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タイトルやめられない、やめたくない
記事No1394
投稿日: 2012/02/17(Fri) 13:04:45
投稿者桃青
ある宗教団体、仮に某M教としよう。
団体の会員で某M教へ辛辣な批判をしつつも、教会をさらないかたがいる。
批判は会の運営の仕方から、教義の根本に至るまで多岐にわたるものである。
私などのように、人間の問題を解決するにはこれしかない。と、納得して教えを聞くものには、「そこまで信頼できない教えであると解っているのなら、やめれば良いのに。」としか思えないのだが・・・。

どうもそのかたは、某M教が救いに不可欠としている儀式を救いに関係なし、と否定し、儀式に参加することもやめてしまわれているようであるし、これまた教義の根幹に関わる献金も収支を明らかにしないのはケシカランと、出すのをやめてしまわれている。
そして自分は某M教にあっても、某M教の愚かさには流されていないと胸を張られる。
言われていることは某M教を離れてどちらかというと伝統的なキリスト教に近いのだが、それでも「私は某M教会員であり、キリスト教徒ではない。」と、言われる。
私は、世親の「これまでなんというつまらない教えを聞いていたのか。」と、自分の耳を切り落としたようなホンモノを求める潔さを尊敬してやまないのだが、このかたに世親の話をしたところ、「くだらない。」と切り捨てられたことがある。

タイトル扉の向こう
記事No1395
投稿日: 2012/02/17(Fri) 16:07:48
投稿者桃青
人間はいつも合理的に整合性がとれる行動ばかりしているわけではない。
自分でも説明がつかないような行動をすることはままありますが・・・。

「自分は教義を信じていない。組織が真理を教えることは真理だと思っていない。」と、オフレコでは明言しながら、組織の集会では「組織が教える真理は真理です。」と、証言する。
組織の中で他の人々と協調性を保って生きようとするのなら、諸般の事情で、そう証言せざるを得ないことは理解できる。それもまた人生、なのだろう。

しかし、自分でもまっすぐに求めるには躊躇するような教えだと認めているのに、教団名を名乗る時はなにやら意気軒高で自慢げでさえあり、自ら教義はトンデモ、運営方法には問題がある組織だ。と言いながら、その組織に信仰者が定着しないことを悲しみ、一人でも二人でも教会員が増えることは嬉しげである。その気持ちがさっぱり理解できない。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い奉ること難し
我今見聞し、受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん
と、まっすぐに法を求めることを身上としているものには、
信頼できない教えなら、やめればいいのに、、としか思えない。

いったい彼らにとって宗教とは、イエス・キリストとはなんなのだ??
彼らはよく、某M教の教義に惹かれて入信したわけではない。
と言う。
では、何に惹かれて入信したのか?

彼らの内部にあって、日本で某M教が受け入れられた背景を考察したひとがいる。
曰く、「村社会が崩壊して新たなコミュニティーを求める時代にマッチしたのだ、」
その後に続けて、「同じ時期、某S学会もこの新たなコミュニティーを求める時代を背景に発展した。某S学会はブルーカラー、下流層に、某M教はホワイトカラー、上・中流層に浸透した。」のだそうな。
(なるほど、教会員を名乗るのに自慢げなのももっともだ。)

彼らは、どうも自らを一つの成功したコミュニティと捉えているようだ。
「成功したコミュニティ」が、もしかしたら、やめたくない。のキーワードなのだろうか?
と、思わせる一文をつい最近眼にした。

コラムニストの辛酸なめこさんが、フリーメーソンを扱った『石の扉』(加治将一)の書評の中で、このように書いている。

「実は私、フリーメーソンに入会したいと思っていた。
フリーランスでこういった仕事をしていると、しっかりした後ろ盾がなく、心の拠り所として、また社会基盤の一つとしてフリーメーソンに属すれば、安心した生活を送れるのではと真剣に考えたのだ。」

なるほど。
仲間になれば、何か良いことがありそう・・・か。
まあ、そういうこともあるかもしれない。

タイトル信じていなくても・・・。
記事No1396
投稿日: 2012/02/18(Sat) 18:14:32
投稿者桃青
と、言うわけで、彼らはしばしば
「私は某M教のオカシナ部分は解っている。解っているからオカシナ部分に影響されてはいない。私は大丈夫。」
と、いうようなことを言うわけですが、これが、傍からみると、充分に某M教らしさに染まっているわけで・・・。
私が某M教らしさとして一番困った傾向だな、と思うのは、
某M教と言えども、某M教以外の人々の世界に支えられて存在していることを忘れてしまっていることですね。
何やら「自分達だけ」は、周囲とは関わりなく「自分達だけ」で、生きているように思っておられる。

