たせているものはそればっかりではないのにね。
自分の頭の中に出来あがっているストーリーでしか相手を見ないから、そこに生じている塞を正確に見ることができないのでしょう。

頭の中にストーリーは脇に置いといて、もっと眼の前にある現象をよく見てくださいて。

> 感謝じたいは好いことだと思いますし、人間関係もスムーズに行くことも少なくはないでしょう。

京の舞妓さんの「へー、おおきにー」ですね。
嫌な誘いも嫌な客もはんなり笑顔で「おおきに」とやりすごす。
洗練を極めた最高のマナーだと評価が高い。


余談ですが、認知症の母は自分からは殆ど言葉を発しなくなって久しいのですが、「ありがとう。」「あなたに会えて良かったわー。」という二つの言葉だけは忘れず、この二つの言葉を駆使してデイでもショートでも良好な人間関係を得ています。
でも、私は一度も言ってもらったことがない。
一番世話している私に対しては、いつも思い切り不機嫌そうな様子なのに、他所ばかりで良い顔して、どういうこと?!
と腹が立ったこともありましたが、母にとって私は自分が生んで育てた子供ということで、何の気兼ねも遠慮も要らない、不安も怒りも不機嫌さも安心してぶつけることができる存在なのだろうな。
と、今は腹も立たなくなりました。かと言って楽しくはないですけど。(笑)

> 内観では次のように省みるようです。
>
> 1、お世話になった事
> 2、して返した事
> 3、迷惑を掛けた事
>
> なぜ、まずお世話になった事から始めるのでしょうね^_^;
> それと「4、迷惑を受けた事」を付け加えてほしいですね(笑)
> そうでないと偏ると思いますわ。
>

感謝を引きだすのが目的ですから、そのような構成になっているのでしょう。


> 不登校の若者に養育費の計算までさせる事もあるそうです(-_-;)
> 「そこまでして育ててくれたのか!」と感謝する子もおられるでしょうが、

「親に感謝させようとしているな。」と見破って
「イヤミったらしい」「自分の為にカネを使ってくれと頼んだわけではない。」「教育費をつぎ込んだのには親のミエもあるでしょ。」とますます反発する子もおられるでしょう。

>感謝したから病気が治るとは限らない(というか私見では治らないほうが多い)のに、状況は変わらず自責の念だけを募らせるとしたら大変な事になります。
> 内向的な人は内観は受けない方がよいと思います。

まともな心理療法士や精神科医はそのあたりの弊害も熟知しているので、無闇に内観療法を勧めたりしないでしょうが・・・。
「私は(orあのひとは)これで感謝できるようになって、ぐっと変わった。」と思い込んでいるひとが怖い。

> むしろ、政治家とかワンマン社長といった軽躁成分の強そうな人に適してるような(笑)
>

そういうかたの中には大きな病気を患って、「病気になったお陰で初めて周囲に感謝できるようになった。」と、言われるかたも珍しく無いですが、病気という気弱な時期だからこそ、内観療法めいたこともしてみる気になったということで、元気溌剌で某M教風の自己責任で事業を見ているころには、内観療法などしてみる必要などまったく感じないでしょう。(笑)
またそういうかたが周囲への感謝の目覚めたとおっしゃるので、周囲への感謝に目覚めるとどう変わるのかと見ていると、奥さんへのプレゼントが増えたり、夜出歩くのを控える。くらいに留まることが殆どです。

>
> >キリスト教圏では、心理療法や精神医学の現場で「神の愛に気付かせる」という手法がよく使われると、某精神科医から聞きました。
>
> うわ・・・なんか恐いですね。
> 効く時は効くのでしょうが、一時的な方便であってほしいように思います。

「こんな私でも神は愛していてくださる。」
ということに一旦気付いたら、それを手放しては生きていけないような気持ちになるのではないでしょうか?
「神の愛」を利用する側は一時的な方便にするつもりではなく、一生ものの杖柱を与えるつもりで、クリスチャンの精神科医は患者に神の愛を説くのだと思いますよ。

> 日本の精神科医でも摂食障害に、ダイアモンドの心が埋まってると説いて自信を付けさせる医師がいましたが、如来蔵系の経典と似た所があるなあって思ったものです。
> 私はその手の経典はあまり好ましく思っていないのですが、そういうのが向いている人・・・というか、そういうのが必要な場面もあるのかもしれませんね。

説く側が方便だと解っていれば良いのですけれど・・・。

タイトルRe^3: 内観療法
記事No2254
投稿日: 2013/09/12(Thu) 09:42:02
投稿者HIROMI
桃青さん ありがとうございます。

> まずね、「誰かが嫌い」ということ自体とっても苦しいものなのですよね。
> 誰かが嫌いで嫌いで、心が苦しいのに、そこへ「感謝できないのは私が悪い」という苦しみが加わる。

