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タイトル「メランコリア」・・・平行する世界
記事No1444
投稿日: 2012/03/28(Wed) 10:20:52
投稿者桃青
「メランコリア」という映画がある。
観ていないのだが、映画評が気になって検索してみたら、
あらすじと共に、様々な感想がヒットした。
「意味不明で気持ちが悪いが、映像は魅力的だ。」
と、いうものから
「監督は鬱病で、鬱病者が見る世界を描いている。」
というものまで様々。

私は、この感想が的を射ているのではないかと、思う。

『メランコリア』あなたが立つのはどちら側?
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-307.html

ただ、気をつけたいのは紹介したブログの主は、正邪でこの平行する世界を捉えているが、
私は、それは間違いであると思う。
監督もまた、二つの世界を一般的な「正邪」では、とらえていないと思うのだが・・・。


自分と周囲との間には、どうしようもない断絶がある。という感覚。
と、言ってしまえば、
「そんな風に感じることは誰にでもあるよ。」と殆どのひとは思う。
私も思う。
が、その断絶感を・・・・うまく言えないけれど・・・・あなたや私、どちらかと言えば、こっち側に立っている者とは、一味もふた味も違う感覚をもって捉えている人々は確かにいるのだ。
その感覚の断片でも知りたいと思われるのなら、本人が鬱病であり、その鬱病感覚の映像にコアなファンがいるという監督のこの『メランコリア』を見ていただくと、少しは知ることができるかもしれない。
ただし「私は、絶対にこっち側のひとだ。向こう側のひとたちとは、全く違う人種のだ。」
という意識を持っている間は、監督が伝えたかった「平行な世界がある。」という感覚を捉えることはできないかもしれない。

映画のラストは、こちら側の世界と辻褄があっている作りになっているようなので、監督御自身は、あちらの世界に立っているだけのかたではなく、この二つの平行する世界を俯瞰して見ることができる知性の持ち主なのだろう。


フロムも孟子も「井戸に落ちんとする子供を見れば、誰でも思わず助ける。」というような、いわゆる「惻隠の情」が、人間の問題を解決して行くと考えていたようだが、そしてそれは結論的には確かにそうなのだろうな、と、思っているのだが、結論がそこに至るまでに、人間は時に「惻隠の情」が通用しない世界に立つこともあるのだ。ということ
(↑これは、間違えないで頂きたいのですが、鬱病だと惻隠の情を持たないということではなく)

人間は条件が揃えば、誰でも「惻隠の情」を離れた世界に立ってしまうこともあるのだということ、その世界に立ってしまった者と、こちら側の世界は平行しているということ、
それは、良いとか悪いとかでなく、こちらの世界が正で、あちらの世界が邪だというのでなく、ただ、そうなのだ、ということを言いたいのですが・・・。

「惻隠の情」などというものを、人間の問題解決の切り札として想定するのなら、「惻隠の情」もまた条件が揃って生じるものであるのだから、人間には時には「惻隠の情」が(たとえ井戸に落ちる子供を見たとしても)湧いてこないことがあっても不思議ではないということを熟知しておくべきではないだろうか?

タイトル彼方と此方、二つの世界があるのではない。
記事No1445
投稿日: 2012/03/28(Wed) 18:52:55
投稿者桃青
「あなたが立つのはどちら側?」
「平行する世界」という表現は、誤解を生みそうだ。

正確には、あちらとこちら、二つの世界があるのではない。

あなたもこなたも一つの世界に立っているのであるが、
二つの世界があるように感じてしまうひとがいる。

その感じ方が、あまりに現実味を帯びている故に、
「そうではない、一つの世界なのだ。」と言われても、
「いや、彼方と此方二つの世界は、ある!」としか思えないひとがいる。
「だって、幽霊を私は確かに見たのだもの!」と、同じく、そのひとにとっては、見たもの、感じたものが現実なのだ。
こういうかたを説得することは難しいように、此方側に立っていると感ているかたにしろ、彼方側に立っていると感じているにしろ、二つの世界を感じているひとに、世界はひとつなのだ、と納得させることは難しいだろうな、と思う。

この監督はどうなのだろう?
二つの世界があると思わせているのは、己に内在する何かであって、実際には一つの世界なのだ。と思っているのだろうか?
それとも、二つの世界は、確かにある。と思っているのだろうか?