一番恐ろしいのは機銃掃射


≪目次≫   お願い
 1. 戦時下の中学生 ここに書いてあるのは、昭和16年
 2. 日本本土初空襲 私が中学生になった時から、昭和
 3. 兵器製造工場へ動員 20年8月の敗戦の日までの私の
 4. 勤労動員生活 行動の記録です。家族達にも、ま
 5. 目撃した空中戦 だ誰にも話していない戦時下の体
 6. 東京大空襲の夜 験を、ぜひ聞いて頂きたいと思い
 7. 空襲から一夜明けて ここに記しました。
 8. 焼跡の惨状 長い文章で申しわけありません。
 9. 再び学徒勤労動員 読み辛いと思いますが、お暇な
10.敗戦の日まで 折りにでも、分けて読んで頂けれ
11.このページを終るにあたり ば、たいへん幸せです。






1.戦時下の中学生

  私は昭和16年(1941)4月、いまの墨田区にあった東京府立第七中学校に13歳で入学しました。その年の12月8日に日本はアメリカに対して宣戦を布告し、4年後の昭和20年(1945)8月15日に敗戦となったのは、皆さんもご承知のとおりです。
  その頃の私は、戦況にはあまり関心のない、毎日の身の回りの出来事だけに埋没しているごく平凡な中学生でした。開戦後半年もすると、戦況がどんどん悪化し始め、それと共に現実の生活にも変化が現れてきました。「贅沢は敵だ」とか「パーマネント廃止」などというポスターが町に氾濫し、必需物資はつぎつぎに配給制に変っていきました。学校でも通学時はカーキー色の制服に戦闘帽、それにゲートル巻きという戦時スタイルに変ったのはいいのですが、家が学校から4キロ以内の者は徒歩通学に決ったのには困りました。教室でも常に前から数えて2・3番目にいた小柄な私にとって、朝夕の4キロの道のりはかなりきついものです。学校までの距離が実際に計ると3.8キロぐらいなのですが、4キロ強にして、これだけは特に自転車通学に変えてもらいました。
  そして時間割通り毎日の授業を受けられたのは2年生までで、3年生からは道路の基礎普請などの勤労奉仕が始り、4年生からは通学ならぬ工場通勤となったのです。授業を受けられたのは勤労奉仕の頃は週1回、工場に動員されてからは月1回となりました。
  現在、JR新小岩駅から中川を渡って国道6号線を横切り、JR綾瀬駅に通じている「平和橋通り」がありますが、新小岩駅から平和橋までの間の道路の下には、私たちが「もっこ」を担いで運んだ砂利がいっぱい詰っています。
「もっこ」とは、 藁などで編んだ大きな風呂敷のようなものです。その四隅の部分に天秤棒を通して2人で担ぎ、砂利や農作物を入れて運ぶ昔の運搬具です。

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2.日本本土初空襲

  昭和17年4月18日、私は学校から帰宅して2階の自分の部屋にいました。突然、地面を揺るがすような「どどーん」という大音響がしたので、慌てて二階の屋根の上の物干台に登ると、北西の方角に茶色を帯びた黒煙が空中高く舞上がっているではありませんか。同じ荒川区内にある軍需工場の方角だとすぐ判りましたが、空襲警報は鳴っていなかったので爆撃か事故爆発かそのときは分りません。その後米軍による奇襲攻撃だと報道されましたが、私たちの住んでいる神国日本が、戦争とは言いながらまさか爆撃されるとは、まったく思いもよりませんでした。
  これを皮切りに昭和19年暮頃より本格的な空襲が始るのですが、それまでの約2年間はどちらかと言えば悠長な気分が漂っていたように思います。勿論、これは私だけの考えだと思っていますが・・・。

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3.兵器製造工場へ動員

  学徒勤労動員で働くようになった工場は大日本兵器株式会社と言います。名前の通り兵器である20ミリ機関砲の弾丸の部品を製造している会社で、火薬を充填し砲弾に仕上る作業はここではやっていませんでした。20ミリの弾とは当時の最新鋭の弾丸で、弾自体のなかに火薬が入っていて、命中すると爆発する非常に破壊力があるものです。完成品は長さ30センチメートル近くになる大きなもので、部品は弾頭、信管、薬莢の3個からなり、専門の工場でそれぞれ製造していました。
  弾頭
命中すると中の火薬が爆発して損害を与える砲弾の中心部分。鉄製で長さ約10センチ。太さの直径が20ミリなので、20ミリ機関砲の弾という。
  信管
真鍮(しんちゅう)製の挽物(ひきもの)で弾頭の先端に固定され、命中したとき弾頭の火薬を爆発させる装置。
  薬莢 (やっきょう)
弾頭を発射させるための火薬を詰める真鍮製の筒。信管と反対側の弾頭に固定され、銃砲の中で、底にある雷管の部分を打つと、火薬が爆発し弾頭が発射される。

