タイトル | : 出家(出離)の心 |
記事No | : 2272 |
投稿日 | : 2013/10/01(Tue) 18:04:27 |
投稿者 | : 桃青 |
仏教で八正道は、基本中の基本です。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
その中でも特に大切なのは、最初の二つ「正見」と「正思惟」ですね。 この二つを合わせて「慧」なんですね。
正思惟ね。 正しく見る、も難しいですが、正しく思惟する、も難しい。 何故難しいかと言えば、誰も自分の見方や考え方が間違っているとは思っていないからです。
一応仏教では、正しい思惟の方法が説かれています。 それもまた一つのマインドコントロールだと言われるかたもおられるでしょうが、私はこういう思惟を「正しい」とした仏教を深く信頼しています。 何故なら、「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」という切なる願いを人間に抱かせるのも、仏教が説く「正思惟」であろうと思うからです。
正思惟の解説: 「人間は害意、瞋恚、貪欲に日夜振り回されていることを省察することです。」 *ここでポイントとなることは、「省察」ですね。 害意、瞋恚、貪欲に振り回されていることを道徳で裁かないで、ただ、「ああ、振り回されているなあ〜」とだけ見るのですよ。 「人間の独善性や利己主義の非を考えることです。」 *これも道徳で裁かないで、つまらないことにこだわってるなあ。やめたほうがいいのになあ。と、ね。
「正思惟は出家(出離)の心や不害、不瞋への志向性を得るための施策です。」
*ここで出家(出離)と言っているのは、家を出て坊さんになろうということではないのですよ。 道元師は「在家感覚のままでは、さとりは得られない。」と言われたそうですがここで言う在家感覚とは、自分に関わることにだけに悲であること、すなわち小悲のままであることを指すそうです。 自分に関わりのないことでも悲であるのを大悲というそうで、さとる時は大悲だということですね。
以前、某M教のかたでこの掲示板へ来られたかたが 「まずは、自分の家族、それから、某M教会の友人。その他のひとは余力があったら助けましょう。」というのが某M教の精神だ。 と書かれていましたが、人間にふと現れる「大悲」の心を無いものとしてしまうとは、もったいないことだなあ。と思われてなりません。
今日も痛ましいことに、踏切で動けなくなった老人を助けようとして電車にはねられて亡くなった女性がおられましたが、この女性もうずくまっている男性が自分の家族だから助けようと思われたのではないでしょう。 某M教のかたはこういう女性に対して「自分の能力もスキルも考えずに自分の家族でも無い者を助けようとするからだ。」と、言われるのでしょうか?
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