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タイトル無常を観じて
記事No2295
投稿日: 2013/11/11(Mon) 11:55:20
投稿者桃青
秋ですね。
庭の桜の紅葉も枝にわずかになりました。
秋の風情に無常を観ずるかたは多いようですが、私は、母の姿に無常を日々観じております。

ほんとうにね。人間て、結局こうなってしまうのだなーと思うと、なんともやりきれませんのね。
御上人にそのやりきれなさを訴えても「仏と思いなさい。」て、言わればかりで・・・。
何なんでしょうね。
私は「人間の虚しさ」というようなものを母に見て、やりきれなくなっていて、それを訴えているのに、御上人には、私の言っていることが介護の厭わしさを嘆いているとしか聞こえないみたいなんです。
人間の空虚さを一番熟知しているはずの仏教の指導者に、その空虚さを観てのやりきれなさを訴えて通じないのなら、誰にこのやりきれなさを訴えたら、共感していただけるのでしょう。

タイトル九相図
記事No2296
投稿日: 2013/11/12(Tue) 09:35:39
投稿者桃青
平安時代、九相観という修行がよく行われたらしい。
九相図というものも残っているが、現実に野に出れば打ち捨てられた屍も多かったのだろう。

母の変貌を目の当たりに突きつけられることも、一種の九相観なのかと思うが、芭蕉の軸のごとく空虚である。ということは、よく実感したので、その次へ行きたくなっているのだが、そちらへ行こうとして行けないもどかしさが苦しい。
御上人にそのもどかしさを訴えるのだが、御上人が導きたいと思っておられる方向と、私の行きたい方向が違っているようにも感じられる。

タイトル明るい世界は必ず来ると
記事No2297
投稿日: 2013/11/15(Fri) 11:06:17
投稿者桃青
そして、私が母に人間の無常を観じて、次に求めているものとは、

「明るい世界は必ず来る」

と、告げられることなのだ。

「ああ誰か来てわたくしに云へ 億の巨匠が並んで生まれ しかも互ひに相犯さない 明るい 世界はかならず来ると」(宮沢賢治『業のはなびら』)

ああ、本当に、本当に、「明るい世界」は必ず来ると静かに力強く告げられたい。

天台の「止」とは、おのれひとりの禅定安定を得るために修行するにとどまらず、他者に安寧をもたらすような配慮をすることだというではないか。
日蓮聖人も御生涯をかけて、ひたすら社会の安寧を願っておられたではないか。

母の無常が仏に見えて来るように修行して、「ああ、母は本当に仏であります。」が、仏道修行の到達点ではないはずだ。

でもなー。お寺へ話を聞きに来るかたがたは、
介護者が被介護者を「ああ、仏であります。」と、伏し拝む姿を見て「素晴らしい。さすがですわ。」と感動する事を求めて来るんですよねー。

タイトルRe: 明るい世界は必ず来ると
記事No2298
投稿日: 2013/11/15(Fri) 18:57:42
投稿者HIROMI
> そして、私が母に人間の無常を観じて、次に求めているものとは、
>
> 「明るい世界は必ず来る」

> ああ、本当に、本当に、「明るい世界」は必ず来ると静かに力強く告げられたい。

九相図は、この夏に観た幽霊、妖怪、図の展覧会で初めて実物を観ました。
草花や虫けらと同じように人間も美しさも快活さもやがて衰え、死ねば朽ちて枯れて土に帰ってしまいます。
そのさまを目の当たりにすると、ただ寂しく或いは怖く、そこから光を見いだすことは難しく感じられますね。
でも目を背けずにいると、植物ならやがて新芽が芽吹く感動に出会えます。
虫けらなら、新たに卵から幼虫が這い出してきます。
でも人間は自分があるから、そうとは考えにくい。
自分が死んだら何にもなくなる。そんなのはいやだー。(アンパンマン?)
で、でっかい墓なんか建てる人もいる。
どこかであらたに赤ちゃんが生まれても知ったことか、と思う。
自分が衰えて、死ぬのが怖い。自分の家族や大切な人も同じ。
この誰よりも大事な「自分」のせいで、苦しくて悲しくてどうしようもない。
私はそれが堪らなくなって、殊勝にも仏さんに手を合わせたりするのです。