そうなんですよね!
誰かを嫌いだと感じる、そのこと自体が苦しみなんです。

先日、娘(次女)が見知らぬ学生風の女の子二人組が楽しそうにお喋りしながら、
前を歩いているのに出くわしたと話し始めました。
彼女たちはやがて、お喋りに気を取られてつまづいたそうです。
それを見ていた娘は、なぜか「ざまあみろ」と思ったそうです。
そして、「自分の中にも、どす黒い感情が渦巻いていると気付いた」、
と、淡々と話してくれました。
きっと、娘は何かに苦しんでいるな、と直感しました。
でなければ、そんな些細な話をわざわざ私にするはずがありません。

そんなとき、私はどう言ったらいいんだろう。
親らしく、「そんな意地悪な気持ちはなくさないと」なんて説教するか?
いや、最悪だ。白々しい。
じゃ、「そういうこと、だれにでもあるよ」と、さらっとかわすか。
いやいや、もっと事は深刻かもしれない。
「何か、悩みがあるの?」と、尋ねてみるか?
うーん、そこまでは話したくないかも。

そんなこんなで悩んでいるうちに、私は結局何も言えなかったのです。

心にどす黒い感情がいつまでもくすぶっていて苦しいとき、
酷い場合は他人を攻撃して憂さ晴らしをしてしまう。
それだけはしたくないから悩んでしまうのかもしれない。
自分がいつも晴れやかでいたい。そう願うとき、
じゃあ、どうしたら?となるわけです。

結局「やさしさ」はゆとりから生まれるんですよね。
ゆとりがないからキツイことしたり、言ったり、してしまう。
人間は、ほんとにたいしたことないな、と思ってしまいます。

> ね。本当に有り難いと思った時て、どうせんでも「ありがとう」と自然に手を合わせたくなるでしょう?
> なので、私は、無理に感謝を押し付けることはないって思うのですよね。

「感謝」って、最近若い子がやたら口にしますよね。
金メダルを獲っても、売れっ子タレントになっても、
「支えてくれた人たち、ありがとう」
「育ててくれて応援してくれる親や家族に感謝です」って。
微笑ましいけど、なんだかなあって。
「わざわざココで言わなくったって。そんなのあたりまえじゃん」、って思ってしまうときも正直あります。
意地悪ですか?(笑)
「ありがとう」って言って怒る人は滅多にいないから、
無難なコメント、ということでしょうか。
感謝する人が素敵で、そうじゃない人はダメって感覚が
過剰に蔓延してるから、
挨拶のように、息をするように、
みんなが感謝感謝とアピールして、
言わされているような気がしてならない。

タイトルRe^4: 内観療法
記事No2256
投稿日: 2013/09/12(Thu) 10:31:23
投稿者桃青
こんにちわ

> それを見ていた娘は、なぜか「ざまあみろ」と思ったそうです。
> そして、「自分の中にも、どす黒い感情が渦巻いていると気付いた」、
> と、淡々と話してくれました。
> きっと、娘は何かに苦しんでいるな、と直感しました。

娘さんの心の異変にさっと気付かれるところはさすがだと思います。
娘さんもまた繊細で感受性の強いかたなのでしょう。
自分の中にあるどす黒い感情を客観的に捉えることができるということは、感受性と知性が無くてはできないことですから。

> 親らしく、「そんな意地悪な気持ちはなくさないと」なんて説教するか?
> いや、最悪だ。白々しい。

そーですよ。
そんな繊細な感受性と知性を持ったかたに、そんな鈍感は言葉は不必要でしょう。

> じゃ、「そういうこと、だれにでもあるよ」と、さらっとかわすか。

誰にでもあっても、気付かないひとや「自分はその感情に苦しんでいるのだ」ということすら気付かないひとのほうが遥かに遥かに多いのです。

> そんなこんなで悩んでいるうちに、私は結局何も言えなかったのです。
>

何も言えなくても、娘さんには「お母さんは私のことを解っていてくれる。」ということは伝わったのではないでしょうか。
誰に解ってもらえなくても、最低お母さんだけは私のことを解っていてくれる。という信頼が大切なのだと思いますけど。

> 結局「やさしさ」はゆとりから生まれるんですよね。
> ゆとりがないからキツイことしたり、言ったり、してしまう。

ほんと、そうですね。
例えば、介護の悲劇も結局はオカネと労力のゆとりのなさから生まれるのです。
労力もオカネもどちらも物理的なもので、絶対量の不足を相手への感謝の心や相手を仏だと思いこむことによって解消させようとしても、無理だろうと思うのですね。

> 人間は、ほんとにたいしたことないな、と思ってしまいます。
>

そうです。
皆、ただのひと。なんですね。

>
> 「感謝」って、最近若い子がやたら口にしますよね。
> 金メダルを獲っても、売れっ子タレントになっても、
> 「支えてくれた人たち、ありがとう」
> 「育ててくれて応援してくれる親や家族に感謝です」って。
> 微笑ましいけど、なんだかなあって。
> 「わざわざココで言わなくったって。そんなのあたりまえじゃん」、って思ってしまうときも正直あります。
> 意地悪ですか?(笑)