    ≪ここに書いてあるすべての大きさは、私の古い記憶によるものなのでおよその寸法です。≫

  この工場は東京の下町、昔の吾嬬町だと思いますが、柳島方面より十間橋を渡った右手の、北十間川に面した一角にありました。現在の文化一丁目付近ではないかと思います。ここへ通うのに、かなり遠回りになりますが、常磐線三河島駅から上野駅へ、そこから浅草、押上を通る当時の路面電車に乗って終点の柳島まで、勤労動員学徒として約1年間この工場へ通う生活が続きました。

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4.勤労動員生活

  最初に配属されたのは信管工場でした。信管は真鍮の棒を削ったり刳りぬいたり、ネジ立てや穴をあける軽作業のせいか女性が多く、そのほとんどが福島県からきた女子挺身隊の若い女性で、真赤な日の丸の中を「神風」 と染抜いた鉢巻を頭に締め、きびきびした動作で働いているのが印象的でした。そして慣れぬ私たちを親切に指導してくれるのですが、初めて経験する女性だけの異様な雰囲気に私はすっかり圧倒されてしまい、オシャカ(使えない不良品)ばかり作って恥かしい思いをしました。暫くして配置転換になり、工場の隅にある材料係に回されたときはほっとすると同時に、心の片隅に小さな風穴が開いたような、今まで経験したことの無い気持にひたされたのも覚えています。
  大きな変化は夜勤制でした。確か夜8時から翌朝の6時までだと記憶していますが確かではありません。試験勉強でも徹夜したことがないのに、それが1週間交替で続くのです。最初は昼間眠ることができず、仕事をしていても眠くてたまりませんでしたが、16歳の若い体はすぐに慣れます。それより夜半の休憩時間に月明りを頼りに、「駆逐・水雷」という帽子を取りあうゲームというより運動に近い遊びに大勢の仲間たちと夢中になったり、また広場の草の上に寝転がり、下界の灯火管制で一層際立って見える満天の銀粉の上を、いくつもの流星が尾をひいて飛交う幻想的な夜空を飽かずに見入っていました。そして警戒警報の薄暗がりの中で渡す食堂の食券を、ペンで偽造して夜半の食事を2度食べるスリル。また昼勤から夜勤に移る1日の空きを利用して訪れた初冬の高尾山の静けさ、ケーブルカーの線路は供出のために撤去されて無くなり、その跡のコンクリートの橋脚の上を友人と2人で頂上まで歩いて登った記憶など。これらのことは戦争そのものの記憶と共に、いやそれ以上かもしれませんが、今でも私の脳裏に深く刻み込まれています。

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5.目撃した空中戦

  米軍の最新鋭爆撃機ボーイングB29の姿を私たちが東京の空に初めて見たのは、確か昭和18年の初冬の頃だったと思います。澄みきった青空のものすごい上空を、白い飛行機雲を一直線に曳きながら、特徴のある微かな爆音を残してゆっくり進んで行く銀色の小さな機影を、異様な思いで眺めていたのを記憶しています。今でこそ飛行機雲は子供達でも知っていますし、いつでも見ることができますが、当時はほとんどの人が始めて見る光景ではなかったでしょうか。私には美しいとさえ思われたそのB29は、後の東京爆撃に備えて10,000メートルの上空からそのとき写真撮影を行っていたのです。このようなB29による偵察飛行はそれからたびたびありました。B29が地上と75度の角度のとき爆弾を落すと、その飛行機がちょうど頭の真上に来たときに爆弾が地上に落下する、だから敵の飛行機の進行方向が自分の方を向いてないときは安全だ、などと角度を右手で示しながら説明をする人の話が納得できるほど、まだまだ悠長な気分が漂っていました。
  その後まもない頃だと思います。 当時の日米の航空技術の差は大きく開いていましたが、10,000メートルの上空を飛行している1機のB29に攻撃を加えている、米粒のような2機の日本の戦闘機との空中戦を目撃したことがあります。勿論、空襲警報下のことです。当時は空襲警報といっても1機か2機のB29の偵察飛行が多く、爆弾が落ちてくることもなく危険ではないので、誰もが首が痛くなるほど空を見上げていたものです。
  その時も白い飛行機雲を曳きながら直進しているB29めがけて、米粒のように小さく見える日本の戦闘機が接近しては攻撃し、また反転しては攻撃を繰返しています。しかしB29は進路も速度も変えず、ゆうゆうと飛んでいるのです。銃口からの閃光は見えず、音もぜんぜん聞えず、まるで無声映画でも見ているような、ほんとに手に汗を握る光景でした。B29からいつ煙が吹出すか、いつ墜落するかと誰もが息を呑んで待っていたはずです。
  その時です。米粒のうちの1機が突然急降下しはじめました。確か機体から煙は出ていなかったと思いますがよく覚えていません。ただ一直線に物凄い速さで落ちてくるのです。ほんの数秒間だったような気がします。みるみる機体は大きくなり、両翼の真赤な日の丸をくっきり見せたまま機影は屋根瓦の波の向うに消え、直後に真白な水煙が立ち昇るのをこの眼で見ました。
  その時は家から2・3キロしか離れていない荒川放水路に墜落したのが当然のように思っていましたが、よく考えるとどこへ墜落しても不思議ではないのに、よく町の中に落ちなかったものだと思わざるを得ません。その時、もし下町の密集した人家のなかに落ちていたら大惨事になっていたところです。おそらく操縦士は消えかかる意識の中で戦闘機を必死に操り、荒川放水路めがけて墜落して行ったのだと、私は確信しています。
この項の最初のボーイングB29は、最初ノースアメリカンB29と書きましたが、誤りと指摘を頂きましたので訂正しました。

