(C)TOSSインターネットランド /中学校/2年生/生徒指導/語り/
冨士谷晃正(TOSS中学/滋賀)
「死ね」と言い合いながら悪ふざけをする中学生。教室の床に落ちていた、「死」と書かれたノートの切れ端。「死」という言葉が、遊びの中の一つになっている現実を少しでも何とかしたいと思い、語った内容です。学級通信に書き、帰りの会で読み聞かせました。中学2年生の生徒はシーンと聞いてくれました。
言葉に対する、軽々しい言動
これまで多くの方の最期を見送ってきた。亡くなられた方の最期を見送ることもまた私の仕事だからだ。9歳で僧侶の籍を得た。以来25年を超えた。ざっと数えても100人以上の最期を看取ってきたことになる。だからだろうか?「死」というものに対して深く考えさせられることがある。
どの人の「死」に対しても、親類、友人、知人が集まり嘆き悲しむ。亡き人を前に、「ありがとうございました」と頭を下げる場面もあれば、「ごめんなさい」と懺悔(ざんげ)する人もいる。残された自分の生き方を亡き人に語りかける人もいる。
みんなの中にも、近親者(近い親戚の人)や身内に不幸のあった人がいたならば、わかるかもしれない。
私もまた、愛する家族を送り、自分もまた見送られるのだ。それは、どの人も避けることができない必然なのである。
人それぞれが人生を歩み、一生の勤めを終えて死んでいく。人の「死」というものは、決して軽んじられるものではない。その方が歩まれた人生に思いをめぐらせながら、みんなでその方の最期を見送るのだ。深い悲しみに包まれながらも、残された者は、亡くなられた方の「思いや願い」をしっかりと受け止め、精一杯生きぬいていく。人の「死」に出会うということはそういうことなのだ。
先日見つけた、ベランダのコンクリートへの落書き。「死」という言葉。教室の床に落ちていた、破られたノートに書かれた「死ね」という言葉。
いたるところで「死ね」と言い合い、ふざけあっている姿。
「死」という言葉に対しての軽々しい言動に、自分が今、この世に生きている、生かされているということすら感じていないのかと思ってしまう。
「死」という言葉を悪ふざけで使ってはいけませんよ。教育上、人権上、それはよくないことなのですよと言うこともできる。しかし、私は次のように言いたい。
「自分は関係ないと思っていませんか?あなたもまた、一生の勤めを終えて、いずれは死んでいくのですよ。そのことが真剣にわかっていますか?」「頭でわかるのではなく、腹でわかっていますか?」と。
人間は、生まれた瞬間から「死」へのカウントダウンが始まる」とどこかの本で読んだことがある。
その残された人生をいかに生きるのか?いかに生ききるのか?中学生は中学生なりに、大人は大人なりに考えていかなければならない。私もまた考えなければならないのだ。
中学生なりに自分の生き方を考えてほしいと思い、1学期、「岡田たかし君」の道徳授業を行った。覚えているだろうか?
たかし君は、命が危ないと言われていた時に、多くの仲間に励まされ、奇跡的に一命を取り留めた。そのことがきっかけで、「恩返しがしたい」といって、ボランティアを始める。「人の役に立つ」生き方をしていくのだ。様々なボランティアを行っていく中で、「人に何かをしようとするのではなく、生きていること自体が『人の役に立っているのだ』ということに気づく。「だからしっかりと生き抜くことだ」と言い切った。
小学生にもかかわらず、人生をいかに生きるのかを考えた一人の男の子からのメッセージであった。
人の「死」ということについて、早かれ遅かれ、みんなも出会っていくことと思う。そんな中で、ここに書いてあることのほんの少しはだんだんとわかっていくことだろう。
命の大切さはこれからもことあるごとにメッセージとして伝えていくつもりだ。
私は、いつも給食の時に「合掌」と声をかける。どれだけの人が手を合わせているのだろうか?そして、「いただきます」という。
「いただきます」とは何をいただくのか?それは、目の前にある料理をいただくこともある。しかし、それ以上に、「命」をいただくのだ。魚の命、野菜の命、ありとあらゆる命をいただいているのだ。そのことに対しての「いただきます」なのだ。
ある日、クラスの生徒が「魚をいらない」といった。その時に別の生徒が「何を言っているんだ、魚は俺たちに食べられるために命を落としているんだぞ」というようなやりとりがあった。
素晴らしいと思った。そのように言った生徒を私は思いっきりほめた。
これこそが、「死」への軽々しい言動とは対極にある大いなる命への目覚めなのである。
平成21年11月27日発行の学級通信より