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タイトル使命と因縁
記事No2317
投稿日: 2013/12/24(Tue) 17:33:30
投稿者桃青
12月は反省懺悔の月である。
一年を振り返り、反省懺悔し、新たな年を迎えましょうというお話をしみじみと聞いた。

例によって、反省懺悔し、使命に気付きという展開です。
聞きながら、使命を「因縁」と置き換えてみたら、これがぴったりと話の内容に合う。
なので、お話の間中、使命を因縁と変換して聞いていた。

なんなのだろう。
もしかしたら、因縁という言葉にあまりに手垢がついて薄汚れたイメージを纏っているので、因縁を使命と置き換えて布教することにどこかで話がまとまったのでしょうか?

仏教は因縁因果で説かないと本当の意味がますます伝わらなくなるんじゃないかな?
何故なら、「あなたの使命」「私の使命」という言葉からは、その使命すらも業の集合であり実態が無い。というところへつなげようがないし、どうみても、これはあなたの使命(私関係ありません。)これは私の使命。(あなた関係ありません。)
という話になりがちである。それではどうも仏教的ではない。
私の因縁はあなたの因縁であり、あなたの因縁は私の因縁であり。そしてみんなの因縁である

因縁という言葉が、手垢が付いて面白くないというのであれば、
それこそ、層をなした手垢を払って、元の輝く透明な因縁という言葉に戻して語ろうではないか、と思うのですけれど。

大掃除 払うべきもの 見えてこそ

タイトルRe: 使命と因縁
記事No2318
投稿日: 2013/12/25(Wed) 17:04:44
投稿者桃青
使命を因縁に変換して聞いた言葉を2、3挙げてみますね。

反省懺悔することによって自らの使命を知り→反省懺悔することによって自らの因縁を知り

誰でもそのひとならではの使命を持っている→誰でもそのひとならではの因縁を持っている

この使命は仏の力によらなければ果たすことができない→この因縁は仏の智慧をもってしなければ消滅することができない

こんな感じ。

ね。
使命を因縁に変えても何の不都合もありません。
右は日蓮宗でこれまでされてきた伝統的な説きかたでもあります。
これのどこが悪くて、わざわざ使命に変える必要があるのでしょう?
元々仏教用語であった懺悔がキリスト教に転用翻訳されて、本来の意味が忘れられ、現在は懺悔と言えば、キリスト教の「告解」と同じように理解しているひとが殆どです。
懺悔を告解のように捉えているから、因縁を使命に変えてみたくなるのかもしれませんね。