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タイトル法座とは
記事No2333
投稿日: 2014/05/19(Mon) 10:30:31
投稿者桃青
従兄(真宗大谷派住職)からは、毎月寺便りが送られてくる。

「仏法の灯火のもとに集い
人に出会うことができる場が法座である。
悩みが一つもないという人はまれであろう。
しかし、自分だけが悩んでいると思い込んでいる人は多い。
人との出会いをとおして
何を大事に生きて行くか
どんな者として一生を終えて行くか
次世代に何を遺して行くのか
お互いに語り合い、確かめる場、
それが仏法の座である。

一楽真」

一楽真(いちらくまこと)大谷大学教授、真宗大谷派専念寺住職

タイトル自分の言葉
記事No2334
投稿日: 2014/05/19(Mon) 10:59:00
投稿者桃青
一楽真氏が書かれた法座への思いを読んで、私は、私の日頃の思いを「あなたの思っていることは、こういうことでしょう。」と、言葉にしてもらったような気がした。
ひとは、このようにして他の者が語った言葉を自分の言葉として行くこともあるのだろう。

「自分の言葉で考え、自分の言葉で言え。」
と、よく言われ、宗教の信仰者は、「自分の頭で考えていない。」と、批判されるが、皆が「私は自分の言葉で考えている。」と、言うその<自分の>というそれは、どこからが自分の言葉なのだろう、と思う。

しかし、言葉は難しい。
以前、禅宗の寺で瞑想した体験をある牧師様が書かれておられたが
「瞑想し、あるがままを観て、私は神は確かに実在するという確信を得ました。」
世の中の森羅万象をあるがままを観て、仏教徒は般若の智慧を得、キリスト教徒は神の実在を確信する。