いいえ。(笑)
あっちを向いてもこっちを向いても幼顔の残る選手やタレントがつっかえながら「ありがとう。感謝してます。」
不自然ですよ。教えこまれ、叩きこまれたのでしょう。

某国の人々が口にする「偉大なる指導者様のお陰です。」とそんなに変わりはないかもしれません。

> 「ありがとう」って言って怒る人は滅多にいないから、
> 無難なコメント、ということでしょうか。
> 感謝する人が素敵で、そうじゃない人はダメって感覚が
> 過剰に蔓延してるから、
> 挨拶のように、息をするように、
> みんなが感謝感謝とアピールして、
> 言わされているような気がしてならない。

電脳和尚様は言われました。
「感謝ばかりしていると感性が鈍る。」

至言だと思います。

タイトルRe^4: 内観療法
記事No2258
投稿日: 2013/09/12(Thu) 17:34:36
投稿者大悲山
HIROMIさん
初めまして・・・ではなく、ご無沙汰してます。
HENJINの掲示板のコメントは時々読ませてもらってました。
体調も良くなられたようで何よりです。

> 見知らぬ学生風の女の子二人組が楽しそうにお喋りしながら、
> 前を歩いているのに出くわしたと話し始めました。
> 彼女たちはやがて、お喋りに気を取られてつまづいたそうです。
> それを見ていた娘は、なぜか「ざまあみろ」と思ったそうです。
> そして、「自分の中にも、どす黒い感情が渦巻いていると気付いた」 と、淡々と話してくれました。

純文学作品の一節のようなエピソードですね。
凄く客観視に長けたお子さんなのだと思います。
それだけに、いろいろ見え過ぎて苦しんで居られるのかもしれません。
私だったら、どう言うでしょうね。
「それは知見が鋭い。なかなかセンスいいね」って褒めるかも^^;

天台宗の『観音玄義』という書には、仏にもどす黒い悪の心があり、それでいてその悪を知悉していて行為化することがない。
これを「修悪を断じて、性悪を断ぜず」というそうです。
人間の悪や愚を仏が突き放さないのは、仏にも悪があるからだ、と云われています。
観心というのも、心に生じては滅する様々な現象を客観視することから始めます。

だから、娘さんの感受性の強さや客観視に長けていることを私は素晴らしいと思うのですが、
それでもやっぱり辛い事には変わりはないので、少しでも気持が休まることを祈りたいです。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^5: 内観療法
記事No2259
投稿日: 2013/09/13(Fri) 11:53:39
投稿者HIROMI

> 初めまして・・・ではなく、ご無沙汰してます。
> HENJINの掲示板のコメントは時々読ませてもらってました。
> 体調も良くなられたようで何よりです。

ありがとうございます!
そのように言っていただいて嬉しく思います。

く客観視に長けたお子さんなのだと思います。
> それだけに、いろいろ見え過ぎて苦しんで居られるのかもしれません。

娘には過ぎたお言葉をいただいて恐縮します。
娘には、「それでよい」というメッセージを送り続けようと思います。

若い時はだれでも自意識過剰気味になるのは当然の成長の過程ですが、
娘の場合は少々度が過ぎています。
子供の心は頑なで強くまっすぐゆえに、粘りに欠け、折れやすいものです。
大人になるにつけ、粘りとしなやかさを増して世の中に順応しやすくなるものですが・・・。
娘は発達に遅れがあるのかもしれませんし、ないのかもしれない、
こればかりは私にもわかりません。
遅くてもいいので、少しずつ柔軟性を身につけてほしいものです。

> 天台宗の『観音玄義』という書には、仏にもどす黒い悪の心があり、それでいてその悪を知悉していて行為化することがない。
> これを「修悪を断じて、性悪を断ぜず」というそうです。
> 人間の悪や愚を仏が突き放さないのは、仏にも悪があるからだ、と云われています。

仏にも悪があるのですね!
さらに仏に親しみを感じますね。

そういえば「悪いことを思うのは自由、しなければよい。」
以前はこんなふうに明確に子供たちを教育していたような気がします。
だから子供達は普段は品行方正でも、腹の中で舌を出していた。
そんなしなやかさとしたたかさがありました。
そうやって理不尽な世の中をすいすいと渡っていけたのです。
最近の我が国は、悪いことは思うことすらいかん、というような風潮があります。
日本人お得意の「本音と建前」はいかん、というのです。
平和になりすぎた弊害でしょう。
結果的に、平気で愚かなことを言ったりしたりする人が増えました。完全にはき違えています。
人間を過大評価するからこんなことになったのではないでしょうか。

話が少々逸れました。

多くの子供達は「私は純粋で清くなければならぬ、良い人でなければならぬ」、と
自らを縛ってにっちもさっちもいかなくなっています。
そして自分の生きづらさを嘆き苦しみ、人生を台無しにしています。要するに幼稚なのです。
幼稚さを助長する世の中というのは、本当に罪なことだと思っています。