しばらく前から、「何も考えない。」ことを試してみています。何も考えないって・・・楽、です。本当に・・・楽、です。何も考えないことが、こんなにも楽なことととは思ってもみませんでした。母が壊れて行くことも、もう、何も感じない。・・・楽です。母の身の回りの世話も、もう、何も感じない。・・・楽です。楽、の範囲はどんどん広がり、すること為す事、楽に出来るようになりました。人に会う時、余計な事を考えないと、「ああ、この人は怒っているな。」「ああ、この人は自分に自信を持っているな。」「ああ、このひとは自分の怯えを隠そうとしているな。」そんなことが何だか前よりよく見えるようになったような気がするけれど・・・楽、です。何も考えないのも、マズいだろうと、時々、なんにも考えない境地から、離れてみたりする。
私は、昔から、どうして、皆、もっと考えないのだろう?と、不思議に思ったものですが、何も考えない境地を会得してみて、「何も考えないでいると、こんなに気持ちが楽なのだから、何も考えないでいることから抜け出したいとは思わないはずだ。」と、納得しました。考えてみれば、宗教って、「何にも考えない」ことを奨励しているようなところがありますね。一度、宗教なりなんなりによって楽の境地へ入ってしまい、「その境地にいることは正しい。」と保証を与えられると、もうそこから抜け出せないものなのでしょう。ふと、思い出したことがあります。それは昔、師匠の熱心な信者さんに、折に触れて「わっちは、全て仏様にお任せしました。」と、繰り返し言われる年輩の男性がおられた。そのかたは傍から見ていても、本当に「仏様にお任せ」の心境に達しておられることがよく解り、迷いをなかなかふっきれない私は「あのような信心ができるようになりたいです。」と、師匠に申し上げた。当然、師匠から、賛同と励ましの言葉を頂けると思ったのですが、師匠は、顔を曇らせ、「あまり、良いことでもありません。」と、言われたので、私は、驚きました。何故?と、問う私に、師匠はさりげなく話題をかえてしまわれたので、その話はそれきりとなったままで、師匠は遷化された。何も考えない楽を知った今、あの時、師匠は何も考えなくなる危険性を説かれたかったのかしら?と、思い当たるのですが・・・。
この文章を書いて後、「何も考えない」ことにますます習熟して、ここぞ、という時に瞬時に「何も考えない状態」に切り替えることができるようになった。閉鎖的な人間関係の中で、暴力的に支配されたひとが、逃げ出すチャンスがあっても逃げ出さなかったり、命じられるままに凄惨な事件を起こすことがあるが、あれは、このような「何も考えない」状態の中での出来事なのかもしれないですね。
> この文章を書いて後、「何も考えない」ことにますます習熟して、ここぞ、という時に瞬時に「何も考えない状態」に切り替えることができるようになった。> 閉鎖的な人間関係の中で、暴力的に支配されたひとが、逃げ出すチャンスがあっても逃げ出さなかったり、命じられるままに凄惨な事件を起こすことがあるが、あれは、このような「何も考えない」状態の中での出来事なのかもしれないですね。 桃青さんだと、なにも考えないより、なにも言わないほうが、世界平和のためによいんじゃない。