焦土の中から
目 次
1.街の灯
日本が戦争に負けた、そのこと自体からは、私はそう大きな衝撃を受けませんでした。ということは、その現実を正しく理解できなかったからかもしれませんし、もっと別の感動のようなものに突き動かされていたと言ったほうがいいかもしれません。そのときの気持をうまく言い表わせないのですが、ただ、今までがんじがらめに身体中を締め付けられていた大きな呪縛から開放されたような安堵感が、身体の中を駆け巡っている感じを受けていました。そして日本がその日を境にして大きく変化していく中で、私の生活も少しずつ変わっていきました。
福島県の山の温泉場からいったん疎開先の我が家に戻り、それから再び東京に出て、僅かな距離で焼け残った父の知人の家においてもらいながら、学校に通い始めました。東京に戻ってすぐ気がついたのですが、街の中の様子が、わずか1ヶ月前とはずいぶん違って感じられました。道路を歩いている人がめだって増え、街が人で溢れているといった感じになっているのです。みんなせっぱ詰まった用事を抱えて行き来しているのでしょうが、私には誰もが自由を満喫するために歩いているように見えました。そして、夜の変りようには目を見張るものがありました。燈火管制のため電気の傘に黒い覆いを被せ光が戸外に洩れないようにしていた、それまでの数年間続いた暗い街が、生まれ変わったように明るくなったのです。窓から洩れる明かりは見るだけで心を温かくしてくれました。家の中から笑い声が聞こえようものなら、胸の中が熱くなるような感動で締め付けられるようでした。ああこれでやっと戦争は終わったのだと、そのとき初めて実感として、私の体の中に自然に入ってきたような気がします。そして焼け残った街の中を毎晩のように、1軒1軒のぞき込みながら当てもなく歩いたのを懐かしく思い出します。
2.闇市
あらゆる物資は、まるで8月15日を境にしてどこかへ忽然と消滅したかのようでした。生きるための何もかも不足していました。最も必要な食料は配給になるものだけでは到底足りません。近郷の農家に買い出しに行く人々でどの列車も超満員、そのうち駅の周辺は勿論のこと、ちょっとした焼け跡の空き地では、芋、パンなどを売る露天の店が建ち並び始めました。始めの頃は店とは名ばかりの、みかん箱の上に雨戸を置き、食べ物を並べた売る場所といったものが殆どでしたが、飯粒が浮いているような雑炊とか、何の肉だかわからないような肉を串に刺して焼いたものを売るシートで囲った店を見かけるようになったのは暫く経ってからです。そして次第に市場としてまとまるようになり、そこへ行き、金さえ払えば何でも手に入るようになりました。そういう市場の品物は正規のルートを通じていないので闇市と呼ばれ、駅の周辺とか、人通りの多い場所に無数にできました。最初は食料でしたが、そのうち不足している物なら何でも並べて売るようにようになりました。皆が欲しがっている品物をどんな方法であれ手に入れることのできた人が勝者のような時代でした。
戦後20年以上経ってからの話しですが、闇市で売るほうの側だった人から、商売の内輪話を聞いたことがあります。やはり3月10日の空襲で台東区の家を焼かれ、遠縁を頼って埼玉県の鴻巣へ疎開しましたが、間もなく敗戦となり、大勢の家族を養うため、地元のさつま芋を東京で売って生活を立てることにしたそうです。話しをしてくれた当人は当時まだ国民学校の1年生、両親や兄貴たちのすることを見て記憶していたのですが、話すとき 「働き手が居たからできたんだよなぁ」 とつくづく言っていました。
さつま芋を当時の1貫目(3.75kg)当たり5円で仕入れます。芋の大きさにもよりますが何本ぐらいあるものでしょうか。仮に10本とすると、蒸したさつま芋1本を斜めにいくつかに切り、それを1枚の皿に並べれば10本ですから10枚の皿ができます。その1枚の皿を5円で売ったのだそうです。10倍の値段です。勿論、鴻巣から東京まで運ぶ手間や売る人の手間、芋を蒸したりする道具や薪、それにどこかの寺院の境内の一角を借りていたのでその謝礼等々経費はかかりますが、両親と復員してきた長兄を含めた6人でやっていたのですから、十分食べてゆけたということでした。
