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タイトルコトバノハナタバ「苦い体験は・・・」
記事No2305
投稿日: 2013/11/29(Fri) 12:37:34
投稿者桃青
久しぶりにコトバノハナタバ。

最近眼にして、そういうものだよね。と思った言葉です。

「苦い体験は教訓に変えるか、ネタにするしかない。」

以前の法座では、興味深く聞けた体験話が、ちかごろ面白くないばかりか、モヤモヤするのでは何故だろう、と思っていたのですが、
この言葉を聞いてその答えが解りました。

以前の法座では、今は亡くなられた先人たちが、御自分の苦い体験を赤裸々に語られ、そこから得た教えを御自分の言葉で伝えておられた。
お母上との関係に悩まれた先人は母との葛藤の有様と、御自身の苦しみと、先師から受けた教えと教えを受けての反省に至った道筋と、お母上への恨みがましい思いが変わらないままにお母上を送った悔恨と懺悔とを繰り返し語っておられた。
母との葛藤の有様など、60を超えて社会的地位もある男性が、見ず知らずの聴衆に、語りたくは無かったでしょう。
黙っていれば、親に対してそのような思いを抱いて来られたかたとは、知られることもなく、地位に相応しい見識もある立派なかた、温厚なかたと羨望と尊敬だけを受けていられます。
そのように、以前の法座では、見栄のあるものなら公表するにはいささか恥ずかしいような家族の葛藤や経済的等の困窮を語って、そこから法華経なり御遺文なり、あるいは先師の教えなりのどのような言葉を糧に、その困難に向き合って来たかというお話が多かったように思う。
最近は、苦悩の有様を惜しげなく語り、苦労の中から得たものをかたるかたがいない。
どんな話も、都合の悪いところを隠して、「御題目を唱えたら事態が好転した。」という話に仕上げるのがお約束のようだ。
たぶん、日蓮宗のお寺で話を聞こうと来られる方々は、「御題目さえ唱えていれば、思うようになる。」という保証を求めて来られるかたが多いので、そのような話の構成になるのでしょう。
あちらを向いても、こちらを向いても、「御題目を唱えたら、なにもかも上手く行っている。」という自慢話ばかりがされる。

ひとの自慢話を延々と聞かされると、此処は自慢できるような暮らしを送っているひとしか、来てはいけないところなのか、
と、思う。

タイトル宗教の恐さとは
記事No2306
投稿日: 2013/11/29(Fri) 17:37:48
投稿者桃青
別のところで書きかけた「宗教の恐さ」ですが、
宗教にはまると、その宗教の呈示する言葉でしかモノを見れなくなる。モノを考えられなくなるということがあります。

たとえば日蓮系では
「私が現在幸福であるのは、私が御題目を唱えてきたからだ。」「あのひとが不幸なのは、あのひとが御題目を唱えなかったからだ。」
というような、はじめに御題目ありきの思考に落ちてしまうとか?

空観を知ったかたが「しょせん、なにもかも、空なのだ。」と、周囲の人々に苦しみに全く無関心になってしまわれるとか?

神の啓示を知ったかたが、「人間の眼からどんなに辻褄が合わなくても、神の言葉は正しい。」というところから、一歩も出られなくなったりとか?

そういう例を見ると、宗教嫌いのかたが「宗教なんて無くても生きて行ける。人間には宗教など必要ない。」と、言いたくなる気持ちも解るような気がしてきます。

タイトルRe: 宗教の恐さとは
記事No2307
投稿日: 2013/11/29(Fri) 18:29:58
投稿者HIROMI
> 別のところで書きかけた「宗教の恐さ」ですが、
> 宗教にはまると、その宗教の呈示する言葉でしかモノを見れなくなる。モノを考えられなくなるということがあります。
>
そうですね。
毛沢東が「宗教は麻薬だ。」と言い放ったのは有名な話ですね。
彼は宗教弾圧をしましたが、彼のやっていることそのものが狂信的だったのは皮肉なことです。

はまる人とはまらない人の違いって何でしょう?
私は宗教に限らず、ある一定の考えから抜けられなくなる状態を
「病気」だと言いました。
健常な状態と病的な状態。
その差はどこから来るのか。
いかに健全な状態を守り続けるのか。
どれがとても大事なことに思えてきます。

タイトルRe^2: 宗教の恐さとは
記事No2308
投稿日: 2013/11/29(Fri) 21:44:15
投稿者HIROMI

> どれがとても大事なことに思えてきます。
それがとても大事なことに思えてきます。

タイプミスしました。すみません。

タイトルRe^2: 宗教の恐さとは
記事No2309
投稿日: 2013/11/30(Sat) 10:41:25
投稿者桃青
> 毛沢東が「宗教は麻薬だ。」と言い放ったのは有名な話ですね。
> 彼は宗教弾圧をしましたが、彼のやっていることそのものが狂信的だったのは皮肉なことです。
>

どんな集団でもリーダーを絶対と位置付けた途端、その集団が恐い方向へ行く可能性を秘めることになりますね。

> はまる人とはまらない人の違いって何でしょう?

カルトにはまった人達は自分達のことを
「素直で人を信じやすく、人が良い」と、分析しておられますが、
それは、もしかしたら少しの材料から自分に都合の良いストーリーを組み立てる能力に優れているとも言えるのかもしれません。

> 私は宗教に限らず、ある一定の考えから抜けられなくなる状態を
> 「病気」だと言いました。
> 健常な状態と病的な状態。
> その差はどこから来るのか。

実際に病気で一定の考えから抜け出せないかたもおられますよ。

> いかに健全な状態を守り続けるのか。
> どれがとても大事なことに思えてきます。

仏教では無我無相無願をもって正しく疑うことが大切だと言いますが、正しく疑うことは、一定の考えに落ちない良い方法だと思うのですが・・・。