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6.東京大空襲の夜

  B29による偵察飛行が途絶えて、やれやれと思う間もなく、爆弾と焼夷弾による東京空襲が、現実のものとして我々の前に姿を見せ始めました。昭和19年11月の台東区その他の地区の大規模な空襲を皮切りに、連日のように東京は空襲にさらされ、翌年3月10日未明の東京大空襲、そして広島、長崎の原爆投下と続き、敗戦への道を辿ることとなるのです。
  昭和20年に入った頃、私は工場の一番南の端にある北十間川に面した弾頭工場に配置換えになっていました。屋根の形が鋸の歯のように続いた大きな工場の中に、巾が4メートル以上もありそうな自動機が幾十台も並んでいます。すべての加工は自動なので、できあがった弾頭の寸法をゲージで検査することと、材料が終りに近くなったとき、3メートルほどの長い鉄の丸棒を機械にセットしてやることが私たちの主な仕事でした。
  そういう仕事についているうちにも、東京のあちこちは空襲にやられて焦土と変ってゆき、「一億玉砕」とか「本土決戦」などという標語が流行語のようになり、日本がどうなってしまうのか分らない不安に、誰もが戦のいている状況が続いていました。私の場合でいうと、今ごろ我々素人が作っている弾丸など果してこの戦争に間に合うのだろうか、といった単純な疑問は抱くことはあっても、今お国のために働いているのだという昂揚した気持などまったくありませんでした。
  昭和20年3月9日の夜はちょうど夜勤でした。2・3日前に降った雪が道路の隅に汚れて残ったままの北風の強い寒い夜で、私たちは学生用の外套をまとって出勤していました。警戒警報のサイレンが鳴ったのは9日の夜10時半頃だったと思います。いつものように工場のすぐ外側の北十間川にそった塀の傍らの防空壕に入り、ラジオから流れる東部軍管区情報に耳を傾けていました。「南方洋上ヨリ敵ラシキ数目標、本土ニ向ッテ接近シツツアリ」という最初の放送が始り、いつ敵機がやってくるのか緊張していましたが、房総半島に向って接近中とか、目下、房総半島の海岸付近にありなどと言うばかりで、いっこうに侵入してくる気配はありません。そういう放送が30分ほど続いたでしょうか、最後に「洋上ハルカニ遁走セリ」を繰返して終ったのですが、それから警戒警報が解除になり、たぶん仕事に戻ったのだと思います。
  物凄い爆音に気がついて工場から飛出したとき、墜落するのではないかと思うばかりの巨大なB29が、頭のすぐ上を幾台も並んで轟々と通過していました。視界一杯に広がったB29の編隊が、わたしの眼の底に焼ついているのですが、いまどうやってそれを表現したらいいか、もどかしさを覚えます。ありうべからざる異常な光景でした。地上からの探照燈の光りと、燃えている街の炎の明りに反射し、鉛色に浮び上がったB29の腹の弾倉の扉が開くと同時に、胡麻粒ほどの焼夷弾がぱらぱら落ちてくるのがはっきり見えるのです。それほどの低空でした。するとその方角の空がたちまち真赤に染まります。空襲警報のサイレンは鳴ったといいますが、私には聞えませんでした。B29の編隊は途切れることなく続いています。北十間川の向う側の本所、深川の空は既に真赤です。私たちは悪夢を見ているように茫然とそれらを眺めているだけでした。そのうち上空からひらりひらりと左右に舞いながら、私たちに向って落ちてくる大きな物体に気づきました。どこへ逃げても右往左往しても私たちに向ってきます。いざというときには防空壕の中に飛込むつもりで私は必死でそのものの行方を追っていました。幸い隣の北十間川に落ちましたが、それは日の丸のついた戦闘機の片翼でした。