こういう自分達だけで生きているように思っている集団、は、とかく周囲からは嫌われるようになる、ものなんですよね。
自分達が集団で、周囲の人間をないがしろにしているのに、周囲の人間のほうは、自分達を認めて、好感をもつべきだ。というのは通らないんじゃないか、と思います。
そこのところがどうも良く解っていないんじゃないか、と思いますが、そういう姿勢を生みだすのは、やっぱり自分たちの集団と世間とを明確に分ける某M教の教義から来ているのではないでしょうか。
いくら信じてないと言っても毎日毎日、そんな教義を耳から聞き、眼から見、教義にのっとった行動をとっていれば、知らず知らずに影響されるでしょう。されないわけがない。

人間の行動を規制する社会的規制の手段、について考察したひとがいて、

タイトル宗教組織がアイデンティティ
記事No1397
投稿日: 2012/02/19(Sun) 10:42:42
投稿者桃青
さて、辛酸なめこさんは、「しっかりした後ろ盾がなく、心の拠り所として、また社会基盤の一つとして」フリーメーソンという組織を求めたわけですが、
言われている後ろ盾とは、イザという時に頼りになったり、世間で組織の名前を出せば、相手からないがしろにはされない。
そんなところでしょうか。
世界へ出て行った場合、多くの者には自国しかないわけですが、フリーメーソンを後ろ盾としたい、と思われたのは、国家よりもう少し親密に面倒見てくれる世界規模の組織を利用したい、ということなのか。

某M教の内部批判者の批判のひとつに「本部幹部は教会員を献金マシンとしか見ていない。教会員に対して面倒見が悪い。」というものがあるが、辛酸なめこさんが組織に求めたようなものを宗教団体に求めておられるのだろうか。

が、某M教の場合、組織の一員として入って良い思いをするのは要領の良い者ばかりのようだ。
(これは、人間の集まりや組織というもの、どこでも、ほうって置けば同じであるが)
要領の悪い者は、要領の良い者から「神の試練」とやらを押し付けられる構造が見て取れる。
そして重要幹部は初期の会員を先祖にもつ者が幅を利かせているつまり世襲だ。
傍から見ると、教会員個人の後ろ盾となろうという気概など全く見られない組織であるが、これも個人の出来事を全て単純な因果律に帰着する教義が根底にあるからではないかと思われる。

それでも、なお某M教会員であることが自慢げなのは、何故か?
傍から見ていると「ここが素晴らしい」と言っている全て、「え?それって、どこにでも普遍的に見られますよ。ところによってはもっと素晴らしいものがありますよ。」というものばかりである。

結局、アイデンティティ(自我同一性)なのか、と思う。
教会員は某M教の信仰は帰属意識だ。というが、組織への帰属意識だけなら、その組織に帰属する意味を語れるものだが、尋ねても「さあ。」と、いうのであれば、自我同一性のほうだろう。
某M教という「組織」が延長自我になってしまっている。
某M教の教義は信じていない、というのであれば、組織が延長自我なのか。

タイトル宗教が与える自分は何ものなのかへの答え
記事No1398
投稿日: 2012/02/20(Mon) 10:00:29
投稿者桃青
さて、アイデンティティ、自我同一性という概念は、20世紀にエリクソンによって提唱されたものであるが、エリクソンが看取ったような現象がエリクソンの時代から始まったというわけでもないだろう。

自分は何者なのか、という問いかけを持つ者もいれば、持たないものもいる。
それまで、自分は何ものなのか、などという問いかけを持たなかった者が、問いかけられても、すでに答えをもっている者もいれば、「そういえば、自分は何者なのだろう。」と、問い始めることもあるだろうし、そんなことはどうでもよい、と思う者もいる。