3.インフレの荒波
世話になっていた家は、私より3・4歳上の2人の娘と50歳を過ぎた夫婦の4人家族、そこへ私が舞い込んだのですから、疎開先から私の食扶持が届いていたにせよ、食料の確保は大変だったと思います。その上暫くして、戦災のとき私の自転車を持ち出してくれたAさんも転がり込んできたので総勢6人となり、不足の食料を調達に行くのでしょう、親子で言い争いした挙句に娘2人が買出しに出かけるのをよく見かけました。特に居辛いことは無かったのですが、話しの折に触れて、できるだけ早く他に移って欲しいなどと遠まわしに言われると、私自身ではどうしようもなかっただけに、身の縮むような思いに駆られたのを覚えています。自分たちだけが食べるのにやっとなのに、いくら昔世話になった人の息子とはいいながら、他人を世話できるような時代ではなかったのです。
食べ盛りの17歳の私は毎日が空腹の連続でした。当時、断片的に書いていた日記のどこを開いても、空腹に悩まされる自分の姿が記されているのに改めて驚くほどです。用意してくれた弁当は昼前に食べてしまい、夕食までの空腹に耐えかね、幾度闇市を彷徨したか知れません。その我慢の足りなさを後悔したり責めたりする文句がまた、日記の至るところに書いてあります。そして月に2度くらいの割合で、茨城の知合いにバラックの建築を頼みに来る父から貰った握飯のうまかったこと、空腹にしみわたるように広がっていったのを、いまでも忘れることができません。
この間にもインフレーションはものすごい勢いで進行していました。もともと金銭面には疎い私なので、当時の物価は殆ど覚えていませんが、私の小遣いの金額がたまたま書いてある個所がいくつかあります。それを見るとインフレーションがいかに激しかったか察することができます。
従来の預金はすべて封鎖されて新円への切り替えが発表された頃の、昭和21年2月18日の日記の最後に 「現在の所持金1円20銭、心細いこと限りない」 と書いてあるのに、それから約半月後の3月1日には 「父から貰った300円はまだ110円残っている」 と記されています。たった半月間しか経たないのに、お金の単位がまったく違っているのです。
またこれは実際に経験したことで、口惜しかったのでよく記憶しています。友人が買った高浜虚子編「新歳時記」の内容が詳細な上に紙の質が良かったので私も欲しくなり、神田の三省堂へ買いに行ったところ、25円の値段がついているのにびっくりしました。というのは確実な値段は忘れましたが、友人は確か2円前後で買っているのです。発行日が2月5日なので、恐らくその後まもない頃に買ったものなのでしょう。欲しくてたまらず遂に買って帰りましたが、その3月6日の日記には 「大枚25円で虚子編 新歳時記を買う。余すところ23円なり。ふところ淋しきことおびただし。」 なんて書いてあります。このようにたった1ヶ月間で、10倍くらい値上がりしたものもあったのです。
これらのことはすべて私の身の回りで起きた些細なことですが、戦後間もない日本中の誰もがインフレーションの荒波に翻弄され、家財道具、衣類、手持ちの品物などを食料に交換しながら必死に生きていたのです。幸いといいましょうか、父のお蔭でそういう苦労も直接わが身に受けることもなく、父がいま奔走しているバラックが、焼け跡に1日も早く建つことだけを私はただひたすらに、祈るように待っていました。
4.発疹チフス
当時の銭湯がいくらだったか覚えていませんが、どこもいつも満員の盛況でした。娯楽といっても何もない時代なので、お湯に浸ってゆったりするのが、大きな楽しみの一つだったのです。芋を洗うようだと言いますがまさにその通りで、湯船に浸かって隣の人と身体が触れ合うのはあまり感じの良いものではありません。一度、セルロイドの石鹸箱が盗難に合ってからは、湯船に浸かっていても見える場所に置くようにしました。