  私のすぐ身の回りには落ちませんでしたが、そのうち工場にも焼夷弾が落下し始めました。高い天井から下がっている暗幕が真先に燃え出したので、これは皆で引落し足で踏んで消しましたが、機械の横で火炎を吹いている焼夷弾は1杯や2杯のバケツの水ではとうてい消えるものではありません。軍需工場のせいかいつのまにか消防自動車も来て消火に当っていました。次第に工場全体が炎に包まれるようになって私たちの手には負えなくなり、消防手たちがホースを巻き始めたのを見て、幾人かの友達と工場の裏門から外に出ました。そして夜空の黒い方、黒い方へとさまよいだしました。3月10日の午前2時頃だったと思います。
  後で分ったのですが、私たちはほんとに幸運だったとしか言いようがありません。工場の裏手に続く昔の吾嬬町界隈はまだ焼夷弾にやられてなかったので、炎を避けて避難する道が自然に通じていました。ところが工場の隣の北十間川の向こう側一帯から、東京湾までの今の墨田区、江東区のほとんどの全域で、丁度その時間、焼夷弾攻撃で逃場を失った多くの人々が、炎で焼かれ亡くなっている最中なのでした。焼夷弾でも直撃を受ければ頭でも肩でも吹飛んで即死です。そういう危険な目に遭わなかった私は幸運だったと同時に、焼夷弾の真の恐ろしさを知らないといえるかもしれません。
  とにかく道路という道路は避難する人々で真直ぐ歩けないほどごった返していました。ほとんどの人が大きな荷物を背負ったり手に下げたりしています。幼い子供と家具を満載したリヤカーが動けない状態で行悩んでいるのを見たとき、体一つが一番いいのにと感じたのですが、家を捨てて避難する人にとっては少しでも家財を持出したいのは当然かもしれません。吾嬬町界隈の狭い曲がりくねった道を迷いながらやっと明治通りに出ると、物凄い北風が吹荒れていました。体が前に倒れるほど前傾させて歩いても、押し戻されそうな強い風でした。もともと強かったその夜の北風が、火災による上昇気流で一層激しさを増したものでしょう。白髭橋方向へ体を折り曲げながら進むうち、風に混じって雨のような冷たい雫がほつぽつ顔に当りだしました。そんなに長い時間ではありませんでしたが、周囲の人の中に「ガソリンだ。アメ公のやつ、ガソリンを撒きやがった!」と叫んでいる男がいます。あまり臭いがしなかったので私は「まさか?」と思いながら、ほんとかもしれないと感じていました。
  誰もが家を捨てて命からがら逃げているのです。その無人の家屋に焼夷弾が落されれば、物凄い風に煽られてたちまち燃えあがります。そういう家屋を遠くから見つけて、風の方向を確めながら燃えているところを避け、右に曲ったり左に曲ったりしながら、ただ炎を避けて明治通りの周辺を長い時間さまよっていました。
  どこをどう歩いたのかまったく分かりません。気がついたときは堤通りの、墨田公園の入口に近い川添いの工場の事務所にいました。同級生10人ほどと一緒でした。あるいはもっと多かったかもしれません。先生も1人混じっていたような気がします。さまよっているうち同級生たちと出会い、先生にも会って、この無人の事務所に入ったのだと思います。あたりは静かになり、空襲は終っていました。窓越しに見える対岸の今戸の高射砲陣地から、ときどき発射される爆発音の「ドーン」という響きが、なにか空しい感じであたりの空気をふるわせています。薄汚れた顔の同級生たちは皆疲れきった表情で呆然としていました。私たちは黙りこくっていたわけではなく、体験のいくつかを喋りあったはずだと思うのですがまったく思い出せません。或いは一晩中さまよった疲れと、強烈な体験の後なので話すのも億劫になり、ほんとに沈黙していたのでしょうか。仮眠しながら私たちはここで夜の白らむのを待ちました。
3月10日未明の東京大空襲の夜、ガソリンらしい液体が撒かれたのは事実のようです。後の記録を読むと、避難する人々の中に臭いなどから間違いなくガソリンで、それもゼリー状だったと言う人が多くいるそうです。