それは、いつの時代でも、どこでも同じだろう。

自分は何ものなのか、かなり面倒くさい問いかけだ。
殆どの者は、そんな問いかけなどしたこともないだろう。
エリクソン自身はうつ病だったらしい。

「本当の自分さがし」が、一時期社会現象になったことがあるが、今でも「本当の自分」を求めているひとは多そうだ。
本当の自分さがしは、卑近なかたちで行われることが多いので、嫌ったり、バカにする者もいるが、あれもまた「私は何ものなのか」に対するしっくりとした答えを求めているのだと思えば、エリクソンの悩みと同じようなものだろう。
「アイデンティティを求めて」、といえば格好良いが、「本当の自分さがし」といえばバカにされて笑われる。
が、中身は同じようなものだろう。

自分を何者と捉えてよいのかわからない。という不安。
こういう不安は少し解るような気がする。
例えば、私は、日本人ではあるが、「私は日本人だ。」と、意識したことがない。
私は日本人、と呟いてみても、どうもしっくり来ない。
この自分を日本人と意識することへの「しっくり来ない感」がきつくなると、たまらない焦慮感、不安感になるのではないか。
ちょうど、皮膚の痛点への弱い刺激が痒みと感じられ、強い刺激が痛みと感じられるように。

親鸞聖人は、御自身を「無性」と捉えて落ち着かれた。
日蓮聖人は、御自身を上行菩薩と捉えて落ち着かれた。

では、私は?
日蓮宗では、「菩薩の自覚を持て」と言われるが、菩薩ではどうもしっくり来ない。
最近は「自分の使命を自覚しなさい。」と盛んに言われるが、これもこそばゆい。
「如来使」から「使命」という言葉が出たのであろうが、使命ということばには、なにやら絶対者の命令指令に従って動く、というニュアンスを感じ取ってしまうからだろう。
どちらかと言うとキリスト教的ですね。
仏は、命令も指令も発せられない、ですからね。
ひたすら待っておられるのが仏です。

では、私がしっくり来ているのは何かと言えば、「私は<私>。全ての<私>」です。
これもまた、仏教が与えてくれた「自分は何ものなにか」への答えですね。
「私は<私>。全ての<私>」と、自分も他人も見ると、「日本人」も「某M教会員」も<私>を彩る要素でしかない。

タイトルRe: 宗教への帰属性
記事No1399
投稿日: 2012/02/22(Wed) 12:11:11
投稿者桃青
宗教は「自分は何ものなのか」への答えも呈示しますが、同時に帰属するものも呈示します。

某M教の場合は、某M教会という組織です。
「イエスキリストのみを救い主とせよ。」と、イエスキリストへの帰属を促しながら、同時に「某M教会員になり、某M教会が行う儀式を受けなければ救われない。」と、某M教会という集い組織への帰属を促す。
このため某M教会は、教会員の労力と時間を教会のために無制限に利用できることにもなるのだが、人間不思議なもので、自分が何ものかをつぎ込んで来た対象からは、容易に離れられないという特性があると言われているが、某M教会を似非宗教、宗教ビジネス、と断じ、教会組織への失望を語りながら、教会を離れられないというのには、そんな人間の特性が一部は関与しているのかもしれない。

私は、自己同一性と帰属性を分けて書いているが、「自分はなにものなのか」という自己統一性の答えが、集団組織無しでは、成り立たないものもある。
例えば、某M教のひとは、某M教をトンデモ教義、似非宗教、ビジネス宗教と断じるひとでも何かというといろんな場面で「私は某M教徒だ。」と誇らしげに宣言するが、これなど「某M教徒」が、「私はなにものなのか」(自己同一性)の一番しっくりする答え、で、それは「某M教会」という集い組織無しには成り立たない答えである。

私は、子供のころから、「私は日本人だ!」とか「日本人とはかくかくだ」「日本人ならかくあるべし」とやたらに「日本人」を強調するもの言いに馴染めず、「私はなにものなのか」という答えとして、「私は日本人だ!」では、どうもしっくり来なかったのは、日本人という概念が「日本国」という組織を離れては成り立たないものであり、組織というものは人間が造ったものであり、よって不安定なものであり、そのような不安定なものを「私は何ものなのか」という答えとするのに、本能的な異和感を感じたたからかもしれないな。
と、今は思う。
なので、私は「組織」への帰属性と自己同一性をイコールにはできないタイプの人間なのだろう。
おそらく自分を「私は某M教徒だ。某M教を愛している。」で落ち着くひとと、「私は日本人だ。日本を愛している。」で、落ち着くひとと似ているのかもしれない。

