タイトル | : 異界へ入って行く |
記事No | : 2323 |
投稿日 | : 2014/02/04(Tue) 10:19:42 |
投稿者 | : 桃青 |
法座の講師をお願いしている別のかたに、
こちらの御上人がたが 「お母さんは、貴女のために認知症になってくださった仏なのです。」 と、説法されるのがやりきれない。 確かに、そう思いこんでしまえば、楽になれるだろうな。と、思うが、それは神経を麻痺させる麻薬を飲んで、恍惚となるようなものだろうと思う。 そして、その麻薬を飲んでしまうと、今度はこの私が、認知症の家族に向けて「お父さんは、お母さんは、御家族に発心させるためにわざわざ認知症になってくださった仏なのです。認知症になってくださったことに感謝しなくてはいけないのですよ。」と、家族の苦しみを有ってはいけないもののように否定して話し始める予感がする。 だから、母のことを「私のために認知症になってくださった仏だ。」と、思おうとすれば今すぐにでも思えるのですが、思わないのです。 それに母は認知症になることを怖れ、嫌がり、機会があるごとに御上人にその苦しみを訴えていました。 とても家族を法華経に導くために自ら望んで認知症になった仏の姿とは思えません。 などと、日頃の鬱憤をぶちまけた。
黙って聞いていた講師は、御自分が異界を出入りされる体験もあってか、 「自分が異界へ入って行く感覚て、自分で分かりますからね。 恐いと思いますよ。」 と、言われた。 そうだと思います。母の様子を振り返れば、本当にそうだろうと思います。
宮沢賢治の詩は、最愛の妹の死を詠っているが、たったひとりで異界へ入って行った母のさびしさはどんなであったろうと思います。
あいつはこんなさびしい停車場を たったひとりで通っていったろうか どこへ行くともわからないその方向を どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを たつたひとりでさびしくあるいて行ったらうか(青森挽歌〉
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