タイトル | : 仏の親心人の親心 |
記事No | : 2370 |
投稿日 | : 2015/05/29(Fri) 17:08:21 |
投稿者 | : 桃青 |
「人間に生をうけたる人上下につけてうれへなき人はなけれども時にあたり人人にしたがひてなげきしなじななり、 譬へば病のならひは何の病も重くなりぬれば是にすぎたる病なしとをもうがごとし 、 主のわかれをやのわかれ夫妻のわかれいづれかおろかなるべきなれども主は又他の主もありぬべし、夫妻は又かはりぬれば心をやすむる事もありなん、をやこのわかれこそ月日のへだつるままにいよいよなげきふかかりぬべくみへ候へ、」(『光日坊御書』)
親子の別れは辛いものだ。 親思いの日蓮聖人ならではの嘆きであろう。 御聖人がその御両親(特に母上)を大層慕われたことはよく知られているが、釈尊にまみえんと切望されお姿もまた親を求める子供のようだ。
自分を見返らぬ親を慕ってやまない子の姿は哀切であるが、親をひたすら厭い嫌う子の姿も哀切ではないか。 そして、子からひたすら厭われる親もまた悲しい。 子供は「自分が慕い求めたくなるような親になって欲しい。」と願うのだろうが・・・。 衆生から親と慕われ求められる仏は子から厭われたままに終わる親の哀しさもまた「我が有なり」と御存知なのだろうか。
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