私は、日本が好きだし、日本と言う国が世界の人々から尊敬される国になって行って欲しいし、そのために自分ができることがあればしたい。とは願っているが、それでも、「私はなにものなのか」への答えは「私は日本人だ。」は、ない。

タイトル卑怯者
記事No1400
投稿日: 2012/02/28(Tue) 12:03:16
投稿者桃青
私は、この某M教への批判を繰り返す内部批判氏から「卑怯者。」と言われ「仏教徒がこれほど卑怯な人種とは思わなかった。」とも言われた。
私は、自分が卑怯者だと言われる意味が正直解らない。
私から見れば、「トンデモ教義、似非宗教」と自分が批判する宗教の教団員であることを誇らしげに「私は某M教徒だ。」と名乗るひとこそ、不正直でないかと思うのだが・・・。
私なら、この教えが人間の問題に根本解決をもたらさないものだ。と思い知った時点で、すぐやめる。
私がひたすら求めているのは、人間の問題解決だから。
すると、別の内部批判氏は「本気で、人間を救うことができると思っているのか、人間を救うことなど誰にもできない。大笑いだ。」
と、私を笑った。
それも、ひとつの考えだろう。そうとしか思えないひとがいることも、何の不思議もない。
しかし、そう思うのであれば、何故「ひとを救う。救った。」というかたの名を冠した宗教団体員でありつづけ、集いにあってはイエスキリストを救い主として礼拝するのか?

私は、自分では卑怯者ではない。と思っているが、そのかたの眼から見たら、卑怯に見える部分があるのかもしれない。
なので、自分が卑怯者だと言われることは、どちらでもいいのだが、
「仏教徒は卑怯な人種だ。」と、言われたことはこたえた。
私の徳のなさゆえに、他の全ての仏弟子が、卑怯者だと思われるのかと、落ち込んだ。
でも、思いなおした。
まともなひとなら、たとえ私が卑怯者であったとしても、仏教徒全てが卑怯者だとは思わないだろう。
まともなひとならば、卑怯者もいれば、勇敢な者もいる。正直な者もいれば不正直な者もいる。
それが人間の集まりだと知っているはずだから。

タイトルRe: 卑怯者
記事No1401
投稿日: 2012/02/28(Tue) 18:05:34
投稿者桃青
私には、ひとを見る目がない。と、自覚している。
つまり、そのひとがどんなひとなのか、ということに対して、
自分の判断に自信を持てないのだ。

なので、こと人物に関して、自分の判断より他人の判断を優先することになる。
特に判断者を信頼している時など、そうなりやすい。
責任転嫁ではなく、とにかく自分のひとを見る目に自信がないのだ。
で、時々この方法で失敗する。
つまり、たとえ信頼にたる人格の持ち主であっても、仏ではないので、時に人物を見間違えるということだ。

かって、虎になった詩人が「ももばやし」に来られたことがある。
私は、「困ったことになったな」と当惑していたのだが、
あるひとが「中島敦描くところの詩人に似ているし、素晴らしい文才だ。」とあまりに絶賛するので、そのつもりで対応していたら、
確かに虎になったところは似ていたが、品格に於いて中島敦の詩人とは異なるところがあり、私はそのかたの下劣な妄想に何カ月か悩まされることとなった。
さて、この某M教内部批判氏であるが、当初から、何とはなしに私に対してトゲをもっておられることを感じていた。
が、これまた私がその人柄を信頼するかたが「私に似ている。一度会って話をしたい。」と言われたことと、御当人がしばしば「(某M教の神のように条件をつけるのではなく)無条件に愛する神が本当の神だ。」と、言い言いされるので、ならば、私の「人間の問題を解決したい。」というひりつくような思いにも、いつか共感していただけるだろう。
このひとは、仏弟子として信頼するかたが、「私に似ている。」と言われるくらい、本当は、仏教的な考えも持っているかたなんだろうから。
と、どんなにトゲある言葉を投げかけられても、思っていたのですが、有る時、「あ、そうじゃないんだな。」と、見極めがついた。
そのことを「私に似ている。」と、言われた本人に告げたところ
「私、そんなこと言いましたか?」
と、怪訝な顔をされたのには、参った。

