記事No | : 1947 |
タイトル | : 同じ・・・。だと思いますが。 |
投稿日 | : 2013/03/14(Thu) 09:32:56 |
投稿者 | : 桃青 |
よくこんなような話がされます。
ある人が志望校の受験に失敗して、不本意な学校へ入学した。
その後いろいろあって。
現在は、「私って何て幸せなんだろう。」これ以上の生活は考えられない。
という幸福な生活(愛する家族、安定した仕事、など具体的ないろいろね。)を手に入れた。
もし、あの時に志望校に合格していたら、現在このような幸福は手にしていなかっただろう。
あの時、試験に落ちたのは、現在のこの幸福を手にするために、信仰を見つめなおすきっかけを与えてくださった仏の導きだったのだ。
仏を神や御霊に変えたら、某M教会員でもキリスト教徒でも
そっくり同じことを言うかたがおられます。
おそらく、天理教でも金光教でも、崇敬真光教でも同じような話をされるのではないか、と思います。
私は、このような話を聞くたびに、心の中で、むむむ、と思います。
そのかた、その時、志望校に合格していたら、また別のひとと知り合って、愛する家族を得たり、別の安定した職について、
「私って、何て幸せ。」と思うに至っていたかもしれない。
そして、日蓮宗ホームに生まれ育ったかたなら、その時はその時で、試験に合格したのも、良い伴侶を得たのも、安定した職に就けたのもひたすら仏様にお任せして御題目を唱えたからだ、という話をされるのでしょう。
右と左、逢魔が時の分かれ道。
ぼーん、と暮六つの鐘が鳴る。
右へ行っても、左へ行っても、たぶん、同じ人生。