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タイトル法華を知るものは世法を得べきか
記事No2300
投稿日: 2013/11/25(Mon) 09:54:25
投稿者桃青
また、なんです。
もぉ、いやっ!
どうなってるの?当地の布教研究会。

「法華を知るものは世法を得べきか」
観心本尊抄です。

御上人が、社会が変化して宗教に心の拠りどころを求めるひとがすくなったと、嘆かれるので、
私、「でも、法華を知るものは世法を得べきか、ですからね。」
と、申し上げたところ、少し怪訝な顔をされて
「世法とは一念三千のことです。」
ときっぱり。

いや、違うでしょ。違うでしょ?!ここで御聖人が言われてるのは、そういうことではないでしょ?たぶん。

タイトルRe: 法華を知るものは世法を得べきか
記事No2301
投稿日: 2013/11/26(Tue) 10:25:17
投稿者桃青
「世法を捨てて仏法を受持せん」〈正法眼蔵)

はーい、です。
仏教でいうところの「捨てて」は、破棄の意味ではなく「いったん脇に置いて」だと、前にも書きましたね。
なので、この道元師の御言葉は「世法をいったん脇に置いて」まず仏法を受持しなさい。です。
みんな、捨ててを「破棄」だと思いこんでいるから、仏法は俗世とは無関係なところにあるものだ。と、思いこむことになるんです。

それはともかく、世法を「一念三千」だと捉えたら、この道元師の御言葉の意味がとれませんね。

「世法」の意味は仏教界で共通認識となっているものがあります。
日蓮聖人の「法華を知るものは世法を得べきか」は、道元師の「世法を捨てて仏法を受持せん」と対のようなものです。

いったん世法を脇に置いて、仏法(法華)を知ったら、俗世に新たな世法が見えてくる。俗世に新たな精神を及ぼすことができる。
真宗が最近盛んにいう「往還」と同じです。

世法=一念三千としてしまうと、日蓮聖人がそのすぐ前の「天晴れぬれば、地明らかなり」と共に、この言葉にこめたダイナミックな思想がどこかへ行ってしまい、この言葉は人々の心の中を覗かせるだけのものになってしまう。
残念なことです。

政教分離、宗教は政治とは無関係でなければならない。
と、いう思いが、日蓮聖人の御言葉を「自分の心の中を覗くためのもの」にしようとする方針を打ち出させるのかもしれないが、日蓮聖人の時代には「政教分離」という言葉もなく、その思想もなかったのですよね!
政教分離に捉われるあまりに、政教分離という思想の無かった時代に書かれた御聖人の壮大な思想を政教分離思想に抵触しないようにしようと余計な作業だし、御聖人の思想の時を超えた壮大な知性と暖かさを侮辱するものだと思わないのでしょうか?

「天晴れねれば地明らかなり 法華を知るものは世法を得べきか」

なんと澄み切った力強い思想でしょう!
明治から昭和、どの時代も平成の今と同じく混迷の時代だったのです。
どれだけの方々がこの言葉に魅了され、励まされて困難に向き合ってこられたことか。
この言葉を単に心の中を覗いて「ああ、確かに自分の心は三千世界だ。」としみじみ思うためだけの言葉にしてしまって良いのかどうか、真剣に考えていただきたいです。

タイトルRe^2: 法華を知るものは世法を得べきか
記事No2302
投稿日: 2013/11/26(Tue) 14:00:06
投稿者HIROMI

> 仏教でいうところの「捨てて」は、破棄の意味ではなく「いったん脇に置いて」だと、前にも書きましたね。
> なので、この道元師の御言葉は「世法をいったん脇に置いて」まず仏法を受持しなさい。です。
> みんな、捨ててを「破棄」だと思いこんでいるから、仏法は俗世とは無関係なところにあるものだ。と、思いこむことになるんです。

敗戦後の日本は宗教アレルギーが蔓延し、さらにオウム事件でアレルギーはアナフィラキシーへとこじれました。

かつて私は、某学会やナントカ教など、カルトイコール宗教だと思い込むトンデモ男に何人も出会ってうんざりしてきました。そういう輩とはソッコーで別れましたが、シャキッと論破する力量のない自分にも情けなくなりました。奴らは今でも私のことを変な宗教にかぶれた困ったちゃんだと思っているのだろう。


> 日蓮聖人の「法華を知るものは世法を得べきか」は、道元師の「世法を捨てて仏法を受持せん」と対のようなものです。
>
> いったん世法を脇に置いて、仏法(法華)を知ったら、俗世に新たな世法が見えてくる。俗世に新たな精神を及ぼすことができる。
> 真宗が最近盛んにいう「往還」と同じです。