私は、ひとを見る目に全く自信がないが、他の人もまた、私が思うほど確かではないのかもしれない。

タイトルRe^2: 卑怯者
記事No1402
投稿日: 2012/02/28(Tue) 22:17:45
投稿者ぽん州@漂泊

お久しぶりです。お元気そうで結構ですね。私はといえば、姉の見立てでは「ペットロス症候群」だそうで落ち込んでいます。

桃青さんに何があったかは判りませんし、事情が解ったところで気の効いた言葉など絞り出てこないし。。。でも元気でお過ごしください。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^3: 卑怯者
記事No1403
投稿日: 2012/02/29(Wed) 11:48:11
投稿者桃青
ぽん州さん

おひさしぶり。

> お久しぶりです。お元気そうで結構ですね。私はといえば、姉の見立てでは「ペットロス症候群」だそうで落ち込んでいます。
>

私も経験したことがありますが、落ち込むものなのですよね。
可愛がって一緒に楽しく暮らして、手は尽くされたのだから、
それは寿命だ、と教えられ、そうなんだろうなあ。
と、思っても悲しかったな。
時間とともに、落ち込みは回復し、次のペットを飼って、その仔ともまた楽しかったのですが、でも、ずっと忘れることはなく、今でも、ふと、縁のあったペット達の顔が浮かび、今頃、どこでどうしているだろうな。と、思うことがあります。
そんなものなんでしょうね。

> 桃青さんに何があったかは判りませんし、事情が解ったところで気の効いた言葉など絞り出てこないし。。。でも元気でお過ごしください。
>
> 南無妙法蓮華経

ありがとうございます。

基本人間が好きで、人間の可能性に希望をもっている私ですが、ちょっとだけ人間に失望しかかってしまった体験をしました。
でも、失望はしないですよ。
人間に失望する。ということがどういことか、ちょっとだけ解ったような気がしただけです。


妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四

・・・そのときに浄華宿王智仏、妙音菩薩に告げたまわく、
「汝彼の国を軽しめて下劣の想いを生ずることなかれ。善男子、彼の娑婆世界は高下不平にして、土石・諸山・穢悪充満せり。仏身卑小にして、もろもろの菩薩衆もその形また小なり。

これを伝えたかたも、人間に失望したことがあったんじゃないか、
と、思いました。
そして、「でも」と、気をとりなおされたんじゃないかと。

私もぽん州さんに声をかけていただいて、人間に失望するのも迷いなのだ。と改めて思いました。
御声をかけていただき、ありがとうございました。

南無妙法蓮華経

タイトルRe^4: 卑怯者
記事No1410
投稿日: 2012/03/04(Sun) 15:30:13
投稿者ぽん州
修正しました

卑怯とは、公正・正義に反する行いを言う(削除:のでしょうか)。
公正・正義の権威は、全知全能の神に由来する(削除:のでしょうか)。
よって、その神に隷従しない輩を卑怯者と呼ぶ(削除:のでしょうか)。

と考えるなら、私も卑怯者の一人なのかな。

南無妙法蓮華経

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^5: 卑怯者
記事No1411
投稿日: 2012/03/05(Mon) 12:45:37
投稿者桃青
>
> 卑怯とは、公正・正義に反する行いを言う(削除:のでしょうか)。
> 公正・正義の権威は、全知全能の神に由来する(削除:のでしょうか)。
> よって、その神に隷従しない輩を卑怯者と呼ぶ(削除:のでしょうか)。
>

そういう見方もあるようですので、私が遭遇した事例も、またそうかもしれないですね。
私が見るところ、神の権威を奉ずるかたの中には、この世の事象、とりわけ人間の営みを神の正義由来のものか、そうでないものか、に仕分しないと、心が落ち着かないかたをよく見かけます。

神は絶対者なので、神の正義以外の正義はありようがない。
なので。神に隷属しないものが、たとえ自分達がするようなことをしていても、「あの者たちは自分たちと同じく神の正義を行っているのだ。」
とは見えず。。。どこか信用できないものと見る。
「いやいや、神の正義を知らないものが、神の正義を行うはずはない。表面的にそう見えるだけで、中身は違うのだ。」
はては、「もしやサタンがたぶらかそうをしているのでは・・・。」

