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タイトル自由
記事No1417
投稿日: 2012/03/09(Fri) 17:41:00
投稿者桃青
テレビを見ていたら、番組中、コメンテーターが
「明治以前には、日本には自由という言葉は無く、自由などという概念も無かった。」
と、解説していたので、「あれ?」と、思った。

自在天がいる。
自由自在という四字熟語がある。
調べてみたら、「自由」という言葉は『後漢書』にも登場するくらい古くからある言葉であり、漢籍を読む知識層は当然知っていたであろう。
意味は、心のままであること、思う通り。自在。
古くは、「ほしいまま」と読み、勝手気ままの意に用いたようだ。

明治期、西洋の「freedom、liberrty」という概念に、この「自由」を当てたのであろう。
西洋の「freedom、liberrty」は、一定の前提条件の上で成立しているとされ、無条件的な絶対の「freedom、liberrty」は、人間にはない。とされる。
つまり、障害となるような自然的、社会的条件を除去、緩和すれば「freedom、liberrty」は拡大して行くという考え方なのだ。

ならば、先のコメンテーター氏の解説は、二つの意味で間違っている。
一つは、「自由」という言葉は、明治になって出て来た言葉ではない。
一つは、明治期に輸入された「freedom、liberrty」という概念に照らせば、日本においても日本の社会的条件のもとでも「自由」は、あった、ということになる。

エンターテイメントな教養番組であっても、心に止めて番組を視聴している人々はいるであろう。
指導的コメンテーターという役割を振られてギャラをもらっているのなら、間違った知識を発信したらいかんでしょう。

タイトルRe: 自由
記事No1418
投稿日: 2012/03/09(Fri) 20:55:57
投稿者慎之輔
> テレビを見ていたら、番組中、コメンテーターが
> 「明治以前には、日本には自由という言葉は無く、自由などという概念も無かった。」
> と、解説していたので、「あれ?」と、思った。
「日蓮理のゆくところを不審して云く、善無畏三蔵の法華経と大日経とを、理は同じく事は勝れたりと立るは、天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を、今大日経にとり入れて、同じと自由に判ずる条、ゆるさるべしや。」聖密房御書(真筆)
鎌倉時代から自由という言葉はありますね。(-_-;)

タイトルRe^2: 自由
記事No1420
投稿日: 2012/03/10(Sat) 16:17:28
投稿者桃青
慎之輔さん

御教示ありがとうございます。
そう!そう!日蓮聖人も確かに使っておられる・・・。

なのに、何故、コメンテーターは「明治になってはじめて登場した言葉」と、言ったのか。
私には、その理由がわかるような気がします。
それについては、ぽん州さんのコメントに付けて、書いてみます。

タイトルRe: 自由
記事No1419
投稿日: 2012/03/09(Fri) 21:24:08
投稿者ぽん州
こんにちは。

「freedom,liberty」は、特権 のことですね。

タイトル「自由自在」と「選択の自由」
記事No1421
投稿日: 2012/03/10(Sat) 18:09:41
投稿者桃青
> こんにちは。
>
> 「freedom,liberty」は、特権 のことですね。

そうですね。
日蓮聖人も使った「自由」は、何の制約もなく自分の意のままに振舞う。思うがままにする。
という意味合いが強いです。

freedom,libertyは、日本語でいえば「解放」の意味が強い。
始めに何か、束縛があって、そこから解放される、て、感じですね。
他の誰かは、束縛されているのに、自分だけはその束縛を受けていない。という場合、ぽん州さんがいわれる「特権」になるのでしょうか。

日本人が日本語として伝えて来た自由と、freedom,libertyを「自由」と訳して伝えるものの間には、微妙にずれがある。
日本人は、漠然と全ての束縛を離れることが自由だと捉えるが、
freedom,liberty(自由)は、束縛一つに対して、一つの自由があると捉える。

「自由に貿易しよう。」と言われると、日本人は、つい、制約なしに貿易することだ。と考えがちですが、向こうはそんなことは思ってなくて、いくつかの制約を定めた上で、貿易しようと言ってるだけなのだ。
今まであった制約の一つを解除すれば、その制約からは自由になるから、自由貿易だ。と、言いたいだけなのかもしれない。
日本人は、自由を古来からの「自由自在」で捉えるから、「自由になろう」と言われたら、「良いことだ。そうしなくては。」と思い勝ちですが、彼らは、「何か具体的な制約を廃止しよう、緩和しよう」と話を持ち出しているだけなのだ。
さて、その制約はあったほうが良かったのか、解除したほうがよいのか、それが問題だ。
そんな相談は、たいてい持ち出すほうがたとえ得にはならなくても損しない話に決まってる。

日本人は、古来よりの「自由自在」的感覚で、自由を捉えてしまうが、西欧人が「自由がある。」と、言う場合、彼らが言っているのは日本的な自由ではなく、一定条件の範囲内で動くことを「自由」と言っているのだと、咄嗟に変換しないといけないのかもしれない。  
日本人は、柵の中を歩き回って、自分には柵の中を歩き回れる自由がある。とは捉えて来なかった。

またまた、某M教の話で申し訳ないのですが、
彼らはよく「人間には選択の自由がある。全ては選びの結果なのだ。」と、言います。
彼らばかりでなく、ちょっとしたニュース映像などにも亜米利加人が同じことを言っている場面がよく出てきますので、それが亜米利加人の平均的な考えかたなのかもしれません。
この「選択の自由」ですが、大抵の場合、二者択一の設定がなされていて、「AかBか」を選ぶ自由がある。というものです。
日本人的感覚だと、AかBかしか選べないのなら、そんなの自由に選んだ。とは言えないだろう。と思うのですが、彼らにとっては、それが「選択の自由」というものなんですね。

この場合「選べない」という束縛から解放されて、選べるのだから、freedom,liberty(自由)だということなのでしょうが、二者択一しかない、というのは、問題ですね。
二者択一を繰り返していると、問題設定者の意図するところへ、追い込まれてしまいますものね。

例えば
演説「正義は行使されるべきか、されないべきか」
聴衆「正義は行使されるべきだ!」
演説「亜米利加には正義はあるのか、ないのか」
聴衆「亜米利加には正義はある!」
演説「亜米利加の正義は行使されるべきか、されないべきか」
聴衆「亜米利加の正義は行使されるべきだ!」
  「さあ、今こそ亜米利加の正義を見せてやるのよ!」
  「今こそ、彼らの選びの結果を示してやるのだ!」
 イラク戦争前夜のニュース映像の一場面ですが、二者択一をうまく使ってますね。

タイトルRe: 「自由自在」と「選択の自由」
記事No1422
投稿日: 2012/03/12(Mon) 11:41:04
投稿者桃青
何ものにも捉われず思うがままにふるまって、しかもその振る舞いが、いちいち肝要をはずさない。
これが日本人がいだく自由自在のイメージではないだろうか。
思うがままにふるまうだけでは、「自由自在である。」とは言えないのである。