「しらみ」 がたかるのは銭湯が多いと言われていました。そして気がついたとき、いつのまにか私の下着はしらみの巣になっていました。とくにパンツのゴムが通っている縫い目などには、しらみの1列縦隊が続いていました。それを両手の親指の爪の間で丹念に潰していくのですが、まるで動物園の猿のようだと気付いたときには、独りで笑い出してしまったほどです。ただ痒みに悩まされた記憶があまりないので、短かい期間だったのかもしれません。
天然痘と、しらみが媒介となるといわれていた発疹チフスが、昭和20年から21年にかけて流行していました。アメリカの進駐軍の兵士が、地下道などをねぐらとしている身寄りのない浮浪児や行き場の無い浮浪者達に、白い粉のDDTを散布している様子をニュース映画でよく見かけました。細いノズルから吹き出るDDTを頭や襟元から容赦なく浴びせ掛けられるので全身白ねずみのようになりますが、まさかそれが我が身に降りかかるとは思いもよりませんでした。
発疹チフスという名は忘れられません。でもどのように危険なのか正確にはよく知らないのです。頭痛から始まり全身の悪寒が2・3日続き、熱があって身体がふらつくので、自分では風邪をこじらせたのだろうと思っていました。その状態が1週間も続いたでしょうか、白衣を着た保健所の係員がやって来て、ニュースで見たほどひどくはありませんがDDTを身体中に撒かれました。家の人が知らせたのかも知れません。近所の人が大勢集まり、近辺に発生した流行病の患者を見守る不安そうな表情が、印象的だったのでよく覚えています。そしてそのまま、台東区にある下谷病院に入院させられました。この近辺では比較的大きな2キロほど離れたその病院まで、同居していたAさんにおぶさって行ったような気がします。
下谷病院では、敷地の端のほうにある隔離病棟のようなベッドが8台ほどのがらんとした病室に入れられました。ところが2週間後の退院まで、その部屋には私1人きりだったこと、夜は灯が消され部屋の中は入口のガラス戸から洩れる灯だけなので不気味だったこと、などは覚えていますが、そのほか2週間の間どうやって過したのかまったく思い出せません。恐らく症状も変わらないので特別な治療などは受けないで、そのまま放って置かれたのではないかと思います。とにかく、原因不明の熱は下がり退院の許可が下りたので、ふらふらしながらも期末試験を受けに病院から直接に学校へ行けたのですから、たいしたことは無かったのでしょう。単に風邪をこじらせただけだったのに、と私は今でも思っています。
5.焼跡にバラック建つ
その後5年近く家族の住居となった家は、現地で納屋だった建物を解体し、ばらばらな木材となって馬車に積まれ、2人の男に付添われて茨城県石岡の先から一晩かかってやってきました。昭和21年4月21日のことです。まだ期末試験の最中でしたが、焼跡に寄って馬車から下ろされた木材の山を見たときの嬉しさは言葉では言い表わせません。これでやっと、さまざまなしがらみから開放されるといった思いが一番強かったような気がします。
家は大工が建ててくれるもの、作ってくれるものと単純に考えていたのは大間違いでした。2人のうちの1人は骨組みと下屋を組み立てた翌日に馬車を引いて帰り、残ったもう1人も階段を取りつけたり、外側の壁板を打ち付けたあと屋根の杉皮を葺き終えると4・5日で帰ってしまいました。電報を打って知らせた父が到着したときはすべて後の祭です。すぐ茨城の知人の元に出かけて行きましたが、その後の話しは聞いていません。あとの土壁塗りとかその他こまごました仕上げは、長期の春休みになって疎開先に帰った私と入れ替えに上京したすぐ下の弟とAさんとで作ったようなものです。それでも1ヶ月の春休みが終わり私が上京した後でも、残っていた土壁を塗った記憶がありますから、バラック建てとは言いながら、人が住める家を建てるということは大変なことでした。
間取りは2階と1階が6畳間ぐらいの板敷きの部屋で、西側の1坪ほどがが台所、2階の南側はすべて板戸の窓、そして東側はまるで梯子のような階段という簡単なものでした。焼跡に立って眺めるとまるでマッチ箱、と言っても若い方には想像つかないでしょうが、横に倒した長方形の箱がでこぼこした広い原っぱにぽつんと置いてあるような感じに見えました。