> でもなー。お寺へ話を聞きに来るかたがたは、
> 介護者が被介護者を「ああ、仏であります。」と、伏し拝む姿を見て「素晴らしい。さすがですわ。」と感動する事を求めて来るんですよねー。

そんなのごまかしにしか思えません。
無惨に衰えた家族を直視に耐えられないからって、仏さんだと思え、とは。
あがり症の人に、周囲の人をジャガイモやカボチャと思え、って言ってるみたい。
無茶苦茶ですわ。

タイトルRe^2: 明るい世界は必ず来ると
記事No2299
投稿日: 2013/11/20(Wed) 01:45:20
投稿者桃青
HIROMIさん

コメントありがとうございます。
冬になり、母のお世話に寒さ対策が加わり、バタバタしていて、お返事がおくれました。

さすが、HIROMIさん、私のもどかしい文章から、私の苦のありどころをすぐに理解してくださって、感謝です。
おかげで、御上人をはじめ、誰に言っても思いが通じなくて、くさくさしていた気分がぱっと晴れました。
ありがとうございます!

> 九相図は、この夏に観た幽霊、妖怪、図の展覧会で初めて実物を観ました。
> 草花や虫けらと同じように人間も美しさも快活さもやがて衰え、死ねば朽ちて枯れて土に帰ってしまいます。
> そのさまを目の当たりにすると、ただ寂しく或いは怖く、そこから光を見いだすことは難しく感じられますね。

そうなんです。
九相図は、肉体が滅びて行く様を描いていますが、母を見ていると、人間の識が滅びて行くとはこういうことなのか。と愕然とします。
人間を人間たらしめている識が生きながらに滅びてのをみるのは、寂しく怖いものですよ。
焼き場で骨になった親を見て、「その瞬間、あ!人間とは、これだけのものなんだな。と解った。」と、無常を語るかたの思いは理解されるのに、日々識が壊れていくのを見て、「嗚呼、人間とはこれだけのものなのだ。と思ったのですよ。」と私が訴える「これだけのもの」の寂しさ、怖さが、何故理解されないのでしょう?

でも、HIROMIさんは、解ってくださった。
するとやっぱり、「感性」の問題なのかなー。

> 自分が死んだら何にもなくなる。そんなのはいやだー。(アンパンマン?)

日蓮宗は「久遠の命」で生死を説きますが、これは、何もなくなるわけでもないし、かといって、宗教にありがちの個の魂の永遠とも違う死生観です。
私は、ほんとうにその通りだなあ。と納得していますので、死んだら何もなくなるから怖い、ということはないのですよ。(^−^)
仏に任せろといわれるけれど、結局その仏のことも忘れて死んで行くのだな〜。
と、何ともいえない寂寥感。

> > でもなー。お寺へ話を聞きに来るかたがたは、
> > 介護者が被介護者を「ああ、仏であります。」と、伏し拝む姿を見て「素晴らしい。さすがですわ。」と感動する事を求めて来るんですよねー。
>
> そんなのごまかしにしか思えません。
> 無惨に衰えた家族を直視に耐えられないからって、仏さんだと思え、とは。

そう、現実の無残さを直視することがあまりに辛いから、誤魔化して、美化して、感動的な話に脚色した話を求めるのだろうな。とは思うのですが・・・。
でも、美しいおとぎ話をこしらえても、現実の問題は解決しないし・・・。
現実の問題を皆が全体幸福になる方向で解決して行こうじゃないか、という仏教らしさは、どこで説くのだ。と、悲しくなってくる。