日本人の「自由」への理解は、どこか、この「自由自在」のイメージが含まれていたが、これからは、どうなのだろう。
コメンテーター氏が「「明治以前には、日本には自由という言葉は無く、自由などという概念も無かった。」
と、解説したように、自由といえば、西欧流の規制という柵の中を自由に歩き回る自由という概念が社会通念となって行くのだろうか。
「もっと自由を」とは、その柵をどれだけ広げて行くか、どのように柵を低くするかという話だけになって行くのだろうか。

日本人が、持っていた自由自在に遊ぶがごとくに振舞って、なお肝要なところで適切な対応をするというような自由の概念を失ってしまうのは、残念なことだと思う。

しかし、西欧が唱えた自由主義とは、本来ルールを決めて、その中で自由にやろう。という話なのだ。
という西欧流自由への理解は、自由主義を掲げて行動する者たちを見る場合、また自分が行動する場合も、持っていたほうがよい。
「自由主義を掲げられたら手も足も出せない。出せまい。」というものではないのだ。
西欧人や西欧かぶれの人々が「自由だ。」と言ったら、「どういう規制のもとでの自由なのですか。」と、問うてみようか・・・。

タイトルRe^2: 「自由自在」と「選択の自由」
記事No1423
投稿日: 2012/03/13(Tue) 00:19:59
投稿者ぽん州@漂泊
こんばんは。

大変考えさせられる問題提起ですね。もう少し考えさせてください。
「特権」というのは、「MAGNA CARTA」を念頭において発言しました。
英語版では、常にliberties です。 ラテン語版でのlibertatumですが
libertasと単数で使われるとき、英語版ではfreedomとなってたのかな。
あやふやですから、ちょっと待ってくださいね。著作権は「権利の束」ですが、
libertyも複数であったはずです。liberties and lawful rightという文言が
あったはずです。特権(の束)と明文化された権利 ですね。ある人いわく
libertyは既得権益だ そうですが、それに近いのではないでしょうか。
liberというのがラテン語の元ですね。束縛からの解放・自由。キリスト教においては、
例えば「libera me (libera nos), Domunis」とあるように、埋葬の前に
主よ我(我ら)を救い(解放)給えと、liberateの意味でしょう。<追加>主に解放を願っても、
常に神に隷属する存在なのではないかと感じます。</追加>
「freedom,liberty」の違いは、ラテン語にはlibertasしかなく、英国においては、
自国語のfreedomにローマカトリックがもたらす外来語?としてliber起源の述語が
併用された、あたかも<訂正>古代⇒中世</訂正>日本で、在来日本語と
漢文が
用いられただけでしょう。freeman(自由市民)なんってのも、ラテン語では
 libero homo のようにしか書きようがない。
ちょっと忙しくて乱雑曖昧不正確で申し訳ない。
日蓮聖人の自由観も簡単に書くと、自由自在を可としているわけではないと思います。
それは、二条(三条だっけ?)河原の<訂正>落手⇒落書</訂正>のように、放逸な行いであり、
日本達磨宗大日能忍批判のようにむしろ戒められたいる。自由自在なんて、仏の属性です。
<追加>それを目指しての菩薩行です。</追加>
先日、名古屋宗務所主催・東日本大震災一周忌法要の法音寺さんで行われたが、
法要後の講演で、身延山大学・池上要錆(?)教授は、スッタニパータとダンマパダから、
善き人(釈尊)の善き言葉(正法)は不死であり、それは妙法であり、
<訂正>自発的行為⇒自発的な仏道修行</訂正>としてお題目をお唱えする大事を
語られました。自灯明法灯明。日蓮聖人は<追加>身口意の</追加>三業に釈尊の金言・正法、
とくに末法において題目受持をいわれました。
ちょっと時間がなくて書きなぐりで申し訳ない。とりあえず、桃青さんのご意見、
読ませて頂いてます。考えるヒントをありがとう

南無妙法蓮華経

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^3: 「自由自在」と「選択の自由」
記事No1424
投稿日: 2012/03/13(Tue) 12:27:15
投稿者桃青
ぽん州さん

御指摘、御教示ありがとうございます。

自由、という言葉に込められた意味は多彩です。

それは、やはり「想念」を表現する言葉だからでしょうか。
各々が掴みとった「これが自由というものだ。」を疑うことなく、そして、相手も当然自分が掴みとったものと同じ意味で、自由を使っているに違いないとやりとりしている。
あるいは、自分の使いかたのほうが正しく、相手は自由の本当の意味を理解していない。と、思って、やりとりしている。

仏教は、そのことをちゃんと知っていますね。
すごい宗教だと思います。
頭から、こうだ、と呈示し、それ以外は絶対に認めない、という宗教ではない。
「これは絶対だ」と言いたてる人間を含めて、「人間とは」という卓越した観察の上に立っている。

私は「相手の言うことを理解して、その上で、双方の間にある問題解決を双方で図って行こうじゃないか。」
という姿勢が、仏教的な姿勢だと思っているのですが、
世の中には、相手の言い分を理解することは、相手の言い分に讃同すると同義だと、捉えているかたが結構多い。

またも某M教を引き合いに出して申しわけないのですが
某M教では「某M教の教えを理解すれば、誰でも某M教徒にならざるを得なくなる。」と、教えます。
某M教にあっては「某M教は(某M教が伝える神の言葉は)絶対善である。」というのが大前提ですから、そういう方向へ行くのでしょうが、
神とか、聖霊とか、厳かな宗教的な装飾をとり払ってみれば、「私は正しい。私の正しさを理解できないあなたは間違っている。」
と言っているだけです。
あなたの言い分を理解することと、あなたの言い分が正しいと認めるかどうかは、また別のことなのですけどね。
それは、某M教ばかりでなく「私の言い分の正しさを認められないのは、相手の理解力に問題があるか、相手の人格に問題があるからだ。」と、思っているひとは、珍しくない。
私も、時にふと思ったりします。
でも、そんな時「ああ、いかん。いかん。そうではないのだ。」と、思い直せるのは、仏教の教えを納得してるからですが、私もふと思うからこそ、ふと思ってしまうひとの言い分も理解できる。
なので、「私を理解し讃同しないのは、相手の理解力や人格に問題があるからだ。」という思いに拍車をかけるようなことを教える宗教は困ったもんだな、と思います。

元に戻って、「自由」ですが、相手がどのような概念で「自由」を使っているかを理解することは、問題解決にとても重要です。
だからといって、自分の概念を破棄して相手が使っている概念に右へならへ、する必要もない。
時には、相手の概念より、こちらの概念のほうが、大きく深いかもしれない。

私は、日本語が伝えて来た「自由自在」の自由が顧みられなくなり、明治に伝わった「自由」に一辺倒になってしまうのは、とても残念なことだなあ。と、思っています。

そして、理解することと、讃同することを同義と捉えて疑わないひとが、増えることを危惧しています。
記者会見でも多いですね。
「どうかご理解ください。」って、つまり、「こちらの言い分を正しいと認めろ!」や「ごめんちゃい。でも、起きたことは仕方ないから、チャラにしてね。」ですものね。

タイトルRe^3: 「自由自在」と「選択の自由」
記事No1425
投稿日: 2012/03/13(Tue) 19:01:21
投稿者桃青
> あやふやですから、ちょっと待ってくださいね。