とにかく狭いながらも東京に我家が復活したのです。世話になった家を引き払いAさんと私はこのバラックに住み始めました。そして東京に拠点ができたことで、縁続きの人は勿論、父の仕事上の知り合いの人なども姿を見せはじめ、この家を足がかりにして、互いの無事を喜び合ったりその後の話しに花を咲かせながら、大概は1泊して翌朝それぞれの目的地へ向っていきました。その間にも、疎開先と焼跡のバラックの間を用事で往復する弟や、今度は疎開先にまだ残っている家族を引き上げるために奔走する父の姿がありました。
6.焼跡の生活
バラックに移った当時の夜の停電は、もう日常茶飯事の出来事でした。ガスはまだ復旧していないので、各家庭が一斉にヒーターなどを使うためだったのでしょう。一旦停電になると2・3時間点かないのは普通で、その夜のうちに点灯すれば良いのですが、電柱の上の変圧器そのものの故障のときなどはその夜はあきらめるより他はありません。食事が済んだ後なら 「さっさと寝ろって言ってるよ」 などと冗談を交わしながら床に入ってしまいます。しかし夕食前のときはそれから薪で火を起こさなくてはならないので大仕事でした。
ある晩のことです。いつもの電気パンを作るときに停電になってしまいました。電気パンというのは私とAさんで使っていた造語ですが、ちょっと説明しないとわからないと思いますので書いてみます。
かまぼこ板ぐらいの大きさの板切れ2枚を、向かい合わせに20センチ程度の間隔で立てます。その両側に寸法に合わせて切った長方形の鉄板(20センチ×かまぼこ板の長さ)2枚を釘で打ちつけます。ちょうど向かい合ったかまぼこ板と向かい合った鉄板で囲まれた長方形の枠ができ上がるわけです。そして両側の鉄板にソケットのついた電線を釘か何かでじかに接続してでき上がりです。この枠をまな板のような平らな板の上に置き、配給のうどん粉に適当な塩と水を加えて、枠の隙間や底から流れ出さない程度の固さに練ったものを枠の半分くらいまで流し込めば準備完了です。そしてソケットを差し込むと、その瞬間、軽い唸りを上げながらうどん粉の中を直接電流が流れみるみる膨らんできます。およそ30秒ぐらいでしょうか、水分が無くなると共に電流はとまり蒸しパンができ上がります。この方法は私達で考案したものでなく誰かに教えられたのだと思いますがはっきりしません。それと回数を重ねるうちにうどん粉を練るとき膨らむようにイースト菌を入れたら、一層おいしいパンができたように思います。
説明が長くなってしまいましたが、その夜、電気パンのソケットを差し込んだ瞬間に停電になりました。そのタイミングがまったく同時だったので、まるでそれまで何100世帯の負荷に耐えてきた電柱の上の変圧器が、我が家の電気パンのために、謀反でも起こしたようにヒューズが切れた気がしました。これは偶然の一致で、そのときスイッチを入れなくても停電になっていたかもしれませんが、そう思えるのに十分なこちらの状況があったのです。
練ったうどん粉に直接電流が流れ始めるときは瞬間的に非常に大きな電流が流れます。我が家では家の中の安全器のヒューズがすぐ飛んでしまうので、ヒューズでなく直接銅線で繋いでありました。勿論これは違法な上にたいへん危険です。空腹とうどん粉がもったいないという感覚が入り混じっているのでそこまではよく覚えているのですが、そのあとどうしたかは忘れてしまいました。そのままでは空腹で眠れないので、何かしらは食べたのだと思います。
この夏だったか翌年の昭和22年だった珍しい体験をしました。当時の台風にはアメリカの影響かそれとも指示だったか判りませんが、ジェーンとか、キャスリーンといった女性の名前で呼ばれていました。その台風はラジオの予報では関東地方を通過しそうな気配でした。直撃を受ければ焼け跡の上にただ乗っているような2階建てのバラックなどひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうに違いありません。そこでAさんと相談し、焼け跡の転がっている機械の残骸やコンクリの大きな塊などと、バラック建ての家とを針金で結びつけることにしました。そういう材料は自転車を作る町工場だった我が家の焼け跡にはごろごろしています。長い針金を作るのに一番苦労しましたが、なんとか2階の窓の上の剥きだしになっている南側の梁の2箇所と、大きな固定したものと結びつけるのに成功しました。次第に風雨の強くなり始めた前日の夜遅くまでかかったと思います。