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7.空襲から一夜明けて

  時間は何時ごろだったでしょうか、明るくなってから私たちは事務所から出ました。その後の打合せなどを済ませてからだと思いますがまったく覚えていません。当時の記憶は鮮明に残っている部分と、消えて無くなっている部分がはっきり分かれているので、状況を繋ぎ合わせながらいくら思い出そうとしても、どうしても記憶は戻ってこない個所があるのです。
  私の家は荒川区にあったので白髭橋を渡りました。しかし、事務所で一緒だった同級生からその後聞いた話では、浅草方面に家がある同級生が渡った一つ下流の言問橋は、橋の上全体が黒焦げになった死体と焼け爛れたリヤカーや荷車などで埋めつくされ、それを跨いだり横にずらしたりしないと通れなかったそうです。白髭橋はそのようなこともなく、明治通りを泪橋、三ノ輪を過ぎて、道路が1キロほど真直ぐに見通せる今の荒川警察署のある付近まで来て、我家に曲るあたりの家並が焼け残っているのが見えたときはほっとしました。しかしその先は焼けて跡形もなくまだ白い煙が上がっていました。そこまでの道筋で何箇所か焼けている町並がありましたが、明治通り添いのほとんどは焼け残っていたような気がします。ただ、今でも不思議に思うのですが、歩いて帰る途中ずっと人の姿に出会った記憶がないのです。無人の荒野を一人とぼとぼと歩いてきた感じだけが強く残っています。そんなことはないと思いますが、これも私の脳裏につぎつぎに入ってくる印象が強くて、その他は消えてしまったのかもしれません。
  家の前に通じる4・5メーター巾ほどの道路を曲り、途中クランク形にゆるやかにカーブしているところを通りすぎた途端、私は愕然としました。その先にあるはずの懐かしい家並は消えて、茫々とした無惨な焼跡が広がっているではありませんか。家の前の道路と直角に交差している道路を境にして、その先だけ綺麗に無くなっているのです。焼けた我家とはたった100メートルの距離しか離れていません。幼い頃からの私の宝物も一切合切灰になってしまいました。しかし一瞬見慣れぬ光景に動転したものの、当時としてはこれでやっと人並になったか、という程度の驚きしか感じなかったのを記憶しています。それほど被災している人々が周囲に多かったということでしょうし、それに私の一家はこの年の1月に茨城県土浦に疎開して、東京に残っていたのは私だけだったので、家族の安否を気遣う事も無かったのも影響しているのかもしれません。
  家族の疎開後は、町工場だった家に私一人が住んでいたわけでなく、留守番として父のすぐ下の弟の叔父一家が住み、父の従兄弟に当り既に家族を疎開させていたAさんと一緒に世話になっていました。おそるおそる我家とおぼしいあたりに近づくと、まだ硝煙の臭いがものすごい焼跡の一角から「焼けちゃったよぉ」という声と共に立ちあがったのは、戦闘帽の上から手拭で頬かぶりしたAさんでした。話によると昨夜同じ頃に焼夷弾に見舞われ、何発か消し止めたものの無人の工場まで手が回らず、そのうち炎に巻かれそうになったので逃げたということです。幼い子供を抱えた叔父一家も避難して全員無事でした。
  3月10日は叔父一家が避難している近くの小学校で、配給の乾パンで飢えをしのいだり、罹災証明書の発行を受けたりして、その夜は学校に泊ったのだと思います。

