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タイトル仏にまかせる。ということ。
記事No2278
投稿日: 2013/10/07(Mon) 09:35:28
投稿者桃青
最近、こちらでは「仏にまかせなさい。」という説法がよくされる。

タイトルRe: 仏にまかせる。ということ。
記事No2279
投稿日: 2013/10/07(Mon) 09:47:05
投稿者しんのすけ
> 最近、こちらでは「仏にまかせなさい。」という説法がよくされる。
おはようございます。
まだ、発信途中だろうからコメントするのはどうかな?と思いますが。
これは良く使われる言葉ですが、努力否定ではなくて人事を尽くして天命を待つとか、
天は自ら助ける者を助けるみたいな感じ?自分で決められない事で悩まず仏にお任せということかな?

タイトルRe^2: 仏にまかせる。ということ。
記事No2282
投稿日: 2013/10/08(Tue) 11:01:35
投稿者桃青
しんのすけさん

コメントありがとうございます。

> これは良く使われる言葉ですが、努力否定ではなくて人事を尽くして天命を待つとか、
> 天は自ら助ける者を助けるみたいな感じ?自分で決められない事で悩まず仏にお任せということかな?

これは、心理学カウンセリングの手法では「棚上げ」と名付けられている方法ですね。
クライアントが解決の方法がすぐには見つからない問題を解決しようとして混乱している場合、ひとまずその問題を棚上げさせると良い。
ね、心理学って身も蓋もないでしょう?(笑)

あと、カウンセリングの手法としては、初めて来たクライアントには、まず
「これまで、さぞ辛い思いをされたでしょう。」
と、言う。
というのもあります。

 多くのキリスト教会が表に掲げている「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という聖句は、カウンセラーがクライアントに最初に告げる言葉として指導される「これまでさぞ辛い思いをされたでしょう。」と、主意は同じか似ているのではないかと思われます。
こう言ったからといって、聖句やカウンセリングの手法が悪いと言っているのではありません。
悩み苦しむ人間というものは、そのように言われるとほっとする。
そのように言われてほっとするのが人間なのです。
ただし、世間にはそのように言われてほっとして、相手を信じたのが地獄への入り口だったということもないわけでもないですが、取りあえずはほっとして、ほっとした途端に相手をふと信じてしまう。

仏教でも、寺へ悩みを抱えて来たひとにまず入口でかけるこのような言葉があれば、なあ。と思います。

「棚上げ」に戻ります。

混乱している原因となっている問題を棚上げするには、罪悪感とか、敗北感とか、プライドとか、いろんな感情が渦巻いて、棚上げなどなかなかできないものです。

棚上げするには棚上げすることは正しいのだ。とする根拠が必要です。
カウンセリングでカウンセラーに依存しているかたなら、
「先生が言われているのだから、そうしよう。」
となるのでしょうが・・・。

神や仏を信仰しているひとには、神や仏を持ちだして「おまかせしなさい。」と、説けば、棚上げもしやすくなるのでしょう。

私も法の話を聞くきっかけとなった問題が10年たっても、どうにも解決しなかった時、師匠から
「桃青さん、もうこうなったら、仏様におまかせするしかないわな。」
と、言われました。

「そんなー。何か解決法があるはずだ!日蓮聖人も人間の問題が人間に解決できないはずはない。て、言われたって、師匠が言われたじゃないですかー?!」

と、不満でしたが、反面、どこか「そうか、もうこの問題が解決しないからといって苦しまなくてもいいのだ。」
と、ほっとした部分もありました。

その後、仏教の知識も増え理解も進んだ今現在、振り返ってみて、あの時点で問題を棚上げしたことが良かったのか、悪かったのか、私には解りません。
こういう時、キリスト教のかたなら、「全ては神の御業です。」と思われるのでしょうか。
私は、仏教の教えをあのころよりは解った今、同じ問題に直面したら、あのころとはまた違う思いをもって行動できるのだけれど・・・。
と、少しだけ残念です。
しかし、法華経の教えによって
「全ては<私>なのだ。<私>が<私>であるかぎり、私が体験したような問題はどこにでも起きるだろうし、問題が起きるということはその解決法(常光土の世界)も必ずあるだろう。
<私>は、いつか解決するのだ、たとえ今世で解決できなくても、いつか。」
と、思うのですね。

棚上げって、取りあえず、棚の上に置いているだけですから、問題が解決した、というのとは違うのですよね。
問題を棚上げして、ほっとしている皆さま。そこんとこお間違えの無いように。。 

タイトル「棚上げ」するための「仏にまかせなさい。」
記事No2283
投稿日: 2013/10/08(Tue) 11:10:31
投稿者桃青
身近なところで「仏にまかせなさい。」という言葉が発せられる場面ですが、いろいろあります。

その多くは、煮詰まった頭を休めるための「棚上げ」を試みているように思われます。

一番多いのは老齢のかたが、経済問題、病気、家族関係に悩みをもっておられる時、老齢のかたが果てしなく繰り返すこれらに関する愚痴に対しての
「仏様にまかせなさい。」でしょうか。

こういう場合、言われたほうが言われた途端、「そうですね。仏様にまかせることにします。」
とは、ならない。
そりゃそうだ。
言われたほうは悩みの何か具体的な解決を望んでいるので仏様に任せても、先の不安を打ち消すほどのカネが何処からかやってくることはまず無いだろうと予測するし、病気の果てには、死は確実に訪れる。
仏様に任せたら、自分の思うようになっていない家族関係が一挙に思うように解決するかと言えば、そんなことはないだろうと、これまた予測できる。

「仏様に任せなさい。」と、言ってる方も言ってるほうで、果てしなく続く老人の繰りごとにうんざりして、「いい加減仏に任せる気にならんもんかいな〜。信仰心が無いひとはこういう時に困る。」と思っているようなことも無きにしも非ずだったりして??

