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タイトル大難は小難 小難は無難
記事No2409
投稿日: 2015/12/05(Sat) 22:31:55
投稿者ぽん州
こんばんは ずいぶんと寒くなりましたよね。
ご祈祷の際の 「大難は小難 小難は無難」 という文句が好きです。勿論ご祈祷で難が去るかどうか
仏教は自業自得だから ご祈祷で運命が変わるか という思いも在るでしょう。
私は そこに縁が介在するゆえに ご祈祷という縁によって 大難は小難 と感じるのです。
鬼子母神のご縁、釈尊のご縁 有るか無いか 心の存在と同じで 証明不可の存在で
あるがゆえに 有るとして活用して 愉快に暮らすべし という 一つの快楽主義
でしょう。 だから 寒さも それを感じる存在として今在る自分を愉快に思います。

タイトルRe: 大難は小難 小難は無難
記事No2411
投稿日: 2015/12/07(Mon) 11:51:02
投稿者桃青
> ご祈祷の際の 「大難は小難 小難は無難」 という文句が好きです。

私も好きです。
私が聴聞し始めたころ師匠は「大難は小難 小難は無難」ではなく「大難を小難 小難を無難にする力が法華経、御題目にはある。」と、力強く言われて、そのころ「大難」に苦悩していた私には、その力強い説法が魅力的でした。

振り返ってみれば、当時抱えていた大難は形の上では消えましたが、消えたと思って喜んだ私はあさはかで、ただ別の大難に姿を変ただけでした。
ただ、大難に対する見方は変わりまして、大難が忌まわしいものではなく愛おしいものになり、持ち抱えやすくなった。
そういう意味では、「大難は小難、無難」になったと言えるかもしれませんね。

タイトルRe^2: 大難は小難 小難は無難
記事No2412
投稿日: 2015/12/13(Sun) 03:44:52
投稿者ぽん州

> 振り返ってみれば、当時抱えていた大難は形の上では消えましたが、
>消えたと思って喜んだ私はあさはかで、ただ別の大難に姿を変ただけでした。

大変ですね。消えたと思って喜んだ桃青さんがあさはかかどうかは知りませんが
当時 苦しみを逃れて喜んだ ということは興味あります。苦しみのうちに
破滅に向かうのではなく 喜びがあって 別の大難に立ち向かえたと思えるわけです。
桃青さんが どう感じるかではなく 私ぽん州が そう感じるということです。
方便というのは そんなものじゃないでしょうか。


> ただ、大難に対する見方は変わりまして、大難が忌まわしいものではなく
>愛おしいものになり、持ち抱えやすくなった。そういう意味では、
>「大難は小難、無難」になったと言えるかもしれませんね。

私には 正しい意味は解りません。 が 見方が変わった 受け止め方が変わった。
あるいは単に勘違いしていただけだと解った ということかなあ。

 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思合て
 南無妙法蓮華経とうちとなえい(唱居)させ給え。
 これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え
 (四条金吾殿御返事)

 臨済宗恵林寺が焼き討ちにされた時 快川禅師の辞世の句は 
「安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれは火も自ら涼し」です。
これは 臨済宗の公案でもあります。座禅をしたら 火が熱くは感じない 
というのではないのです。 まさに 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき
ということでしょうか。大難は大難として受け取っていく生き方が 大難を小難と
なすことでしょうし その時 大難は小難となっていると 感じています。

タイトルRe^3: 大難は小難 小難は無難
記事No2413
投稿日: 2016/01/11(Mon) 10:47:49
投稿者桃青
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

> 当時 苦しみを逃れて喜んだ ということは興味あります。苦しみのうちに
> 破滅に向かうのではなく 喜びがあって 別の大難に立ち向かえたと思えるわけです。

これは、実際に解決したいと思っていた具体的な大難が解決したのです。
もともと、師匠のところへは、その具体的な大難を何とか解決したくて、行ったので、解決したときは本当に「お題目の御蔭だ。」と思いましたよ。
そこで終わっていたら、法座でよく話される「お題目の御蔭で、医者に見放された病気治りました。お題目の御蔭で素行の悪い子供の素行が改まりました。亭主の浮気が止まりました。持ち望んでた男の子が産まれました。火事でもうちの家だけ延焼まぬかれました。」という体験談を私も語っていたかもしれません。
しかし、そうはならなかったのです。
解決したと思った大難が別の大難のはじまりで、その大難は今も解決はしていません。
解決しない大難を抱えてみて初めて、仏の教えというものは、このような解決しない大難を抱えて生きる者のために説かれているのだと解りました。
仏教は大難を現世社会で解決したい。とひたすら願う者に説かれた教えなのだ、ということですね。
現世社会の大難をそのままにして、来世になれば絶対者の力で全て解決すると教える宗教は、たくさんありますが、大難は現世で解決します。その解決のためには、「私」の働きが必要なのです。
と、教えるのが仏教だということですね。
そして、命は仏も「私」も久遠なのですから、慌てず狼狽えず解決を願ってコツコツ行きましょう。と。
具体的な大難をまだ書く気になれないので、こんなことしか書けませんが。