閉じられた空間に安住することを推奨する教義を持っている宗教団体では、余計にそういう方向へ行きやすいのかなあ、と思いました。

> と考えるなら、私も卑怯者の一人なのかな。
>

何処で読んだ問答だったか、古い仏典を紹介している中に、
王が覚者に「お前は何ができるのか」と尋ねた。
覚者は「私は、待つことができる。」と答えた。
王は「たったそれだけか。」と言った。
覚者は「そうだ。待つことは大変難しい。」と、答えた。

こんな問答を読んだおとがあります。
神の正義を唱える方々には、この「待つ」が、どうにも臆病で卑怯な態度にしか見えないようです。
神の正義でない、と、決めつけたものは、さっさと排除しようとする。
また、自分と異なるものは、正面切って喧嘩して、相手を打ちのめして輩下に置くか、排除しようとする。
つまり喧嘩しない者は、卑怯者だとしか見えないようです。
つまり、人間は、味方か、敵かさもなくば奴隷か。しかない。
等身大の人間という存在は、想定できないみたいなんですね。

そういう教義に何十年も浸かっていると、そうなるのか、
もともとそういう思考なので、そういう教義にはまるのか。

閉ざされた空間に安住し、自分の気に入らない者の存在を許さない思考を持つひとが増えるのは、困ったことだと思います。
そう言う思考をするかたは、いつでもどこにでもおられますけれど、ね。
そういう思いを神の権威で保証しなくてもいいのではないか、と私は思うのです。

タイトルコミュニティが面倒見てくれるという幻想
記事No1405
投稿日: 2012/03/01(Thu) 10:26:28
投稿者桃青
最近は無縁時代ともいわれ、かっては家族や地域コミュニティで当たり前に行われていたようなことが行われなくなってきている。
と、言われる。
が、そうだろうか?

かって、日本に最後まで面倒見てくれる家族や地域コミュニティがあった。というのもアナクロな幻想だとうと、私は思っている。

なぜそう思うのかといえば、
明治から戦前の社会が投影されている社会派と言われる文学やドキュメンタリー(明治期にもドキュメンタリーは、現在のように大衆読者に向けて出版されている。)などに、機能していない家族やコミュニティの有様が描写されていること。
そして、それは、私の子供時代に見聞きした田舎のコミュニティの有様に酷似していること。
からであるが、いつでもどこでも最後まで面倒みる家族や、暖かいコミュニティは確かにあったし、あるであろうが、同時にその力を持たない家族やコミュニティもまた確かに存在するものなのだ。

家族やコミュニティにいわゆる福祉を押し付け、それを当たり前とする社会が、どんなに悲惨な状況を生みだしているかを、明治大正昭和戦前の作品は伝えている。
その悲惨さに胸を痛めた先人の努力を土台に、今日、行政へ福祉の充実を要求するのが当たり前の社会となったのではないか。

某M教会を宗教ビジネスと批判する内部批判者氏の言い分をよくよく聞いてみると、
「カネをとるだけとって(コミュニティとして)教会員の面倒をみてくれない。」
という点において「宗教ビジネスだ。」ということらしい。
私は、「くだらない教えでカネをとる」という意味で宗教ビジネスというのか、と思っていたが、教義はどうであれ、教会員の面倒を見るコミュニティをまっとうするなら、まっとうな宗教であり、まともな宗教団体だと思っておられるということなのか。
そうだとすると内部批判氏がしばしば「油多の幹部が最後まで会員の面倒を見てくれるなら、某M教の擁護派になる。」と、言っておられたことが納得できる。
私は、某M教内部批判氏が、某M教の教義そのものを批判しながら、最後まで面倒見るなら擁護派になる、と言われることが、さっぱり理解できず、尋ねもしたが、トゲある言葉が返ってきただけだったので、以後尋ねる事は無かったのだが、最近、別の教会員のかたが
「什分の一をこれだけ納めているのだから、最後まで面倒見てもらえるだろうと思っていた。」
と、言われたので、すべてが「あ」と、辻褄があうような気がした。

そうなのか。そういうことだったのか。
某M教の学者氏が「失われたコミュニティの回復」と言い、別のかたが「某M教は宗教ではない。一つの文化である。」と言われた意味もすんなりとつながる。
死ぬまで暖かく宗教コミュニティが面倒みてくれる。ね。
幻想じゃないのかな。
現実そうじゃないでしょ?
キリストの愛を提唱する宗教コミュニティと言えども、ただの人間の集まりですからね。
最後、頼りにせざるを得ないのは、行政のサービスなんじゃないかな?