別の場面はそうですね〜。
例えば、老齢でなくても、様々なことが思うようにならなくて苦悩しているかたに対して、「御題目を唱え、仏様に任せていたら、いつの間にか思うようになった。」
という自信を持っておられるかたほど、相手の苦悩がどのようなものであるかを全く聞く事無く、
「結局、仏にまかせることが出来るか、出来ないかだ。」
と、力強く言われ、御自身がうまく行った体験ばかりを語られるという例も多いです。

以上どちらも、「仏様に任せなさい。」で、しようとしていることは、心理学的には「問題の棚上げ。」で、「棚上げがができるか、できないかだけのことなのですけれどね。
なまじ、仏教の現場にいると、問題の棚上げができるひと=信仰心があるひと、問題の棚上げができないひと=信仰心が無いダメなひと。
という見方になってしまう。

考えてみれば、「問題を解決したい。問題を解決しなければ。何とか上手い方法は無いものか。」と、思いつめているひとに、
「仏に任せなさい。」と言うことは、
「問題を解決しようとするな。」と言うのと同じですから、そうそう簡単に「ハイ、そうですね。」とならないのは当たり前でしょうに。

相手の苦悩の有りどころも見ずに、「仏に任せなさい。」とだけ連呼していても、問題の「棚上げ」は、無理だろうな。と私には思われてなりません。

タイトル仏様に任せていますから。
記事No2284
投稿日: 2013/10/09(Wed) 10:36:38
投稿者桃青
私の周囲では、結構「私は仏様にお任せしていますので。」と言われるかたは多いです。

例えば、何年か前にお寺から檀信徒さんが団体でインドへ行きました。
旅行会社の勧めで殆どのかたは、旅行保険をかけました。
中に、「私は仏様におまかせしているので、保険はかけません。」
と、微笑む老齢の女性がおられました。
このかたは一人暮らしで子供も居ないかたでした。
それを聞いた母が「仏様におまかせしてしても、もし、何かあったときに、あなたの住んでいる家のことやら、何やらを始末するのは、仏様では無く隣に住んでいる親戚のかたでしょう。
なーんにも無いのに、やらされた。と、思われないように、最低限のオカネが保険で貰えるようにしておいてあげたら。」
と、そのかたに申し上げたところ、女性は、「あ!」という表情をされて、旅行保険を申しこまれました。

仏様に任せていても、イザとなったとき、人間が動かなければ、解決しないことってあるんですよね。

タイトル仏に任せる。も、また方便なのだろう。
記事No2285
投稿日: 2013/10/10(Thu) 10:28:26
投稿者桃青
私の見るところ、「仏に任せる」の「功」は、なんといってもえも言われぬ妙なる「安心感」が得られることでしょう。

俗に言われる「人事を尽くして天命を待つ。」心境もまた、得も言われぬ安心感に満ちたものでしょう。
その心境は「仏にまかせた。」「神の御心のままです。」と相通じるものではないかと思われます。

私は、「仏に任せる。」を入口として、安心を得たわけではないのですが、空や無自性やら、十界互具やら、中観やら、を学んでいるうちに、ふと気がつくと、いつの間にか、仏は常に此処にいます。という大きな大きな安心を得ていることに気がついたのですね。

私がたどり着いた安心は、「仏様に任せています。」と言われるかたの安心感とそうは違わないと思います。

入口が違うせいか、私は問題の解決を「仏に任せる。」という気持ちにはなれません。
代りに、私がこけつまろびつ、何とか問題を解決したい。と足掻いてる全てを仏は大悲の眼で御覧になっているのだから、これからも安心して足掻いて行けばよいのだ。という安心感。

タイトルRe: 仏に任せる。も、また方便なのだろう。
記事No2286
投稿日: 2013/10/11(Fri) 10:44:01
投稿者桃青
そのように私は安心して何とか問題解決の方法(その方法は、もちろん「世界が全体幸福になる」ところに通じる方法でなくてはなりません。)はないものかと、足掻いているのですが、私が足掻いている姿を「仏に任せている。」方々が御覧になると「桃青さんは、仏に任せていない。仏を信じていない。」と見えるようで、私はそういう方々から、「もっと仏を信じなきゃ!もっと仏を信じることですよ。」と、よくと言われます。

でも、思いだして見てください。
日蓮宗の本尊は「久遠実成本師釈迦牟尼仏」です。
こう定める典拠は、日蓮聖人『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。」です。

仏は師、教主ではあっても、私たちの抱える問題を私たちの代りに解決してくださるかたではないと、私は思うのですが・・・。

「仏様におまかせするしかない。」と説いているうちに、問題のありどころを見つめる心や、世界が全体幸福になれるという方向で問題を解決しようという心がどんどん失われて行く。
そんな気がしてならないのですけれども。