お待ちしています。
libertyを英和辞典でひくと、簡単な辞書には「自由」しか載ってませんが、丁寧な辞書には「権利」という言葉も載っています。

> liberというのがラテン語の元ですね。束縛からの解放・自由。

特権というのは、ある規制をうけない権利ともいえますから・・・
例えば、「ここで商売してはいけない。」いう規制がある場所で、特別に許可されて商売できるのは、特権ですが、その場合、商売禁止という縛りから、開放されているということでしょう。

>キリスト教においては、
> 例えば「libera me (libera nos), Domunis」とあるように、埋葬の前に
> 主よ我(我ら)を救い(解放)給えと、liberateの意味でしょう。<追加>主に解放を願っても、
> 常に神に隷属する存在なのではないかと感じます。</追加>

キリスト教では、主に従う(隷属する)から(地獄から?)解放してください。
と、祈るのでしょう。
一種の契約ですね。
なので、従わないものには、救われる権利はないのです。
地獄から解放される(自由になる)とは、神に従うという契約と引き換えに与えられる特権なのです。
このあたり、ぽん州さんから御指摘がありました特権とすっきり整合しますね。

> 日蓮聖人の自由観も簡単に書くと、自由自在を可としているわけではないと思います。
> それは、二条(三条だっけ?)河原の<訂正>落手⇒落書</訂正>のように、放逸な行いであり、
> 日本達磨宗大日能忍批判のようにむしろ戒められたいる。自由自在なんて、仏の属性です。
> <追加>それを目指しての菩薩行です。</追加>

そうです。自由自在は仏の属性です。
仏の属性だからこそ、人は自由自在を願うのではないですか?
どんな問題にもツボを外さず思いのままに対応できるようになりたい。と、願うのではないですか。

自由自在の自由は、リンクや土俵をさだめてルールをつくり、ルールを逸脱しなければ、後は好きにしていい、という自由ではない。

自由自在という仏の属性を自由という言葉に込めた明治以前の日本語にも、自由という言葉を、放埓を捉えた用例も、解放と捉えた用例もあります。
また、libertyにも放縦という意味での使用があります。
このあたりは似ていますね。

私が残念に思うのは、コメンテーターが「自由という概念は明治以前の日本に無かった。」と、言いきっているように、「自由」という言葉を西欧の権利(束縛をうけない権利ですかね?)と結びついた概念で捉えることが主流となり、仏の属性としての自由自在の自由の概念が忘れられて行くことです。

タイトル権利という自由
記事No1427
投稿日: 2012/03/15(Thu) 11:16:59
投稿者桃青
補足ですが、「自由」を丁寧な国語辞書をひきますと、第一に「自在」をその意味とし、第二として、freedam、livertyを表記して、自由とは、何らかの束縛を前提として、そこからの解放を意味する。という説明が続きます。

コメンテーター氏が言っていたのは、後者の意味での「自由」でしょう。
しかし、世の中が、何かに対して権利があるとかないとかの議論ばかりされるようになって久しく、
いつか、第一の仏の属性に比されるような、
思いのままにツボを抑えて的確の対応ができる。という自由は、忘れ去られてしまうのではないか。
権利とか、権益とか、損だ得だという意識を離れたところに存在する、のびやかな自由を忘れてしまうのではないか。

現にコメンテーター氏は、「明治以前の日本には、自由という概念は無かった。」と、言いきり、うなずき係の芸能人たちは
「へー、そうなんだ。知らなかった。」と、感嘆していた。

明治以後の自由を考える例をあげてみたい。

よく言われるこんな言葉。
「誰にも○○を批判する権利はない。」
これは
「誰にも○○を批判する自由はない。」
と、同義である。

「批判する自由はない。」と言われると、言論の自由を持ちだして反論も可能であるが、「批判する権利はない。」と言われると、ちょっとたじろぐだろう。
が、「○○を批判してはならない。」という、束縛から解放された状態が、「○○を批判する権利を有している。」ということであるからして、「○○を批判することにおいて自由か、自由で無いか」
という話なのだ。
「○○を批判する権利はない。」と言われたら、「その権利は、どうすれば得られるのですか?」と、尋ねてみようか。

あることをする権利があるかないか、は約束事である。
約束事なら、契約である。
契約なら、何者かと何者かの間にとり交わすものであろう。
「誰にも○○を批判する権利はない。」と、言われたら、
「私はそのような契約を取り交わした覚えはないが、誰と誰がいつ契約したのですか?」
と、問うてみようか。

タイトルRe: 権利という自由
記事No1428
投稿日: 2012/03/16(Fri) 18:14:39
投稿者桃青
ぽん州さんから御教示いただいて、今まで、もやもやしていた部分がなんだか、すっきりとつながって来ました。
有難うございます。

話を少し戻して、考えてみよう。
「誰にでも選択の自由がある。」とは、すなわち「誰にでも選択する権利がある。」と、同義なのだ。
私は「選択の自由」や「選びの結果に責任を持つ」を某M教を学んではじめて知ったが、亜米利加発のニュース映像を気をつけて見ていると、ニュース映像に出て来る亜米利加人たちは、某M教徒でもなさそうなのに、実際にこの言葉を使ったり、あるいは「選択の自由」的、「選びの結果に責任を持つ」的発言をしているのを見ることがある。
そして怖いことに、「選びの結果に責任を持つ」は、不幸な事態に遭遇しているひとに向けて、「それはあなたの選びの結果なのだ。(私には関係ない。)」と、(ニュースの画面では)しばしば発せられているのだ。
誰でも人生に成功するほうを選択する権利を持っているのに、成功するほうを選択しなかった。
と言いたいのだろう。
「なんという単純な発想だ」、と、私や私の周囲のひとたちは言い言いするのだが、これまた怖いことに、日本にもそんな発想をするひとが増えてきているのではないかと思う。
ちなみに、日本政府内では、社会保険が破綻しそうだと、おぼろげに見えて来たころ「公的保険制度は縮小ないし、廃止して、亜米利加のように企業や個人が自己責任で保険に加入する制度を取り入れよう。」
と、真面目に論議されていたこともあるのだ。

日本人の意識が亜米利加ナイズされて来ていることが指摘されるようになって久しい。
私はオープンでフレンドリーな亜米利加人気質は結構好きだけれど、
「選択の自由」や「選びの結果」のオカシサに気付かない単純明快なメンタリティーのひとが、世間に増えるのは困ったことだと思っている。

タイトル権利は約束事
記事No1429
投稿日: 2012/03/17(Sat) 16:07:53
投稿者桃青
「私には○○する権利がある!」
こんな言いまわしをよく聞きます。

中には屁理屈みたいな権利を申し立てるひともおられます。
「私には、病気になる権利がある。余計な口出しは無用!」

嫌煙権があるのなら、タバコを吸って肺がんになる権利もあり
新幹線の車中で静かな時を過ごす権利があるのなら、子供を跳ねまわらせる権利もあるのだろう。
「静かにしなさい。」と、注意すれば、
「何の権利があって、うちの子供を叱るのだ。」と、キレる親には「親権」がある。
国民に知る権利、があるのなら、かたや外交機密を公表しない権利も同時にあるのだろう。

