水底の虜囚

 

   第二章・間奏曲

 




 扉が大きく開け放たれ、そこから駆け出してくる姿がある。
 彼は無我夢中で走っていたので、廊下の手前から歩いてくる人物に気づかず、思いっきりぶつかってしまった。
「あっ……」
 小さく叫び声を上げてリュミエールは手に持っていた竪琴を落とした。
 カタンと床に叩きつける音が廊下に響き渡る。  
「……ワリィ、オレ、急いでたから」
 ゼフェルはもごもごと詫びの言葉を口にする。  
「……」
 リュミエールは悲しそうに、ひび割れた竪琴を床から拾い上げた。  
「リュミエール、オレ……」
 謝ろうと口を開こうとしたゼフェルを遮ると、にっこりとリュミエールは笑う。
「いいのですよ、ゼフェル。気になさらないで………あら? あなた…泣いていたのですか?」
 赤い瞳の上の腫れた瞼に、リュミエールは目を留めた。  
「るっせーんだよ!」
 ゼフェルは怒ったようにリュミエールの手を振り払った。よろけるリュミエールにはっとなる。
「ゴメン、リュミエール。オレ今日はどうかしている。その竪琴、修理できんのかな? オレでよかったら…」
 ゼフェルの申し出に、リュミエールは悲しげにほほ笑んだ。  
「いいのです、もう寿命のようですから… 。それよりもわたくしでよかったら、お話しくらいはお聞きしますよ」
 そう言われて、ゼフェルは浅黒い顔を赤らめた。  
「いいんだ別に。あんたにわかるとは思えねえしな」
 バツが悪そうにニヤリと笑うと、ふふんっと嘲るように鼻で笑った。  
「じゃあな、オレは行くぜ。今日の埋め合わせはいずれするって事で勘弁してくれよな。それじゃ」  ゼフェルは現れた時と同じく走り去って行った。
 リュミエールはその後ろ姿を物憂げに見送っていた。  

「………お前も人が悪い」
 突然、背後ろから声をかけられてリュミエールはゆっくりと振り向いた。  
「クラヴィス様…いらしていたのですか…」
 穏やかな陽光の下に立っているクラヴィスは姿は、とても場違いに見える。  
「その竪琴は前々から壊れていたではないのか、……あの者は、自分のせいで壊れたと信じたみたいだ」
 クラヴィスはリュミエールの心の中を見透かすような視線を投げかける。  
「騙すだなんて……わたくしにはそんなつもりはありませんでした。どうやら誤解させてしまったようですね」
 リュミエールはクラヴィスの視線を正面から受け止めながら、そう答えた。  
「意地の悪いことを…」
 うっそりとそう言うと、クラヴィスは口の端を上げる。  
「わたくしは別にゼフェルの事は嫌いではありません」
 リュミエールは瞳に憂いを浮かべた。  
「ゼフェルが守護聖としての教育も受けず、いきなり家族や友人から引き離されて聖地にやってきた境遇は不幸だと思います。前鋼の守護聖との軋轢には同情もしました。……それでも、わたくしは彼が羨ましいのです」  
「………………」
 クラヴィスは沈黙し、思い詰めたような横顔を見つめる。  
「わたくしは物ごころついた頃から、次期守護聖としての教育を受けてきました。もちろん、故郷には愛情を注いでくれる家族と気のいい友人がいました。彼らとどれ程の素晴らしい時を過ごしたことでしょう。守護聖として長い年月を経てなお懐かしい思い出です。……ですがどこか違和感があったのです。わたくしと彼らの間には、どこか遠慮があった。抱く愛情には偽りはなかったのですが、彼らにはどうせいつかいなくなってしまうんだと、いう思いが心の奥底にあったのです。そしてわたくしにも。…彼は、ゼフェルは守護聖として呼び出されるまでは、皆の愛情を一身に受けてきたことは見ればわかります。突然引き離された悲しみをあらわにする彼に、わたくしにないその真っ正直さが羨ましくもあり、時には疎ましく思うのです。こんなことを言うのは間違っているのでしょうか……」  

「何が正しいのか、間違っているのかなど、誰にもわかりはせぬ」
 クラヴィスは重い口を開くと、竪琴に目を留めた。  
「壊れたものなど持ち歩いても、仕方あるまい……」
 リュミエールはそっと瞳を伏せた。  
「いいのです。弾けなくとも、持っていることに意味があるのです」  
「そうか…」
 クラヴィスは興味無さそうに身を翻した。  
(クラヴィス様は感がお鋭い…)
 闇と水のサクリアは性質がよく似ている。
 だから時には何もしていなくても互いに考えがわかり過ぎるきらいがある。
 リュミエールはこれが自分の考えなのか、クラヴィスの考えなのかわからなくなることさえある。  だが、この気持ちだけは彼に悟られないようにしなければと、リュミエールは堅く心に誓った。
 今の自分は何ひとつ持ってはいない。故郷から持ってきた竪琴さえ壊れてしまった。これで故郷との絆は断ち切れてしまったのた。
 だからこそ普遍で確かなものを彼は欲する。
 永遠が欲しいのだ。
 どんな時も陽光はあの人の上を照らし、変わらない。
 その永遠を彼は遂に手に入れたのだ。
 彼だけの秘密、だれにも教えない。



  

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