記事No | : 2100 |
タイトル | : Re^3: 法華経は草木を仏となし給う |
投稿日 | : 2013/06/16(Sun) 13:05:17 |
投稿者 | : 桃青 |
> 汎神論云々に拘泥しないで、日本人として受容してるんではないかな。
日本人は、八百万の神々を観ずることに慣れているので、
「山川草木悉有仏性、って、草木にも仏が宿るってことなのよね。
山川草木、皆仏様なんだよね。
これって一神教に比べたら素晴らしくね?」
でおしまいにしてしまい、「仏性」というものを深く観じようとしないのは、残念だ。
と、言いたかったのですけれども・・・。
> で、草木を仏になし給う法華経が、母親を仏にしないわけがないなあ。
>
そうですね。
母も私も、皆さんも、仏になる可能性がある故に「いつかは仏に成る」ことを約束されているのですよね。
で、仮に仏に成ったら、皆さん、何をしたいですか?
仏に成ったら、認知症になって、介護するかたに大小便の世話をさせて、「これもあなたが仏になるための修行なのだから、臭いとか嫌だとか思わずに、もっとしっかり尻をふきなさい。」と、うんこだらけの尻とぐいっ!と、介護者の眼の前に突き出したいですか。
私は、たとえ仏になってもそんなことはしたくありません。
皆さんだってしたくはないでしょう。
そして、認知症になったかたは有り難い仏菩薩の化身なのだから、
「認知症の大小便垂れ流し、暴言、暴力、徘徊、妄想、異食、に付き合うのは大変だ。」
と、介護者が思うことはいけないことなのでしょうか?
認知症になれば、誰でも大小便を垂れ流すし、ひとによっては暴言暴力で介護者の心を萎えさせ、自らの妄想に苦しみ、徘徊、異食、等々、介護者の時間を消費するのです。
一日、24時間。要介護者に付き合って、日が暮れる。
「<私は何のために生きているのか。このひとのうんこの始末をするために生きているのか。このひとの奴隷なのか。>
というような思いが、ふっと浮かぶ。」
と言われるかたの気持が、私はすごく良く解る。
私もまた人生の終わりの何十年かを(以前は認知症は発症してから、5年くらいで寝たきりになり、7年くらいで死に至るといわれていましたが、現在は医療の発達により、15年、20年生存する例が増えて来ています。)
そのような状態で生きるのかと思うと、何ともいえない気持ちになる。
大小便垂れ流し、自らの糞便を口に運んだり、自分がそのようなことを言ったりしたりするとは思いもしないようなことを言ったりしたりしながら何十年も生きる自分を想像してみてください。
怖くなりませんか?
私は怖いです。
そのような苦しみを人間の「苦」を見つめるところからはじまったはずの仏教の指導者が
「あなたのお母さんは仏なのですよ。菩薩なのですよ。」
「親を施設に預けるなど、子供として、してはいけないことです。」
と、いう言葉で封じ込めにかかるのはどうなのだろう?
と思うし、「辛い。」という思いを無理やり封じ込めることと、「苦を滅する」ことは、違うはずだ。
と、言っているのですけれども・・・。
> 幼児期のマインドコントロールから解放されればいいのにね。
>
どのようなマインドコントロールから解放されたらよいのでしょうか?