「私には○○する権利がある。」と主張するひとは、大抵
「○○する権利」というものが、それ自体存在し、それがまるで王権神授説のように、自分には、「○○する権利」なるものが生まれながらに、身に備わっている。と思っているものだ。
だが、忘れてはいけない権利というものは、約束事で生じるものである。

タイトルRe: 権利は約束事
記事No1430
投稿日: 2012/03/18(Sun) 00:39:22
投稿者ぽん州
こんばんは

そうなんですね。一方の自由は他方の自由を束縛する。
近世以前は、liberty(特権)は、自己の配下の民衆の自由を支配し束縛する自由です。神の計画なのでしょうか。

タイトルRe^2: 権利は約束事
記事No1431
投稿日: 2012/03/19(Mon) 11:56:06
投稿者桃青
> そうなんですね。一方の自由は他方の自由を束縛する。

そうなんですよねー。
でもって、それぞれ「自分のほうには、そう主張する道理がある。」
としか思えない。
なぜそうとしか思えないかと言えば、それぞれ、そうとしか思えない根拠があるものなんですね。

解決するには、「それぞれそうとしか思えない根拠はある。」ということに眼を開いて、より大きな視点で問題解決を図っていければよいのですが、
まず、「それぞれ道理は自分のほうにあると、しか思えない根拠を持っている。」ということを理解するのが、とっても難しい。
私も、ある個人的なことに関して、上記のようなことをどんなに説明されても、どうしても納得できなかった経験があります。
頭では、それぞれそう思う根拠はある、と理解しても、
「でも、私の道理のほうが正しい。」(笑)

その後、仏教を学んでいるうちに、何がきっかけというでもなく、ある時
「ああ。本当に、皆それぞれ、そう思うには思うだけの根拠があるのだなあ。それが、いいとか悪いとかではなく、人間とはそういうものなのだなあ。」
と、ぱっと眼が開いた。
実際に問題に直面していたときに、眼が開いていたら、もう少しましな結果になっていたかもしれないのに、と、悔やまれるのですよ。

個人的な問題でもそうなのですから、集団と集団となるとなお難しいのでしょうね。

> 近世以前は、liberty(特権)は、自己の配下の民衆の自由を支配し束縛する自由です。神の計画なのでしょうか。

「観」ですから、「神の計画」だと、しか思えないひとには、全てが「神の計画」なんじゃないですか?

タイトルRe^2: 権利は約束事
記事No1433
投稿日: 2012/03/19(Mon) 17:13:10
投稿者桃青
> そうなんですね。一方の自由は他方の自由を束縛する。
> 近世以前は、liberty(特権)は、自己の配下の民衆の自由を支配し束縛する自由です。神の計画なのでしょうか。

近世以前て、教会のことですか?
王権神授説って結構近世ですね。

神の計画としておいたほうが、特権をもっているほうには、都合がよいのでしょうね。

タイトルRe^3: 権利は約束事
記事No1434
投稿日: 2012/03/19(Mon) 23:40:21
投稿者ぽん州
> > そうなんですね。一方の自由は他方の自由を束縛する。
> > 近世以前は、liberty(特権)は、自己の配下の民衆の自由を支配し束縛する自由です。神の計画なのでしょうか。
>
> 近世以前て、教会のことですか?
> 王権神授説って結構近世ですね。
>

ヨーロッパ中世において、王権神授説の登場をまたないでも社会がいわゆる「天蓋としての宗教」として神授説があるのではないかという意味です。

> 神の計画としておいたほうが、特権をもっているほうには、都合がよいのでしょうね。

特権の由来として、神授説・神の計画が都合がよかったのかなと思うんです。既得権益は神の意志で我らに権利があるということじゃないでしょうか。

合衆国憲法の前文にある
secure the blessings of liberty to ourselves
われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって(駐日アメリカ大使館訳)

恵沢とは、市民革命の歴史を経てもたらされた自由で、マグナ・カルタで数えられる雑多な権益としてのlibertiesから、数えられない普遍的な単数名詞libertyに変わっている。まあ普遍的については、議論があるわけで、今日世界において、積極的であれ消極的であれ自由の根底に神授、(飛躍するけど)選民のおごりがあるから永劫に争いは収まらないのかなあなんて思うわけです。
一方において、自由の維持に疲れて、隷従への希求もあります。エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ですね。実に私は、この点に関心があります。

タイトルRe^4: 権利は約束事
記事No1435
投稿日: 2012/03/20(Tue) 01:30:24
投稿者ぽん州
ちょっと追加です。
 マグナ・カルタや合衆国憲法、日本国憲法は英米法であり、権力を拘束するものですね。その権威は人民に由来するのですが、その人民が選民思想の天蓋に覆われているなら、さらに支配する欲望に神の権威を捨てきれないならということです。

タイトルRe^5: 権利は約束事
記事No1438
投稿日: 2012/03/21(Wed) 19:00:51
投稿者桃青
> ちょっと追加です。
>  マグナ・カルタや合衆国憲法、日本国憲法は英米法であり、権力を拘束するものですね。その権威は人民に由来するのですが、その人民が選民思想の天蓋に覆われているなら、さらに支配する欲望に神の権威を捨てきれないならということです。

神の権威を捨てきれないというより、そもそも欧米の権利(自由)というものが、
神の概念を離れては説明できないものだからじゃないのですか?

例えば、「権威は人民にある」というのも、
まず神は全権威をもっていて、そのうちのある限定的な権威が人民に(神から与えられて)ある。という考え方なのではないでしょうか?

よく「日本人が理解するところの民主化と欧米人が言うところの民主化には、違がある。」という声を聞きますが、これも
日本人には、全権能を持つ神を立てて、人間は神の権能の部分に預かる、つまり○○する権利を持つ。(=自由に○○できる。)
というような「観」の伝統がないからなのかな、と思うのですが・・・。

>支配する欲望

自由とは○○する権利で、欧米の思想では「自由(権利)は勝ち取るもの。」ということになっている。
ひいては、勝ち取った自由(権利)でなければ、ホンモノではない。
日本の民衆は、自由(権利)を何者かから奪い取ったという経験がないので、本当の自由とはどんなものか、民主主義とはどんなものかを知らない。と、西欧人も言えば、日本人の識者も言う。
ほんとかいな。
と、思う。
民主主義だ、自己責任の自由競争が本当の民主主義社会を生みだすのだとか言っているうちに、あっという間に支配する欲望の統御がとれなくなって、右往左往している西欧を見れば、本当の自由も、民主主義も知らないのは、西欧も同じじゃないか、と思う。


>選民思想

では、神の権能は誰々に与られたのか。
「もっちろーん、それを言い出した言い出しっぺの私と私たちです。言いだした私たち以上に、神の権能について知っている者はいない。よって、私たち以外に神の権能(自由、権利)を使いこなせる者はいない。」
という思想。

