[リストへもどる]
一括表示
タイトル脳幹のひと
記事No2289
投稿日: 2013/10/29(Tue) 18:59:05
投稿者桃青
ふと手にとった心理学の本に、面白い記事があった。


人間の脳の延髄、橋、中脳、間脳を合わせて脳幹と呼ぶ。
教義の脳幹は間脳(視床、視床下部)を除外する。

自律神経の中枢があり、生命の維持に関わる重要な機能をコントロールしているところですわね。
大雑把に言えば、戦うか、逃るか、のとっさの判断をしている部位とも言えます。

常に「戦うか、逃るか。」状態になっているひとは、常に脳幹にスイッチが入っていて、
「いつか襲われるんじゃないか」
「いつか騙されるんじゃないか」
と、当面の敵はどこにも存在していなくても、常に警戒(びくびく?)して、いる。

(うーん・・・仏教で言うところの「畜生」状態だわね。)

こういうひとに反省心や良心を期待しても無理。
かりにこういう人に、反省の瞬間が訪れるとしたら、事実に基づく証拠を「有無を言わせない」ほどつきつけられて
「もう逃げられない。」と観念した時、かもしれない。

(と、書いている心理学者も難しいだろうな。とは言っているけれど、難しそうだね。)

文をそのまま引用しましょう。
「彼らは感情のレールを走り出したら途中で電車から降りることができません。争いをやめることは恐怖なんです。
牙をむき出しにするか、あきらめる。
だから、なかなか撤退しません。撤退するとそのバランスが一気にくずれてしまうからです。」

では、そういう人々にどのように対処すれば良いのか、
その本にはこのように書いてありました。
「意志をもって計画的に時間をかける。」
うんうん、仏教的な対処法だなあ。と、ひとりにんまり。

あわてない、あわてない。一休さーん!ですね。
せっかくの大脳を使いましょう、ということね。

某M教の聖書を読まれたことはありますか?
そこに書かれている対処法は「戦うか、逃るか。」です。
みごとにこの二つだけ。教祖が脳幹にスイッチが入って「ひー」の状態の時にインスピレーションでも受けたのでしょうかね。
そうそう、某M教のかたがたは、しばしば言われます。
「人間を動かすものは感情である。ひとは理性では動かない。」
脳幹ばかりで思考していると、そうなるてところもあるんじゃない?
でも、最近巷に目立ってきてません?
某M教のように「戦うか、逃るか。」で思考するひと。。。

タイトルRe: 脳幹のひと
記事No2290
投稿日: 2013/10/30(Wed) 00:29:29
投稿者HIROMI
闘うか、逃げるか、常にスイッチが入った状態は病気か、それに近い状態ですよ。リラックスできないのですから。まさしく鬱病はそういう状態であります。
私は鬱を経験しましたが、それはそれは苦しく辛く恐ろしい体験でした。

鬱病は、思考力や判断力が著しく低下し、やる気も全く無くなる状態と言われていますが、それだけでは正確にこの病態を現しているとは言えません!

一つの思考に取りつかれて(理性では間違いだとわかっていても)、その思考から逃れられなくなり、他人からはぼんやりしているように見えても、本人自身は常に逃げるか闘うかの切羽詰まった緊張状態で、肉体的にも激しい凝りと痛みでガチガチ。
頭の中は常に火花が散っていて、眠ることもできない。

カウンセリングはほとんど効きませんでした、自分の場合。
気休め程度にしかなりませんでした。

結局薬が効きました。
緊張がとれて思考力が戻り、やる気も出てくる。
リラックスできるようになれば、治ったと思える。

今、私は健康を取り戻し、考えることも苦痛でなくなりました。
最近は、こう考えています。
感情は厄介なものだ、例えば政治に感情を挟んだらどうなる?経営に感情を挟んだら?或いは仕事には?突き詰めたら人生には?
極論を言ってしまえば、感情は災いの元。
だけど人間は感情から逃れられない、動物よりはるかに大きな脳を持ってしまったがゆえの苦しみ。

人間を動かすものは感情かもしれないけれど、それは良い結果にならないことがとても多いように思われます。だから人は理性的であろうと努力するのでしょう。仏教はその手助けになるかもしれません。

理性的であろうとするなら、心身がリラックスしていないと絶対だめです。リラックスできるということは、すなわち健康ということです。
経験上、こんなふうに思います。

タイトルRe^2: 脳幹のひと
記事No2291
投稿日: 2013/10/30(Wed) 18:45:21
投稿者桃青
HIROMIさん 

貴重な御話をありがとうございます。

> 闘うか、逃げるか、常にスイッチが入った状態は病気か、それに近い状態ですよ。リラックスできないのですから。まさしく鬱病はそういう状態であります。

鬱病などメンタルな病では「苦しい」とだけ訴えるかたは多くても、
症状を具体的に話してくださるかたはほとんどおられません。

なるほど、鬱病では、闘うか、逃げるかにスイッチが入った状態にもなるのですね。
「某M教は、鬱病のかたの症状を悪化させないところがある。」
と、よく言われるのですが、私はこれまでそれを

某M教では完璧になることを到達目標に定めているため、到達できない自分に悩んで、症状が悪化するのかな、

と、想像していたのですが、ただでさえ脳幹にスイッチが入っているのに、スイッチが入っている状態は正しい。と教え、スイッチを切ることを許さないので、症状が悪化する。
と、いうことだったのかな。

