タイトル | : Re: 法華を知るものは世法を得べきか |
記事No | : 2301 |
投稿日 | : 2013/11/26(Tue) 10:25:17 |
投稿者 | : 桃青 |
「世法を捨てて仏法を受持せん」〈正法眼蔵)
はーい、です。 仏教でいうところの「捨てて」は、破棄の意味ではなく「いったん脇に置いて」だと、前にも書きましたね。 なので、この道元師の御言葉は「世法をいったん脇に置いて」まず仏法を受持しなさい。です。 みんな、捨ててを「破棄」だと思いこんでいるから、仏法は俗世とは無関係なところにあるものだ。と、思いこむことになるんです。
それはともかく、世法を「一念三千」だと捉えたら、この道元師の御言葉の意味がとれませんね。
「世法」の意味は仏教界で共通認識となっているものがあります。 日蓮聖人の「法華を知るものは世法を得べきか」は、道元師の「世法を捨てて仏法を受持せん」と対のようなものです。
いったん世法を脇に置いて、仏法(法華)を知ったら、俗世に新たな世法が見えてくる。俗世に新たな精神を及ぼすことができる。 真宗が最近盛んにいう「往還」と同じです。
世法=一念三千としてしまうと、日蓮聖人がそのすぐ前の「天晴れぬれば、地明らかなり」と共に、この言葉にこめたダイナミックな思想がどこかへ行ってしまい、この言葉は人々の心の中を覗かせるだけのものになってしまう。 残念なことです。
政教分離、宗教は政治とは無関係でなければならない。 と、いう思いが、日蓮聖人の御言葉を「自分の心の中を覗くためのもの」にしようとする方針を打ち出させるのかもしれないが、日蓮聖人の時代には「政教分離」という言葉もなく、その思想もなかったのですよね! 政教分離に捉われるあまりに、政教分離という思想の無かった時代に書かれた御聖人の壮大な思想を政教分離思想に抵触しないようにしようと余計な作業だし、御聖人の思想の時を超えた壮大な知性と暖かさを侮辱するものだと思わないのでしょうか?
「天晴れねれば地明らかなり 法華を知るものは世法を得べきか」
なんと澄み切った力強い思想でしょう! 明治から昭和、どの時代も平成の今と同じく混迷の時代だったのです。 どれだけの方々がこの言葉に魅了され、励まされて困難に向き合ってこられたことか。 この言葉を単に心の中を覗いて「ああ、確かに自分の心は三千世界だ。」としみじみ思うためだけの言葉にしてしまって良いのかどうか、真剣に考えていただきたいです。
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