タイトル選民思想
記事No1439
投稿日: 2012/03/22(Thu) 10:48:47
投稿者桃青
選民思想て、不思議ですね。

選民と言われる人々は、周囲から「あなたはどこから見ても我々を導くのにふさわしい選民です。どうか我々を導いてください。」と言われるから、選民なのではない。

なのに、周囲の者に向かって
「者ども、よく聞け!我々は選民だ。神は人々を導くために我々をお選びになったのだ。我々に従わなくてはいけないのだ。」などと言っている。
口に出して言わないまでも、なんとなく頭から「主導権を取るのは、いつでもどこでも当然私。」と、思っているようなところがある。

タイトルRe^4: 権利は約束事
記事No1437
投稿日: 2012/03/21(Wed) 17:06:06
投稿者桃青
>
> ヨーロッパ中世において、王権神授説の登場をまたないでも社会がいわゆる「天蓋としての宗教」として神授説があるのではないかという意味です。
>

なるほど。
どうも欧米の「権利」や「自由」の概念は、常に(キリスト教の?)「神」の権威とワンセットで、「神」を離れての「権利」や「自由」の概念は存在しないようですね。

>
> 特権の由来として、神授説・神の計画が都合がよかったのかなと思うんです。既得権益は神の意志で我らに権利があるということじゃないでしょうか。
>

「今、此処に、このようにある。」のは、何故なのか。
「今、此処に、このようにある。」のには、どのような意味があるのか。
という命題に、各宗教はそれぞれ答えを持っているわけですが、
答えが「神の意志による。」「神の計画による。」というものならば、既得権益を持っているも持たないも「神の意志によって(神の計画の中で)既得権益を持っている。」「神の意志によって(神の計画の中で)持っていない。」と納得するのでしょう。


> 合衆国憲法の前文にある
> secure the blessings of liberty to ourselves
> われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって(駐日アメリカ大使館訳)
>
> 恵沢とは、市民革命の歴史を経てもたらされた自由で、マグナ・カルタで数えられる雑多な権益としてのlibertiesから、数えられない普遍的な単数名詞libertyに変わっている。

合衆国憲法の前文が言ってることは「我々は、亜米利加の国益を守るためにがんばるぞ。」ですね。
これは亜米利加ばかりでなく、他の国々でも憲法や憲法に代わるものがあるところは、皆、はっきりと「我が国の国益を守るためにがんばるぞ」です。
昔、かたっぱしから各国の憲法前文を調べたことがありますが、
世界中の国の憲法を調べたわけではないので、断定はできませんが「世界平和のために」などといっている憲法は、日本以外にあったとしてもごく少数派なのではないでしょうか?
それだけ日本の意識レベルは既に高いのだ、と思いたいですが、「国益のためにがんばるぞ」という国々から見れば、理解しがたい変な憲法なのでしょうね。

>まあ普遍的については、議論があるわけで、今日世界において、積極的であれ消極的であれ自由の根底に神授、(飛躍するけど)選民のおごりがあるから永劫に争いは収まらないのかなあなんて思うわけです。

それぞれの国が、「国益のためにがんばるぞ。」既得権益と既得権益のぶつかり合いだからじゃないですか。
頑張る道理は、それぞれがしっかり持っているのだろうし。

> 一方において、自由の維持に疲れて、隷従への希求もあります。

そーなんですよねー。
冷静に考えれば、「自己責任で」と言われて、権利(自由)が束になって、数え切れなくなって普通名詞になっちゃったような「権利」を全部「自己責任」で、やろうとしたらスーパーマンにでもなるしかないって、わかりそうなものなのにね。

>エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ですね。実に私は、この点に関心があります。

スーパーマンになろうとして疲れてしまったり、自分で責任とるのが怖くてたまらなくなって、頭を誰かに預けたくなるのでしょうか?

タイトル「自由からの逃走」
記事No1440
投稿日: 2012/03/24(Sat) 12:07:55
投稿者桃青
> >エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ですね。実に私は、この点に関心があります。
>
> スーパーマンになろうとして疲れてしまったり、自分で責任とるのが怖くてたまらなくなって、頭を誰かに預けたくなるのでしょうか?

某M教は様々な指摘をもってカルトだ、と批判されることもあるのですが、擁護する側から批判に対しての反論、あるいは啓示宗教の存在意義への説明として、このフロムの「自由からの逃走」が、使われることもあります。
ぽん州さんも言われたように、「自由に疲れて隷属を求める。」ですね。

フロムは啓示宗教が自身の立場を擁護するために「自由からの逃走」を使うとは想定していなかったでしょうが、「誰かに頭を預けて楽になりたい。」という誘惑は、いつでも誰にでもふと湧いて来る可能性があるのではないかと思う。

しかし、自由に疲れるて、ねー。
仏や菩薩の「煩悩の林を遊ぶがごとく」という自由の世界。
人間も自由になれば、自由自在に問題に対処できるようになるという自由とは違うな。

タイトルRe: 「自由からの逃走」
記事No1441
投稿日: 2012/03/25(Sun) 22:28:34
投稿者ぽん州
こんばんは。 年度末の整理と新年度の準備。皆さんお忙しいでしょうね。体調にご留意ください。

> 某M教は様々な指摘をもってカルトだ、と批判されることもあるのですが、擁護する側から批判に対しての反論、あるいは啓示宗教の存在意義への説明として、このフロムの「自由からの逃走」が、使われることもあります。

某M教について詳しくはないのですが、某M教の権威主義と隷属する信者との関係は、まさしくフロムの「自由からの逃走」なのだと思いますが。。。<追加>だから、擁護する側の批判に対しての反論に使われるとしたら、何でなの? という心持です</追加>

>
> フロムは啓示宗教が自身の立場を擁護するために「自由からの逃走」を使うとは想定していなかったでしょうが、「誰かに頭を預けて楽になりたい。」という誘惑は、いつでも誰にでもふと湧いて来る可能性があるのではないかと思う。
>

確かに啓示宗教は絶対権威と絶対奴隷の繋がりを是とするわけですが、それは誰かに頭を預けて楽になりたいだけでなく、支配する者の欲求と、隷従する者の悦びなのだ、サディズムとマゾヒズムの関係もあるということですね。フロムの観察は。

【 投稿者により修正されました。】

タイトルRe^2: 「自由からの逃走」
記事No1442
投稿日: 2012/03/26(Mon) 12:10:44
投稿者桃青
>
> 某M教について詳しくはないのですが、某M教の権威主義と隷属する信者との関係は、まさしくフロムの「自由からの逃走」なのだと思いますが。。。<追加>だから、擁護する側の批判に対しての反論に使われるとしたら、何でなの? という心持です</追加>
>

我田引水、擁護のための一種の詭弁なのですが、ふっとひっかかってしまうひともいるかもしれません。
どのようなものか、書いてみます。

*人間、選択枝が多いと迷うばかりで選べない。選択枝が少ないほうが選びやすい。
 例えば、商品でも、種類が多いと迷ってしまって結局何も買わずに帰るお客も出てくるが、そういうお客でも商品の数を少なくすると選択しやすくなって購入する。
 (と、彼らはテレビ番組等でよく見かける心理実験?を例にあげ)
 そのように、人間選択肢が増える、つまり自由度が増すということは、迷いが生じ、人間に混乱をもたらす。
これは「自由からの逃走」を書いたフロムも、言っていることです。

ならば、目標に到達する最善の方法を最初から「これはこうなのだ。こうすべきなのだ。これしかないのだ。」と、示したほうが、そして示されたらそれに従ったほうが、早く目標を達成できるのではないか。
ごたごた言ってる間に、事態はどんどん悪化する。
皆にやらせようとしていることは、善いことには間違いないのだから、頭からばーん!と「こうしろ!」と指示したほうが良い結果を生むのだ。
みんな、幸福になりたいのでしょ?
幸福になるために生きているんでしょ?
だったら、初めから幸福になるための最善の方法を教えてもらって、その通りにしたほうがよいと、思うでしょう?
フロムも人間に幸福をもたらすのは、勤勉な生活、倫理的な生活だと言っています。
これは某M教会の言っていることと全く同じです。
某M教の正しさは、フロムによっても証明されています。
(え?!え?!はぁ?なのですけど??)






