記事No | : 1659 |
タイトル | : Re^2: 人間は自由意思を持つのか |
投稿日 | : 2012/09/25(Tue) 11:59:20 |
投稿者 | : 桃青 |
> 確かに、旧約聖書の創世記には、神がアダム(人間)を創って、その鼻から命の息を吹く入れたので、彼は人間となったという話があります。これは人間は神のイメージとして、神と同じような自由意志を持っていることの喩えの話でしょう。
> しかし話はそこで終わらず、アダムとその妻のエバは、その自由意志によって神の命令に背き、楽園を追放されたという話が続いています。
> つまり人間は自由意志を持っていることは確かで、
なるほど。
某M教の「そこで終わり」は、此処で終わりということなのですね。
しかし、その「自由意思」も、神が造って持たせてくれた(神由来)であるというのなら、神とは無関係に存在するものではない。
神とは無関係に存在し得ない(神の息がかかった)意思は、純粋に人間の自由意思と言えるのかどうか?
という問題がある。
某M教は、「自由意思があるっていうのだから、あるのだ。」
という宗教ですが、キリスト教の方々の中には、そのあたりのことを悩ましく思われる方々もおられて、結論が出ないままになっている。
と、いうことなのではないでしょうか?
また、「人間には自由意思がある。」で、終わりにしている某M教でも、時々
「戦争は無くならない。なぜなら神が人間を争うものとして造られたから。」
のように、まるで人間には自由意思が無いようなことも言いますので、彼らも実は「神と人間の自由意思は両立するのか。」に対して明確な答えを持っていないのでしょう。
>その自由意志によってあれやこれやの善いと思えることを選択し、善いことをしようと行動するわけです。
これが、もともとの「性善説」ですね。
>しかしその選択と行為が、究極的な基準から見て、必ずしも善い結果をもたらさず、むしろ常に悪い結果をもたらす、という問題があるわけです。
あるひとにとっては、善い結果でも、別のひとには悪い結果
という相対的な問題もありますものね。