タイトル | : 自帰依自灯明、法帰依法灯明 |
記事No | : 1416 |
投稿日 | : 2012/03/09(Fri) 16:49:34 |
投稿者 | : 桃青 |
「だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」
「法を拠りどころとして、法を灯明として」は、(法とはなにか、は別にすれば)わかりやすいですね。
「自らをよりどころにして、自らを灯明として」の捉えかたは難しい。 ネットで検索しても、いろんな解釈がある。 どれが本当なのだろう、と、思うし、どれも一つのことを別の表現で言っているだけなのだろうか、とも思う。 ただ、「自らが灯明となってあたりを照らせ」という解釈も眼にするが、これは違うような気がする。 それでは、後の「法を灯明として修行しなさい。」と対にならないからである。
私は<私>、全ての<私>だと、思い至ったのはいつだったのだろう。 はっきりと思い定まったとき、私は何かから解放された。 そして、自灯明とは、一念三千を観ぜよということであり、観心本尊をいうのであろうな。と、思った。 表現する言葉は違うが、私のように理解した解説もあるところをみると、私の独りよがりでもないのだろう、と思っているのだが・・・。
|