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8.焼跡の惨状

  炎に巻かれながらよく気が付いたと思いますが、Aさんは私の自転車も一緒に持出してくれました。幼いころからの思い出が沁みこんだいろいろな道具や本は一切灰になってしまい、これだけが私に残ったただ一つの財産となりました。その自転車に乗ってAさんと共に工場の様子を見にいったのは11日の午前のことです。
  走り始めてすぐ、焼けた我家から200メートルほど離れている常磐線のガードをくぐった時でした。いつもだったら見えるはずのない浅草の松屋デパートが、まず眼に飛込んできたのにはびっくりしました。屋上に近い階から白煙が上がり、見渡すかぎりの焼野原のかなたに松屋だけがぽつんと立っている異様な光景は、カメラのシャッターを切ったままのように今でも鮮明に脳裏に焼付いています。
  焼野原が続く三ノ輪から浅草に通じている道路まで来たとき、道路添いに大きな伽藍が一つだけ焼け残っていたのが印象的でした。あとで西徳寺という寺だと知ったのですが、見れば勾配の強い屋根の真中に焼夷弾の突きぬけた小さな穴がぽつんとあいています。そしてすぐ前の道路には路面電車の焼けた残骸があるというのに、あの強い風の中でよく類焼しなかったものだと思いました。焼夷弾の落ちる時間の差とか、風向きとか、消火活動が良かったとか、さまざまな条件が重なって焼けなかったのだろうとAさんと話したのを覚えています。
  浅草雷門のあたりから、あちこちに人の焼けた死体が目につくようになりました。まるでマネキン人形のような丸くて真黒な坊主頭が、手足を薪のようにこわばらせて道路際に無造作に転がっています。男女の性別はまったく分りません。防火用の水槽の中にしゃがんだような格好で座った人の上半身は焼け焦げているのに、下半身に衣服がまだ残っているのを見たとき、あまりの無惨さに二度と眼を向けることができませんでした。無惨というより頭の中が真白になった感じです。戦争の恐ろしさは当然のことながら、そのときの私は人間のはかなさに心を奪われていたような気がします。吾妻橋の下の隅田川には溺れて亡くなった人がまだ幾体も残っていました。蛙のように膨らんだ腹に大切なものを巻きつけたもんぺ姿の女性が仰向けになって、焼けた木材などと一緒に漂っています。それでも昨日はトラック何台もの水死体が収容されたということでした。
  押上駅に向っても同様な情景がえんえんと続いていました。工場は完全に焼け落ちていました。一昨夜どのあたりで仕事をしていたのかまったく見当もつきません。傍らの北十間川では、数人の人が長い竹竿の先につけた鳶口で水死した人を引揚げているところでした。それを見たとき、もし工場を逃出すのがもう少し遅れていたら、炎の熱さに耐えきれず私たちも隣の川に飛込んでいたかもしれないと思うとぞっとしました。そして消防手たちがホースを巻き始めるのにもし気がつかなかったら・・・、工場を脱出する前にもし吾嬬町一帯に先に焼夷弾が落ちていたら・・・と考えてくると、人の生死を分けるきっかけはどこにあるのかまったくわからないと思いました。
  3月9日から10日未明にかけての空襲で、約8万人の方が亡くなり、東京の下町の大部分が焦土と化しました。そして東京の焼け残った町や、主要な地方都市にたいする空襲も4月になるとますます激しさを増してきたのです。

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9.再び学徒勤労動員