もし、仮に、某M教コミュニティが、独自の福祉システムをもって教会員の面倒を見てくれるコミュニティだったとして、どうなのかな。
例えば、まだまだ、議論の余地がある社会福祉制度をかかえる日本国にあって、「行政なんて信用できませんよ。我が某M教の福祉サービスは完璧です。教会員になって什分の一を納めれば、あなたもサービスを受けられます。」といえば、教会員は増えるかもしれない。
でも、日本の今とこれからを考えるという観点からいえば、「行政はあてにならないから、自分たちだけで独自にやっていけばいいのだ。」と、いう考え方は、国を滅ぼすことにもなると思うけどな。
当てにならない行政なら、当てにできる行政に変えて行こう、というでなくては、ダメだと思うよ。

タイトル宗教は社会を変え得るのか、マックスウェーバー
記事No1406
投稿日: 2012/03/02(Fri) 12:12:27
投稿者桃青
さて、この某M教内部批判氏は、
「宗教は個人的に慰めを与える力はあっても、社会を変える力はない。」と、言われる。

私は、それに対して「いや、宗教は社会を変え得る。」と、異を唱えたところ、またしてもトゲある言葉で延々と攻撃された。
トゲを含む言葉であっても、意見への反論ならトゲは気にならないし、宗教は社会を変え得るという論証も続けることができるのだが、「あなたのように人格に問題があるひとの意見など聞く気はない。話を聞いて欲しかったら、この私にあなたの話を聞きたいという気をおこさせるのが先だろう。」
と、言われた。
が、私には、この方に「こいつの話を聞いてみようか。」と、いう気をおこさせる力などなく、またこれからもそんな力は持ち得ないだろうから、「宗教は社会を変え得る。」という話は、それきりになった。

宗教は社会を変え得る。
私ばかりでなく、おそらく仏教を学ぶものなら、宗教が社会を変えることはある。と言うだろう。
中でも、「自分が変われば、社会が変わる。」と声高に唱える某S学会ばかりでなく、日蓮門下なら宗教が社会を変えうる。という意見に異を唱えるものはいないだろう。

社会学者マックス・ウェーバーもこのように言っている。
「人間の行為を直接的に支配するものは、物質的な利害関心であって、理念ではない。
しかし、実際には、宗教のような「理念」によって作り出された「世界像」こそが、しばしば「転轍手」として軌道を決定、その軌道の上で営まれる利害の衝突が世の中の動かして来たのだ。」

まったくもって、ウェーバー氏のおっしゃる通りではないか。
内部批判氏には、前段の事象しか見えていないのであろうか。

タイトルレッシング、人の行動を規制する社会的手段
記事No1408
投稿日: 2012/03/03(Sat) 18:14:36
投稿者桃青
レッシングは、サイバー空間について論じた「CODE」の中で、
人の行動を規制する社会的規制の手段を4つあげている。

 @法 罰則によって強制的に行動を規制する。
 A市場 取引に参加するために一定の条件を定める。
 B社会的規制 道徳慣習
 Cアーキテクチャ 予め規範に反する行動が物理的に不可能となる環境を設定する。

レッシングはサイバー空間の閉鎖性への危惧と、その打開策を論じたかったようだが・・・。
結論としては、サイバー空間の閉鎖性を打破するのは、法規制では無理、
アーキテクチャによる行動規制は、ますます巧妙に閉鎖的サイバー空間をつくりだし、無意識のうちに誘導された行動をとるようになる。
フェイスブック、ツイッターを使って、頻繁に自分の意見を聞かせることによって、行動を誘導する事も可能である。

と、まあ、レッシング氏は、暗い予測をしているが、私は、人間捨てたものでもない、と思っている。
何故なら、レッシング氏は、そのような事態を憂いているではないか。
また、ネットを検索すると、レッシングの講演を聞いた人の中には、レッシングの危惧に共感する者もいることがわかる。

