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記事No : 2320
タイトル マグノリアの木
投稿日: 2014/01/08(Wed) 11:36:37
投稿者桃青

宮沢賢治の短編『マグノリアの木』

「霧がじめじめ降っていた。
 諒安(りょうあん)は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを渉って行きました。」

から始まる短い作品です。
中の一番心に残る一節。

「ああこんなけわしいひどいところを私は渡って来たのだな。
<中略>
そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思われたのです。」

母の介護は「平らな枯草の頂上」に来たようです。
2009年から此処まで、ほんとうに辛かった。
人間が人間でなくなって行くこと。
それをどう観たら良いのか、私はまだ答えを得ていないけれど、
誰に尋ねても求める答えは返ってこなかったけれど、
母の問題行動が治まったことで、平らな頂上にいるような気がしています。
その平らな頂上は、賢治が言うように「本当の平さ」ではない。
「本当の平さ」ではないけれど、振り返って山谷に咲くマグノリアの花を見る余裕はできました。
マグノリアの花は、歩いて来た山谷にこそ咲いていたのだ。と、見る余裕はできました。

しかし、暗い谷で、人間が人間でなくなって行く辛さ悲しさを仏教ではどう言ってますか?
中観ではなんと言ってますか?
と、問い掛けて何も答えが返って来なかった虚しさに私はまだマグノリアの花を見ていない。


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「ほんとうにここは平らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら云いました。その人は笑いました。

「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」

「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです。」

「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いています。」

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