  3月10日の東京大空襲の後、どうやって過していたか詳しいことはよく覚えていません。当時は短期間にめまぐるしく環境が変っていたので思い出せなかったり、記憶が繋がらないことがたくさんあるので、確実なところだけ書いていきたいと思います。私たちは第七中学校を4年生で強制的に卒業させられ、学校も3月10日に焼けたので卒業式もなく、同じ荒川区内の尾久にある父の友人の家に同居させてもらいながら、神田にある電機高等専門学校へ通い始めていました。しかしそれも束のまのことで、4月13日夜の空襲で城北から都心にかけての焼けていないところがほとんど灰燼に帰し、その夜私は再び炎に追われながら愛用の自転車と共に尾久駅の裏手に広がっている操車場に避難しました。そして翌日この自転車に乗って茨城県土浦に疎開していた家族のもとに帰ったのですが、この6号線を走った4時間の行程のあいだ、いまでは想像もつかないことですが、1台も自動車に会わなかったのがちょっと異様な経験だったのでよく記憶しています。
  この頃第七中学校から召集がかかり、上級学校に進学した者もしなかった者も、それまでの中学校の指示にしたがって再び勤労動員されることとなり、私たち全員はそれまでの大日本兵器株式会社の疎開工場である、神奈川県瀬谷の薬莢工場へ配属となりました。今の相模鉄道瀬谷駅の付近ではないかと思います。そこは相模原台地の松林の中の一角に建てられた木造の工場や寮で、全体にこじんまりとしているので、遠くから見ると一般の住宅がたち並んでいるような感じでした。それまでの下町にあった工場にくらべると、比較にならないほど環境抜群なところでした。全員が寮生活で夜勤はなく、作業の終った後の自由時間には、相模原の夜空に浮ぶ朧月の下でよく青春の夢を語りあったものです。
  私たちの仕事は真鍮のパイプを絞ったり切断する簡単な軽作業でした。ただ近くに海軍の厚木飛行場があったため空襲警報は頻繁にありました。艦載機の攻撃が主で、直接には見えませんが爆弾がほとんどのようです。艦載機が松林のてっぺんのあたりから急降下を始め、松林の影に見えなくなったかと思うまもなく物凄い爆発音が轟きます。艦載機は我々の工場に気づかないのか、工場が直接攻撃を受けることはなかったので慣れっこになり、防空壕の外に出て見ていたときのことです。飛行機が急降下するキーンという爆音が聞えたのとほとんど同時でした。機関銃の連続した発射音とともに、私たちの2・3メートル先の地面に1メートルぐらいの間隔で、銃弾が土煙を巻上げて突き刺さって行くのです。皆さんも映画でご覧になったこともあると思いますが、ほんとにそのままの情景です。心臓が縮み上るとはこの時のことを言うのでしょう。私たちは悲鳴を上げながら我先に防空壕に飛び込みました。競泳で合図のブザーで一斉にプールに飛びこむように、ジャンプして頭から飛びこむのです。艦載機は急降下しては銃撃を何回か繰返していました。
  飛行場の爆撃を終えて帰る途中の艦載機が、松林のあいだに動く人間の姿を見つけ、おもしろ半分に機関銃を発射したとしか考えられません。殺傷するのが目的だったらもっと執拗に攻撃してくるはずです。いづれにしても我々にとっては生死に関る問題です。幸い怪我人は出ませんでしたが、あのように恐ろしい目にあったのは生まれて始めての経験でした。機銃掃射はどこから撃ってくるのか予想がつかず、急降下のエンジン音が聞えたときには既に射撃の対象となっているのが恐怖感を煽られる一番の原因ではないかと思います。このあと何回か機銃掃射を受けましたが、それからは皆防空壕の中で警報の解除になるまで神妙に待ちました。
  しかし相模原台地での生活も長くは続きませんでした。5月には横浜が空襲を受け夜空が真赤に染まるのを宿舎の窓から皆で眺めていました。その後6月になって間もないころ、突然中学校時代の組織は解散され、再びそれぞれの上級学校に通学してもいい事になりました。弾丸を作る材料がなくなったのか、それとも私たちに弾丸を作らせる必要がなくなったのか解りません。おそらく工場は閉鎖になったのでしょう。私たちはこの瀬谷の寮から銘々それぞれの方角に、今後の生死すらわからない自分たちの生活を始めるために別れて行きました。それぞれの都合に合わせて、ぽつりぽつりと一人か二人づつ居なくなる淋しい別れでした。