たいへん勉強になります。
そうです、私が感じていた仏教に対する感覚はまさにこれです。
俗世に新たな精神を及ぼすことが「できる」からこそ、仏教の御聖人方の遺した言葉を聞きたくなるし、引き込まれていくのですよ。
それを、「宗教なんか逃避だ、そんなものを信じてないで現実的に生きるべきだ」という小学生みたいな理屈で私を馬鹿にした大馬鹿野郎が何人もいたんですよ。
そうじゃねえだろ!宗教をUFOやお化けなんかと一緒にするな。

すみません、つい興奮して(´Д`;)ヾ

>
> 世法=一念三千としてしまうと、日蓮聖人がそのすぐ前の「天晴れぬれば、地明らかなり」と共に、この言葉にこめたダイナミックな思想がどこかへ行ってしまい、この言葉は人々の心の中を覗かせるだけのものになってしまう。
> 残念なことです。

> 政教分離、宗教は政治とは無関係でなければならない。
> と、いう思いが、日蓮聖人の御言葉を「自分の心の中を覗くためのもの」にしようとする方針を打ち出させるのかもしれないが、日蓮聖人の時代には「政教分離」という言葉もなく、その思想もなかったのだ。

宗教を曲解してしまう愚か者が増える危険から遠ざけるために、政教分離という手を使わざるを得なかったのですね。
真摯な宗教と、宗教的な偽物との境界線があやふやなのは、人の心が怠惰に向かっているからでしょう。しかし、豊かさは怠惰を産みますからね。どうしようもない。

鎌倉仏教が生まれた我が国は、当時辛く厳しい状況でした。
怠惰にかまけている余裕などありませんでした。

「自分の心を覗くためのもの」だけなら、宗教ではなくて他の方法でいいはずです。詩とか文学とか。単なる言葉いじりとか(笑)

ちなみに、宗教がないから例えば人を殺したあとも平気で恋の詩なんかブログに書けるんじゃないかと思います。
10代の子らが、時々そういうゾッとする生き物に変貌しているのを見ると、何とも言えない気分になります。

タイトルRe^3: 法華を知るものは世法を得べきか
記事No2303
投稿日: 2013/11/26(Tue) 18:28:55
投稿者桃青
HIROMIさん

コメントありがとうございます。

> 敗戦後の日本は宗教アレルギーが蔓延し、さらにオウム事件でアレルギーはアナフィラキシーへとこじれました。

教義を捻じ曲げて戦争に協力した宗教界への不信もあったろうし、
左翼思想の一般化とともに、「宗教は麻薬だ。」というマルクスの言葉も社会的に認知されて、人々の宗教への不信感を高めるのに一役かったのでしょう。
それでも、オオムの事件が起きる直前までは、「21世紀は心の時代、宗教の時代」とマスコミはこぞって21世紀は物質文明に行き詰まった人間が精神的ものを求めることによって、物質文明を超えて行く時代だと、論じ、宗教はそういう新たな世界へのけん引役となるだろう。と、締めくくっていたものです。
オウムも最初は、そのような21世紀へ何かのトビラを開いてくれる思想としてマスコミに最初は、どちらかと言えば好意的に取り上げられて登場して来たのですが、たちまち、胡散臭さが露呈して、危険視されるようになりましたね。

オウムの事件は宗教というものの危険な側面を端的に示したと言われますが、これは少々違うのではないかと思います。
「宗教の危険な側面」を示したのではなく、「人間がどういう思想を持つと危険なのか」を示した事件だったというべきだろう、と思います。
何故なら、

良い結果となるのなら、テロもやむなし。→良い結果となるのなら、積極的にテロするのだ。

という思想は、宗教とは関わりないところにも生じるものですし、いったんこの思想に取りつかれるとそこから抜け出すのは宗教がらみでなくても難しいです。

長くなりますので、つづきはまた後で。

タイトルRe: 法華を知るものは世法を得べきか
記事No2304
投稿日: 2013/11/27(Wed) 16:50:04
投稿者しんのすけ
> いや、違うでしょ。違うでしょ?!ここで御聖人が言われてるのは、そういうことではないでしょ?たぶん。

天台云く「金光明経に云く、一切世間の所有の善、皆この経に因る。若し深く世法を識れば即ちこれ仏法なり」
という、開目鈔の初めのご文もありますよね。
僕は、たとえば野球やスポーツ、医学、芸術の分野で優れた人の言葉は結構、仏法に通じる事が多いと思い。
当然、世間をいかに正しく執着から離れて生きていくかが仏教なのだから社会政治諸々が世法だと思います。
一念三千なら森羅万象全ての事象と言うべきではないですかね?