フロムはファシズムに陥って行く人間、を念頭に「自由からの逃走」を書いているようですが、私は、某M教のかたがたを傍から見て来てつくづく思うのですが、ファシズムの信奉者自身は自分は倫理的、人道的な生き方をしていると思っていたのだろうし、ファシズムによって倫理的人道的な世界が実現すると心から信じてもいたのではないでしょうか??

  
>
> 確かに啓示宗教は絶対権威と絶対奴隷の繋がりを是とするわけですが、それは誰かに頭を預けて楽になりたいだけでなく、支配する者の欲求と、隷従する者の悦びなのだ、サディズムとマゾヒズムの関係もあるということですね。フロムの観察は。

どうかなあ。
支配するほうは支配欲を満たされれば満足なのでしょうが、支配されることが喜びだというかたは、まずいないのではないかなあ?
隷属することが悦びになっているかたはそうはいないのではないかと思いますが・・・。

某M教が「平教会員ばかりで運営」(実態は違いますが)
していることをウリにして、それに惹かれて入信されるかたもおられるわけですが、その背景には、既成の教会や寺院だと専門職と一般信者の関係は、どこまで行っても指導者と指導されるもの関係で、それが変わることはないけれど、平会員ばかりで、互いに指導しあうという建前のところでは、支配、被支配は、役割として交代制となるわけです。
また、支配する役割が回って来なくても、選民として世間に模範を示す立場であり、世間に対して優位であるという満足が与えられるわけですが、これも支配欲の満足の姿なのではないでしょうか?
同様に、ファシズム群の中にあっては、支配隷属の関係はあったとしても、群全体としては、支配者群になって被支配者群を作るわけですから、隷属する者もまた、隷属に悦びを見出すことで満足することに留まっているのではなく、支配者群の一員として被支配者を支配する欲を満足させている。
と、いう構図なのではないかと思いますが・・・。

もし、隷属に喜びを感じるとしたら、その背後にセクシャルなものがある場合だけのような気がしますが??
性愛の研究家にいわせると真性のサドは結構いるが、真性のマゾは殆どいない。そうです。

タイトルRe^3: 「自由からの逃走」
記事No1446
投稿日: 2012/03/29(Thu) 03:21:53
投稿者ぽん州
> *人間、選択枝が多いと迷うばかりで選べない。選択枝が少ないほうが選びやすい。
>  例えば、商品でも、種類が多いと迷ってしまって結局何も買わずに帰るお客も出てくるが、そういうお客でも商品の数を少なくすると選択しやすくなって購入する。
>  (と、彼らはテレビ番組等でよく見かける心理実験?を例にあげ)
>  そのように、人間選択肢が増える、つまり自由度が増すということは、迷いが生じ、人間に混乱をもたらす。
> これは「自由からの逃走」を書いたフロムも、言っていることです。
>
> ならば、目標に到達する最善の方法を最初から「これはこうなのだ。こうすべきなのだ。これしかないのだ。」と、示したほうが、そして示されたらそれに従ったほうが、早く目標を達成できるのではないか。
> ごたごた言ってる間に、事態はどんどん悪化する。
> 皆にやらせようとしていることは、善いことには間違いないのだから、頭からばーん!と「こうしろ!」と指示したほうが良い結果を生むのだ。
> みんな、幸福になりたいのでしょ?
> 幸福になるために生きているんでしょ?
> だったら、初めから幸福になるための最善の方法を教えてもらって、その通りにしたほうがよいと、思うでしょう?
> フロムも人間に幸福をもたらすのは、勤勉な生活、倫理的な生活だと言っています。
> これは某M教会の言っていることと全く同じです。
> 某M教の正しさは、フロムによっても証明されています。
> (え?!え?!はぁ?なのですけど??)
>

某M教では、神は絶対ではないのですね。つまり天人五衰の神ということですか。

> フロムはファシズムに陥って行く人間、を念頭に「自由からの逃走」を書いているようですが、私は、某M教のかたがたを傍から見て来てつくづく思うのですが、ファシズムの信奉者自身は自分は倫理的、人道的な生き方をしていると思っていたのだろうし、ファシズムによって倫理的人道的な世界が実現すると心から信じてもいたのではないでしょうか??
>

ファシズムに陥っていく というのではなく、能動的にファシズムを受け入れていく。そう飼育されてしまった絶対奴隷ゆえに。


> > 確かに啓示宗教は絶対権威と絶対奴隷の繋がりを是とするわけですが、それは誰かに頭を預けて楽になりたいだけでなく、支配する者の欲求と、隷従する者の悦びなのだ、サディズムとマゾヒズムの関係もあるということですね。フロムの観察は。
>
> どうかなあ。
> 支配するほうは支配欲を満たされれば満足なのでしょうが、支配されることが喜びだというかたは、まずいないのではないかなあ?
> 隷属することが悦びになっているかたはそうはいないのではないかと思いますが・・・。

ですからバイアスをかけて申し上げてるのですが 啓示宗教は、絶対権威に絶対的に隷従するのだと。


> 同様に、ファシズム群の中にあっては、支配隷属の関係はあったとしても、群全体としては、支配者群になって被支配者群を作るわけですから、隷属する者もまた、隷属に悦びを見出すことで満足することに留まっているのではなく、支配者群の一員として被支配者を支配する欲を満足させている。
> と、いう構図なのではないかと思いますが・・・。

そうですね。フロムのいう権威主義的パーソナリティー。上にへつらい下に傲岸不遜。

>
> もし、隷属に喜びを感じるとしたら、その背後にセクシャルなものがある場合だけのような気がしますが??

