タイトル | : 「自由自在」と「選択の自由」 |
記事No | : 1421 |
投稿日 | : 2012/03/10(Sat) 18:09:41 |
投稿者 | : 桃青 |
> こんにちは。 > > 「freedom,liberty」は、特権 のことですね。
そうですね。 日蓮聖人も使った「自由」は、何の制約もなく自分の意のままに振舞う。思うがままにする。 という意味合いが強いです。
freedom,libertyは、日本語でいえば「解放」の意味が強い。 始めに何か、束縛があって、そこから解放される、て、感じですね。 他の誰かは、束縛されているのに、自分だけはその束縛を受けていない。という場合、ぽん州さんがいわれる「特権」になるのでしょうか。
日本人が日本語として伝えて来た自由と、freedom,libertyを「自由」と訳して伝えるものの間には、微妙にずれがある。 日本人は、漠然と全ての束縛を離れることが自由だと捉えるが、 freedom,liberty(自由)は、束縛一つに対して、一つの自由があると捉える。
「自由に貿易しよう。」と言われると、日本人は、つい、制約なしに貿易することだ。と考えがちですが、向こうはそんなことは思ってなくて、いくつかの制約を定めた上で、貿易しようと言ってるだけなのだ。 今まであった制約の一つを解除すれば、その制約からは自由になるから、自由貿易だ。と、言いたいだけなのかもしれない。 日本人は、自由を古来からの「自由自在」で捉えるから、「自由になろう」と言われたら、「良いことだ。そうしなくては。」と思い勝ちですが、彼らは、「何か具体的な制約を廃止しよう、緩和しよう」と話を持ち出しているだけなのだ。 さて、その制約はあったほうが良かったのか、解除したほうがよいのか、それが問題だ。 そんな相談は、たいてい持ち出すほうがたとえ得にはならなくても損しない話に決まってる。
日本人は、古来よりの「自由自在」的感覚で、自由を捉えてしまうが、西欧人が「自由がある。」と、言う場合、彼らが言っているのは日本的な自由ではなく、一定条件の範囲内で動くことを「自由」と言っているのだと、咄嗟に変換しないといけないのかもしれない。 日本人は、柵の中を歩き回って、自分には柵の中を歩き回れる自由がある。とは捉えて来なかった。
またまた、某M教の話で申し訳ないのですが、 彼らはよく「人間には選択の自由がある。全ては選びの結果なのだ。」と、言います。 彼らばかりでなく、ちょっとしたニュース映像などにも亜米利加人が同じことを言っている場面がよく出てきますので、それが亜米利加人の平均的な考えかたなのかもしれません。 この「選択の自由」ですが、大抵の場合、二者択一の設定がなされていて、「AかBか」を選ぶ自由がある。というものです。 日本人的感覚だと、AかBかしか選べないのなら、そんなの自由に選んだ。とは言えないだろう。と思うのですが、彼らにとっては、それが「選択の自由」というものなんですね。
この場合「選べない」という束縛から解放されて、選べるのだから、freedom,liberty(自由)だということなのでしょうが、二者択一しかない、というのは、問題ですね。 二者択一を繰り返していると、問題設定者の意図するところへ、追い込まれてしまいますものね。
例えば 演説「正義は行使されるべきか、されないべきか」 聴衆「正義は行使されるべきだ!」 演説「亜米利加には正義はあるのか、ないのか」 聴衆「亜米利加には正義はある!」 演説「亜米利加の正義は行使されるべきか、されないべきか」 聴衆「亜米利加の正義は行使されるべきだ!」 「さあ、今こそ亜米利加の正義を見せてやるのよ!」 「今こそ、彼らの選びの結果を示してやるのだ!」 イラク戦争前夜のニュース映像の一場面ですが、二者択一をうまく使ってますね。
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