宗教には社会を変える力があるか。
という話。
レッシング氏も人間が作り出したサイバー空間によって、人間が支配されることを危惧しているではないか。
それと気づかい無いうちに、何者かによって人間が支配されて行く社会を望ましい世界ではない、と危惧しているではないか。
言いかえれば、それは、何者かの呈示する世界像によって、社会が変わるという現象が起きていることに対する危惧であろう。

人間に他者の痛ましさを「なんと痛ましい。なんとかならないのか。」という心があるかぎり、宗教は「あって欲しい世界像」を提示し、社会を変える力となりうるのだ。
レッシング氏の危惧もまた、それと気づかないで支配されて行く人間を痛ましいと見る故に、閉じられたサイバー空間を危惧している。

余談であるが、昨今、ネット上の個人情報を利用して、好みにあった商品や店を自動的に画面に登場させるサービスが盛んであるが、
私は余計な御世話だと思う。
「あなたにはこれがぴったり。」と呈示されたものばかりの中で暮らせというのか。
ん?これももしかして、サイバー空間の閉鎖性とか、アーキテクチャによる操作ってこと?

それを構成する人の主観によって、見たくないものを見ないように完璧に閉ざされた世界を構築し、閉じられた世界のみがそれぞれ閉鎖して共存する世界は、望ましくない。
と、レッシングは述べているようですが、
これは、某M教団員たちが「私たちは、私たちだけでやっています。私たちがあなた方に何も言わないように、あなたがたも私たちに何も言わないでください。」と、いうのを私が見て、
世の中そんなもんじゃないだろう。
と、モヤモヤする気持ちに似ているのかもしれない。

タイトル閉じられた空間
記事No1412
投稿日: 2012/03/06(Tue) 12:13:03
投稿者桃青
自分の気に入った者たちばかりで、閉ざされた理想郷をつくろうという発想は、サイバー空間にはじめて登場したのではない。

トマス・モアのユートピアは16世紀に発表されたが、子供の遊びにも「隠れ家」や「秘密基地」が登場することがあるように、構成人員を限定する理想郷という発想は、いつでも、どこでもあるものなのだろうし、気の合った仲間だけの理想郷を夢見て、実現しようとする者は後を絶たない。

しかし、そんな現実の人間を対象とした理想郷は想定のなかだけでも、論理的に破綻しているのものを見ることがある。
例えば、モアのユートピアには、理想的に暮らす市民の生活を支える奴隷を想定している。
奴隷の身になってみれば、そんなところは理想郷ではないだろう。
理想郷だと思っている者と、理想郷ではないと思っているものが同時に存在するのであるから、モアの理想郷が仮に現実のものとなったとしても、運営は長続きしないだろう。

某M教の教祖の真意はいまいちよくわからないが、少なくとも日本の某M教会員たちは、某M教を閉じられた理想郷の具現と捉えて、閉じられた空間のままに理想郷として形を整えていくことが、某M教の発展だと捉えているようだ。

某M教の予言者者は、某M教の発展のだめだけに予言する。
神の選民である某M教徒を導くためだけに予言する。

某M教が閉じられた理想郷なら、この発言は当然である。
しかし、そうなんだろう。救い主として世界的に超有名なかたの元に集って、このメンタリティなら、ノアの箱舟に乗りこんで、「あー良かった。あと知らね。」というメンタリティと同じであろう。
そういうメンタリティの人々が集まっている閉じた空間には、理想郷らしからぬ人間関係が多々発生するのでなないだろうか。
事実、内部の人間関係の悪さをこぼすひとは多い。
結局「我らだけ、良ければ」というメンタリティを集めても、理想郷など出現し得えないのだ。
理想郷の前提が「閉じられた空間」であるのなら、どこからどう見たって、その意味するところは「我らさえ良ければ。」と、いうことだろう。

モアのユートピアは、社会秩序を保つのは市民同士の相互監視としていたが、市民同士の相互監視社会なんて、下手するとどれほど嫌なものか、現実の例はいくらでもある。
某M教も教会員同士の相互監視システムをとっているが、そもそもコモンセンスを持った市民や選民の集まりなら、秩序を維持するための相互監視システムなど必要ないだろうに。

閉ざされた空間としての理想郷を提唱する宗教、それが某M教であるが、閉ざされた空間としての理想郷を求める志向は、何も某M教独自というわけでもない。
しかし、閉じた空間を理想とする集団が、全体をみると、どこもどこかバランスを欠いているのは、何故だろう。