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10.敗戦の日まで

  瀬谷の工場から戻ってから我家が再疎開するまでのほんの短い間ですが、土浦市内の我家から東京の学校まで通学していたことがあります。というのは7月のはじめ頃、土浦航空隊が近くにあったため艦載機の攻撃が激しくなってきた土浦から、再び我家は福島県釜の子村(現在の東村)に疎開して行ったからです。
  通学していたこの時だったか、 3ヶ月ほど前瀬谷の工場に再動員される前だったか忘れましたが、今ではできないような経験をしたのが懐かしい思い出となって残っています。
  当時の常磐線はまだ電化されておらず、上野駅から出発する列車の本数も少ないため、疎開する人や買出しにゆく人、その他さまざまの人々でどの列車もいつも超満員の状態でした。窓から出入りするなどは日常茶飯事のことで、その日はどこからも車内にもぐり込めず、しかたなく列車の前の方に歩いてゆくと機関車の後の石炭を積む場所に、連結器のあたりからよじ登っている男がいました。それを見て、咄嗟に私も続いて登りました。周囲には7・8人の男がいたような気がします。やがて列車が動き出してびっくりしました。物凄い横揺れが始りました。回りの鉄板に必死で掴っていないと振り落されそうです。が、利根川の鉄橋を渡り取手をすぎる頃になると、やっと周囲の景色を眺める余裕が出てきました。藤代、佐貫あたりののどかな田園地帯が広がり、目線の位置が高いせいかいつも見ている風景とはまったく違って見えます。そんなに速いスピードではありませんが、横揺れが一つのリズムのようになって機関車はぐんぐん走っています。。正面の煙突から出る油煙に含まれている石炭の燃え滓に注意しさえすれば、正面からくる強い風もあまり苦にならず、かえってすし詰めの車内に居るよりずっと爽快でした。
  ところが、牛久駅か荒川沖駅のどちらかに停車したとき、機関手が側にやってきてその場所から下りて車内に入るよう指示されました。機関手は出発する前からわれわれが乗っているのを知っていたのです。それを状況から見てやむを得ないと判断し、車内がいくらか空くまで黙認していたのでしょう。それからも何回か機関車の上に乗りましたが、出発する前に機関手から追出されることがほとんどでした。だから最初の時の機関手が思い遣りがある人だったからこそ変った体験ができたのではないかと今では感謝しているくらいです。
  家族が福島県の田舎に行ってしまったので私は再び東京に舞戻り、すぐ近くで焼け残った父の古い知合いで、家族は疎開させて一人で残っている人のところに同居させてもらい学校に通っていました。ところが食糧難に加えた栄養不足のためか、まもなく大腿部の内側に激しい湿疹を起し、痛みで歩くのも困難になってきました。御茶ノ水の大きな病院で診察を受けたら、清潔にしていないのが原因だからしばらく通院するよう言渡されたのには困りました。ほんとの一人での生活はそのときが初めてです。このへんの記憶はほとんどないのですが、まともに食事など取っていなかったでしょうし、銭湯も焼けたり休業だったりで、風呂へなど入ったことも無かったでしょう。一番心配だったのは金が次第に心細くなってきたことです。痛みは激しくなる一方なので、学校には届を出し遂に家族のもとに帰る決心をしました。8月に入ってまもなくの頃だったと思います。上野駅で何時間も待ち、やっと乗った満員の列車に6時間近くも揺られて白河駅に着いてから、痛む足を引きずり、1枚の地図を頼りにして10キロ以上離れた初めて見る新しい疎開先に、よく帰れたものだ自分ながら感心しています。
  父は翌日、同じ福島県内にある湯岐(ゆじまた)温泉というところに私を連れて行ってくれました。水戸から郡山に走っている水郡線の「いわき棚倉駅」まで3里(12キロ)の道のりを歩き、そこから水郡線で三っ目の「いわき塙駅」で降りてからまた3里歩いた辺鄙な山の中にありました。現在地図で見ると一つ先の「東館駅」で降りたほうが半分以下の距離のところにありますが、おそらく父が見た昔の案内書には「いわき塙駅」より3里と書いてあったのでしょう。
  ここは小さな旅館が2軒あるだけの、近隣の農家の人が農閑期によく利用する痛風とか高血圧に効く昔からの湯治場ですが、そのうちの山形屋という宿に入りました。まだ8月だというのに夕暮になるとかなかな蝉の鳴声が聞こえてきます。空襲警報も燈火管制も無い別天地でした。当時はどこに泊るにも食料の米が必要でした。確か1日3合ぐらいの割合だったと記憶しています。父は翌日あわただしく帰ってゆきました。
  ここの浴槽は4帖半ぐらいの大きさで、足もとの岩の間から温泉が湧き出し、岩で囲った浴槽の縁に中央がへこんだ石の枕がいくつか付いているのがちょっと変っていました。入ってみて判ったのですが、温泉の温度が人間の体温とほとんど同じなので、長い時間入っているために用意された枕だったのです。湯治に来ている人は2・3時間は普通で、中には一晩中石の枕に頭を凭れさせながら湯に漬かっている人もいるということでした。初めてこの温泉に入ったとき、私は薄暗い灯りの中で誰もいないのを確めながら、こわばりついた腿の包帯をそろそろと剥したのをつい昨日のように思い出します。そして目を閉じて温泉に漬かっていると体がまるで宙に浮いているような感覚に誘われながら、ついこのあいだまでは猛火の中を逃げ回ったり、機銃掃射に曝されたことが何か遠い日の出来事のように感じていました。
  戦争が終ったのを知ったのは8月16日の朝、下の村から登ってきた新聞配達夫が「日本は負けたらしい」と宿の人に話しているのを聞いたときでした。このあたりの新聞は1日遅れだったのです。そのとき戦争が終ったのをどう感じていたか、釜の子村の疎開先にいつどうやって戻ったか、そのあたりはまったく思い出せません。とにかく疎開先から再び東京に出て、新しい近くの知人の家に下宿しながら学生生活を続けていきました。

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11.このページを終るにあたって

  これで「一番恐ろしかったのは機銃掃射」のページはいったん終ります。また折を見て「その後の私」を書きたいと思っています。私はインターネットを始めてまだ1年にもならないまったくの初心者なので、最初、皆さんのように美しいホームページは作れないし、また、ホームページにこのような活字スタイルの文章を載せても、はたして皆さんに読んで頂けるかどうか迷いました。ただ、今まで家族にも誰にも話たことのない私の青春期の体験を、どなたかに聞いて頂きたいという望みが次第に強くなり、活字にすることも考えたのですが、新しいメディアとしてのホームページに書くことを思い立ちました。
  この拙ない文章の最後までお付合い頂いた方には、ほんとに心からお礼申しあげます。そして、こういう点が読み辛らかったとか、こうした方が良いとか、どんなお言葉でも結構ですので、 こちらまでメールを頂けたらたいへん有難く思います。お礼の返事は必ず差上げます。

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