ザッヘル・マゾッホの名にちなんで精神科医クラフト・エービングが命名した時の定義は性的マゾヒズムといわれるものであり鞭や蝋燭や緊縛縄の世界でしょうが、今日では被虐的な傾向一般を言うでしょう。

> 性愛の研究家にいわせると真性のサドは結構いるが、真性のマゾは殆どいない。そうです。

性的嗜好を正常異常とするのが解らないと同じく、そして誰でも被虐的性向を有するという意味で、真性という言葉を理解できませんが、身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯は存在します。それは時として事故となるのであり、阿部定さんの猟奇事件もマゾヒストの愛人がお貞さんに騎乗位で性交することを望み、首を締めるように哀願した結果の事故ですよね。
また、自己犠牲・ヒロイズムが、性的マゾヒズムの基盤であるともいわれます。

タイトルRe^4: 「自由からの逃走」
記事No1447
投稿日: 2012/03/29(Thu) 12:08:44
投稿者桃青
>
> 某M教では、神は絶対ではないのですね。つまり天人五衰の神ということですか。
>

某M教でも神は絶対です。
某M教の神は一神ではなく多神。その前身は人間(男性)であり、地球上に生まれた人間(男性)も条件をクリアすれば神になれる。
という、キリスト教の神とは少々違う姿です。
また多神といいましても、八百万の神のように神様が寄り集まっているのではなく、神ひとりは一つの天地を支配する。という考え方です。
地球を支配する神も元はどこかの天地で、人間として生まれて修行して神になられた。この地球上の人間も神になったら、また新たな天地を支配して、キリストが生まれ・・・というように永遠に続く。
そのようにして出来た天地が無限にある。
というものですが、この地球に的を絞れば、神は御ひとかたですから、キリスト教と重なるということになります。
神と人間との間に超えられない壁を置くキリスト教と違って、某M教会は人間は自身の努力と神の恩寵とで神になれると説きます。
某M教会がキリスト教なのか、そうでないかという場合、日本では三位三体ばかりがクローズアップされますが、キリスト教との決定的な違いは、この「人間(男性)が絶対神になる。」という教義にあるのではないか、と思われます。

話を元へ戻しますと、
某M教では絶対の神と共に、絶対なのは「神権」です。
絶対の神が持つ、絶対の神の権能を、某M教会だけが神から与えられている。
神の権能を持つ唯一の教会ゆえに、某M教会は唯一真の教会である。
神の権能は、某教会の儀式によって、神権者から人間(男性)に賦与される。
神の権能を賦与された人間(男性)は、神権者となる。

神の権能などといいますと、何やら神々しいですが、「権」は権力、の権、特権の権、既得権益の権ですから、
私には「神権」周囲の人間の様相は、他の「権力」周囲の人間の様相と良く似てるように見えます。
ぽん州さんがいわれるファシズムと人間、権威主義と人間を考えるサンプルモデルと言っては教会員の方々に失礼だとは思うのですが、つい、ね。

> ファシズムに陥っていく というのではなく、能動的にファシズムを受け入れていく。そう飼育されてしまった絶対奴隷ゆえに。
>

これまた某M教を例にとれば、彼らは呈示された二者択一のレトリックにひっかかったり、もともと持っていた願望を宣教師などからうまく突かれたりして、能動的に自ら進んで某M教会員になって行くわけです。
まともな大人なら「なんでこんな見え透いた二者択一の論理にひっかかるの?」という二者択一の論理にはまってしまうのは、「善でありたい。」という願望があるからなのだろうな、と思うのですね。
「善でありたい。」「幸福でありたい。」「善な社会を作りたい。」「幸福な社会をつくりたい。」と言う願望故に、「神権」を絶対と看做すようになって行く。
本人たちは節目、曲がり目に「能動的」に「善いほう」「良いほう」を選んでいるはずなのに、いつの間にか、教会によって支配されているのです。
それを「陥って行く」と、私は表現しました。

「善いことをしたい。」「善い人間になりたい。」と願って、善いと信じることを一生懸命していたはずなのに、いつの間にか、とんでもないものの手先になっていた。
という状況は、ファシズムや権威主義を能動的に受け入れて行くひとにも見られたのではないかと思うのですが??

> ですからバイアスをかけて申し上げてるのですが 啓示宗教は、絶対権威に絶対的に隷従するのだと。
>
>

確かに「啓示」「神権」には、絶対の隷従を要求されるようですが、
実態は、「面従腹背」か、隷従しているように見えても、その実は自分に都合のよいように「神」や「神権」を振り回して、周囲を支配しようとする者多数。
それが啓示宗教の現実の姿です。
教会内で、何かに隷属することに悦びを感じているのは、神権者である夫に従う若い新妻くらいですよー。たぶん。
新妻はすぐに、夫に隷属することに飽きてしまって、夫の支配をたくらむようになりますから、ね。


>
> そうですね。フロムのいう権威主義的パーソナリティー。上にへつらい下に傲岸不遜。
>

そうでしょう。そうでしょう。
上に隷属を余儀なくされるとその鬱憤を下へ向かって発散したくなるひとのほうが、隷属することに悦びを感じるひとより多数派でしょう。
だから身分制度社会でも、最下層の者たちは、その下に被差別層を作らずにはいられない。
もしくは、最下層の鬱憤を治めるために為政者が被差別層を置く。
人間、隷属することに悦びを抱く者は皆無ではないでしょうが、殆どの者は人を意のままに支配することは面白くても、隷属することに悦びを抱かないものだと思いますが??

> ザッヘル・マゾッホの名にちなんで精神科医クラフト・エービングが命名した時の定義は性的マゾヒズムといわれるものであり鞭や蝋燭や緊縛縄の世界でしょうが、今日では被虐的な傾向一般を言うでしょう。
>

もともとの性愛でも、真正のサディストは結構いるが、真正のマゾは殆どいない。というくらいですから、人間、被虐的な悦びを感じる者は、少数派なのではないか、と思ったのですが・・・。


> 性的嗜好を正常異常とするのが解らないと同じく、そして誰でも被虐的性向を有するという意味で、真性という言葉を理解できませんが、身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯は存在します。

性愛の研究者が言うには、「プレイではサドの希望者は多いけれど、マゾの希望者は少ない。
マゾを希望する者でも、サド側が本気で引っぱたけば怒りだすひとが殆どで、自ら望んで本気の苦痛や屈辱を求めるひとはごく少ない。」
そうです。
そう言われてみれば、人が本気で苦しむのを見て快感を覚えるというひとには、案外遭遇するのですよ。
私は、公開処刑制度がある国で、公開処刑に群衆が群がって屋台まで出ているのを見た時には、人間は他人が処刑されることを楽しむこともできるものなのだ。
と、カルチャーショックを受けましたが、「人が苦しむさまをみたい。」という欲望は、今日の先進国では表に出ることはありませんが、それでも、週刊誌やワイドショーの事件の取り上げ方には、その片鱗を見ることがあります。
私は、人間の殆どは支配する欲望を持っているが、隷属することに悦びを抱く者は少数派だろうと思います。
なのでファシズムも権威主義も実質的な支配者か、支配者になったつもりのひとばかりで構成されているのではないか、って思われてなりません。

>それは時として事故となるのであり、阿部定さんの猟奇事件もマゾヒストの愛人がお貞さんに騎乗位で性交することを望み、首を締めるように哀願した結果の事故ですよね。

二人だけの出来事で、片一方がなくなっているのですから、
真相は謎ですね。
阿部さんが供述された内容は、ある種の女心とはそういうものかもしれないな。
とよく理解できます。