> 私は鬱を経験しましたが、それはそれは苦しく辛く恐ろしい体験でした。
>
> 鬱病は、思考力や判断力が著しく低下し、やる気も全く無くなる状態と言われていますが、それだけでは正確にこの病態を現しているとは言えません!
>

それは、あのかたがHIROMIさんの具合が御悪かったころ、
「今HIROMIさんはこういう状態じゃないかな。」と言われていたのとピタリと一致します。

母が認知症になって、はじめて解ったのですが、世にあふれている認知症についての大衆向けの情報は認知症の症状の一部しか伝えていなくて、「そうじゃないんだけどな。」と、思うことがよくありますが、他のメンタルな病もまた、そうなのでしょうね。

そして、一般の人々は、そのような情報で一旦認知症を理解したつもりになってしまうと、もうそれ以上の情報は求めないものなのだな、
ということも解りました。
これは、何についての情報であっても、同じかもしれませんが。

> 一つの思考に取りつかれて(理性では間違いだとわかっていても)、その思考から逃れられなくなり、他人からはぼんやりしているように見えても、本人自身は常に逃げるか闘うかの切羽詰まった緊張状態で、肉体的にも激しい凝りと痛みでガチガチ。
> 頭の中は常に火花が散っていて、眠ることもできない。
>

なんとなく、わかります。
たぶん、ほぼ解るのではないかと思います。

> カウンセリングはほとんど効きませんでした、自分の場合。
> 気休め程度にしかなりませんでした。
>
> 結局薬が効きました。
> 緊張がとれて思考力が戻り、やる気も出てくる。
> リラックスできるようになれば、治ったと思える。
>

薬が効いて良かったですね。
いつか、病気の機序が明らかになって、それぞれに的確に効く薬も開発されるようになるのでしょうが、まだまだ、良く解らないままに、処方されているというところはありますね。
これまた、一般の人々は一旦「薬で治る。」とインプットされると、「この分野、薬もまだまだなんだ。」という情報をシャットアウトしてしまうのですよね。

> 人間を動かすものは感情かもしれないけれど、それは良い結果にならないことがとても多いように思われます。だから人は理性的であろうと努力するのでしょう。

感情をコントロールしようという発想は人間だけが持ち得るものかもしれませんね。
この場合、そもそもは「ロクな結果にならないような感情はコントロールしよう。」だったはずで、高じて「感情は良くない。」となってしまうとオカシイですよね。

>仏教はその手助けになるかもしれません。
>

仏教は理性的な教えで良いですよ。
某M教のかたがたなど仏より神に惹かれる方々は、よく「仏教の理性的なところ、倫理的に整合性がとれているところが、いかにも人間が作った宗教のようで、信仰する気になれない。」
と、言われますけれど。
でもねー。人間の問題を解決するのは人間ですからね。

> 理性的であろうとするなら、心身がリラックスしていないと絶対だめです。リラックスできるということは、すなわち健康ということです。
> 経験上、こんなふうに思います。

それは全くその通りだと思います。
六根清浄。

とりあえず、脳幹にスイッチが入らないようにしましょうか。
病気だとスイッチのコントロールは難しいかもしれませんが、脳幹にスイッチを入れなくては生きていけないような社会が暮らしやすい社会であるはずがないです。

タイトルRe: 脳幹のひと
記事No2292
投稿日: 2013/10/31(Thu) 10:35:53
投稿者桃青
「戦うか逃るか」そして「耐え忍ぶ」か。

脳幹宗教某M教が説いている困難への対処法は、この三つである。
年がら年中、「戦うか逃るか」「耐え忍ぶ」かで、思考している。
ひとを傷つけたくない。という優しい心の持ち主がとる道は「耐え忍ぶ」しかないということになる。
耐え忍びが限界点(ひとによって、高い、低いあり)に達すれば、たちまち脳幹にスイッチが入り
「黙ってされるがままになっていろというのか。」「戦うか逃げるかだ。」
と、攻撃態勢になる。

この思考法は特別某M教のオリジナルでは無い。
どこにでも、この思考法をするひとはいる。
そりゃそうだ。「戦うか逃るか」は、緊急時に備えて配備されている脳の反応だもの。
だから意図的にこの思考法を人々に強いる者がいると、たちまちそれに呼応する。
この思考法に必要欠くべからざる存在は「敵」ですね。
敵がいなければ、思考のバランスが取れなくなった者は常に敵を探している。
ですから、こういう思考法に取りつかれたひとの傍によると、いつ敵にされてもおかしく無い。
どんなに友好的であっても安心してはいけない。
彼らは眼の前の者への敵意を「耐え忍んでいる」だけのことがある。
ちなみに、本国での某M教会員への評価には
「どんなにニコニコ友好的であっても、イザとなると何をするかわからない人達。」と、いうものがある。

「戦うか、逃げるか」「耐え忍ぶ」
問題の解決に、この三つしか呈示されない社会はどうなんだろう。
なんだか、最近脳幹思考を言いたてる声が大きくなってませんでしょうか?

仏教を学んだひとが、
「問題解決の道が、もっと、こう、ぱーっと無数に広がったような」
と、言われたことがある。
私にも似たような体験がある。
脳幹思考から脱した瞬間だったのだろう。

仏教は脳幹思考に効く。
もっと、広まって欲しいなあ。