タイトル | : 「恐怖の作法」より、その一、この世ではない世界 |
記事No | : 2353 |
投稿日 | : 2014/11/17(Mon) 19:04:52 |
投稿者 | : 桃青 |
『恐怖の作法』(小中千昭)を読みました。 中にいくつか興味深い記事があり、それが引き金となっていろいろなことを考えました。
ホラーには異次元の世界を取り扱ったジャンルがあります。 作者は日常世界に紛れ込んでいる異次元の世界という概念がお気に入りのようで、日常生活から異界へ行く作法の映像的表現の工夫を書いておられます。
私はこの日常世界に隣り合わせ、あるは紛れ込んでいる異世界という概念は案外ある種の体感を元にしてでてきた概念ではないのだろうか、体感ゆえに古来それは確固として「ある」と認識され、この世ではない異世界がある。という宗教的世界観も生まれたのではないだろうか。 そんなことを考えました。 この世とは違う世界があることを前提としている宗教は多い。 というより、仏教以外の宗教はすべてこの世とは違う世界があると説いている。 母はある時から、「この世ではない世界があることがようやく分りました。」 と、嬉しそうに師匠や若師匠に何度も云って、「土に二つの隔てなし。」と教化してこられた師匠を困惑させていたが、母は言葉を濁す師匠を無視して、「本当にあの世というものはあるんですね。」と、繰り返していた。 今、思えば、母は何かしらの体感を得て、日常世界に併走している異世界の存在を確信したのかもしれない。 そして、いつかその世界へ自分も入って行くのだと。 オーストリアのエリザベート王妃は、晩年「此処ではないどこかへ」と、旅から旅への生活を送られたそうですが、彼女もまた「此処ではないどこか」がどこかにあるという気がしてならなかったのかな? 此処ではない世界がある。すぐ隣に。あるいは、あそこに。あるいは、どこかに。という感覚。
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