> また、自己犠牲・ヒロイズムが、性的マゾヒズムの基盤であるともいわれます。

自己犠牲、ヒロイズムを性的マゾヒズムと捉えて、隷属する悦びと言われているのなら、納得です。

フロムがファシストや権威主義者に隷属の悦びを見たのだとすれば、
それは彼らに見たものは実はヒロイズムだったのではないか、と想像します。
一糸乱れぬ行進をして、支配者に忠誠を誓うことに悦びを感じているひとというものは、隷属する事自体が悦びではなく、自分は「大いなる秩序」を構成している一員であるとか、「大いなる秩序」を維持するためにはこの身を捧げても構わない。というようなヒロイズムに身をまかせることに昂揚しているのだと思います。
ひとは「大勢が一斉に」という雰囲気に魅了されやすい。
ナチスもやったでしょう?隣国二国も大人数のマスゲームや、同じ角度で頭を上げた人民代表や兵士で大きな会議場をイッパイにして、壇上綺羅星のごとく並んだ多数の指導者を並べるという演出をよくしてますね。。
某M教でも全く同じことをしてますよ。
橋下さんが、主宰する塾生2000人で大講堂をイッパイにしてみせたのもそれに近いかな?

ひとはそういう場に参加すると、参加していることに晴れがましさや誇らしさを感じるようで・・・。
でも、その晴れがましさや誇らしさは、どうみても支配に隷属する悦びとはちょっと違うように見えるのですけれど・・・。

タイトル隷属と自己犠牲
記事No1443
投稿日: 2012/03/27(Tue) 11:09:05
投稿者桃青
>
> 確かに啓示宗教は絶対権威と絶対奴隷の繋がりを是とするわけですが、それは誰かに頭を預けて楽になりたいだけでなく、支配する者の欲求と、隷従する者の悦びなのだ、サディズムとマゾヒズムの関係もあるということですね。フロムの観察は。

ファシズムや権威主義に流れて行く人間を全てサディズムやマゾヒズムで説明できるかと言えば、そうでもないのだろうな。
と、私は思いますが??

支配者がサディスティックである例はいくらでもありますが、
そういうサディスティックな支配者に隷属することに悦びを抱いている者が皆無とはいえないでしょうが、国家集団をつくるほどいるとは考えられない。
それに、どちらかと言えばサディスティックなだけの支配者は民衆から心からの支持は得られないのではないですか?

サディスティックな支配者に隷属してしまうことがあるとすれば、時にサディスティック、時にサディスティックさがウソのように蕩けるように優しい。
という態度に人間は翻弄されて、隷属して行くのではないでしょうか。
その場合でも、魅了されているのは、蕩けるような優しさの部分であって、サディスティックな部分ではない。

もうひとつ思うのは、隷属に悦んでいるように見える姿が、その実はヒロイックな自己犠牲に陶酔している姿なのではないか、です。

ひとは「義」と信じるもののために命も投げ出す。
こういう場合、そこに感情の興奮があるとしたら、隷属の悦びというより自己犠牲の陶酔なのではないでしょうか?
権威主義者は、己が信じる権威を「正義」と信じるがゆえに、自己犠牲的行動もいとわない。
権威主義を採る某M教会員の方々を拝見していると、「隷属している」ように見えても、
@どちらかと言えば、支配者へ隷属しているというよりは、「自分の信じる正義(権威)に殉じている」という自己陶酔的なヒロイズムを多々感じる。
そうしたヒロイズムを支配する側は上手く利用するのでしょうが・・・。
自己犠牲の陶酔は、まだ隷属の悦楽に似た分野なのかもしれませんが、以下のような「隷属している」もあります。

A自分より立場が上の者に対して隷属した姿を見せることによって、阿諛追従し、自分の立場をよくしようとしている。
B支配者に隷属することによって、自分は支配者と一体化したと錯覚して、周囲に権威を振りまわして、周囲を支配しようとする。

というように、権威主義で支配者に隷属しているとしても、サド、マゾの関係だけでは説明しきれない様相がある。

フロムは、「幸福は徳の証である」と、考えていたようですが、某M教もそのように言う。これも某M教オリジナルというよりは、キリスト教にある思想のようですね。
そう思うと、倫理的人道的に生きることを追求すれば、権威主義には、ならないてことでもなさそうです。

西欧の心理学者や臨床家には、仏教を学んで心理分析や臨床手法に応用したかたもおられますが、キリスト教を臨床に使うかたも多いのです。
フロムは思想的にはキリスト教を離れることは無かった(例えば、神や倫理を考える場合も、キリスト教とはまったく関係のないところでは考えなかった。という意味で)のかな?と思いましたが・・・。

タイトル権利でモノを考えるということ
記事No1432
投稿日: 2012/03/19(Mon) 17:08:10
投稿者桃青
10年くらい前、あるディナーショーでのこと。

同じテーブルに2歳くらいの男の子を連れた中国人の若い夫妻がいました。
当時は、今ほどチャイナマネーが云々とは言われていませんでしたが、夫妻が金持ちであることはわかりました。
演奏が始まるとその子供が、騒ぎ出した。
同じテーブルの御客も、他のテーブルの御客たちもチラチラ咎めるような眼で見る。
夫のほうはバツが悪そうな雰囲気なのですが、奥さまのほうはまるで意に介していない。
そのうちに宴会担当上司みたいなひとがテーブルに近づいて
外へ出るように丁寧に促している。
そこまでは、こういう場合によく見かける光景。
これまたよくあるように、母親である奥様が子供をつれて廊下にでも出て行くのかと見ていたら、この奥様は違っていた。
「この子は、子供料金を払って、此処に座っている。
 この子には、此処に座っている権利がある!」
と、血相変えて、大声で抗議しはじめた。
それに対し、係の上司は
「たしかに此処に座っている権利はあるが、それは大声を出して他のかたの演奏を静かに聞くという権利を損なっても良いということまで、含むものではない。」
というようなことを言った。
それで終わりかと思ったら、奥様も負けていない。
「そのようなことは、チケットのどこにも書かれていなかった。
 書かれていないのであるから、この子が外へ出される理由とはならない。」
と怒りの形相で担当者へ猛烈抗議。
はー、どうなるんだ?と、思ったら、夫さんが担当者と両隣の御客に詫びて、子供を抱き上げて外へ出て行かれた。
奥様は怒りが収まらないという感じであったが、夫さんが出ていっちゃったので、仕方ないという顔で一緒に出て行かれた。

さすが奥様は中国人だ、夫さんのほうは中国人だけれど、日本社会で仕事をしているからか、日本流に従っているのだな。
と、思ったものでしたが、最近どうも日本でも、この時の奥様のようなかたが、老若男女ともに増えたように感じます。

「一ポンドの肉だけ、血を流してはならぬ。」
と、ばかりに相手の言い分に空いた「穴」ばかり探している。
ディナーショーで言えば、権利でモノを考えれば、坐っている権利だとか、咳やくしゃみ、おならやゲップをする権利はあるのか無いのか、になるのだろうけれど、奏者と舞台係と、御客と、一体となって、空間と時間を共有し、素晴らしい空間、時間にして楽しもう、という意気を忘れてしまったような・・・。