南東の風雨が本格的になったのは明け方でした。雨量はそう多くはありませんがごうごうと唸りを伴なって風が吹きつけてきます。最初2階にいたのですが揺れと音の無気味さに居たたまれなくなり階下に降りました。夜は既に明けていました。そして若し家が倒れそうになったら2人で飛び出せるよう待機しながら台風の過ぎるのを待っていたときです。突然それまでのものすごい暴風雨の音が静かになったと思う間もなく、急に戸外が明くるくなりました。不思議に思って外に出ると、なんと頭の上に青空が広がっているではありませんか。風雨も止んでいます。台風の目の中に入ったのだとすぐ気がつきました。話しには聞いていましたが経験するのは初めてです。そしてよく見ると青空は空一杯に広がっているのではなく、頭の上の鉛色の雲の真ん中だけぽっかり穴があいて青空が見えるのです。何とも不思議な光景でした。
その状態がどのくらい続いたでしょう。10分ほどだと思いますがもっと長かったかもしれません。そして再び暴風雨が始まりました。こんどは反対の北西の方向からの風です。これにはびっくりしましたが、風向きが家の長手方向と同じ西寄りだったのでしょう何とか飛ばされずに済みました。それに台風の勢力そのものがそれほど大きくなかったのが不幸中の幸いでした。しかしあの台風の目の中の美しい光景は例えるものがちょっと見当りません。家の軒や電線などから水がぽたぽた垂れているのに晴天の青空が広がっているのです。夕立の後にも見る風景と似ていますが、それより数倍も鮮烈でした。太陽は多分見えなかったと思います。風もまったく無く、ただ紺碧の空に吸い込まれそうな感じで見ていた記憶が残っています。
この頃の交通事情はまだまだ戦後の混乱の真っ最中でした。東京の街を走っていた省線電車(いまのJR)は毎日の通学に利用していましたが、やっと到着するどの電車も殺人的な混雑ぶりでした。JRになってからでも一時混雑が激しかったとき、電車の中に人を押し込む「押し屋」という専門の駅員がいたようですが、当時は勿論そのような駅員は存在せず、ホームの端ぎりぎりから2重、3重に溢れた人垣が電車が到着するや否や我先に出入り口に殺到します。そして降りる人がちょっとでも遅れようものなら乗りこむ人の勢いで再び車内に押し戻されてしまいます。その人が降りますといくら叫んでも、前に立つ人は後からの大勢の力に押され応じることができないのです。あきらめて次の駅まで行くほかはありませんでした。そして車内はすし詰めの状態で、手を挙げて乗ったら降りるまで手を挙げたまま、鞄など手を離しても下には落ちません。ほんとに身動きひとつできない状態でした。その上掴まる吊革が少ないので、電車が揺れるままに大波のように車内全体の人が揺れ動き、誰もが自分の体を支えるのに必死です。そのため停車の勢いで倒れて怪我をする人も多く出ました。
生活に追われ人々のモラルがまだ低い時代だったのです。
当時は疎開先の白河駅と上野駅との間を往復することが多く、長距離列車も同じだったと思いますがその切符を買うのがまた一苦労でした。駅に並んでもその日の割り当てが終わればまた翌日出直さなくてはなりません。前の章に書いてある弟と交代するため疎開先に戻ったときの時間の詳細がたまたま日記に記されてありました。これは珍しく順調にいったときの例です。
それによると朝5時半に家を出て、省線に乗れば15分で行く上野駅の東北線の切符売り場に並びました。23班でした。班というのはどういう仕組みになっていたのか、当時は判っていたのでしょうが忘れてしまいました。とにかく10時に切符の引換券をもらうことができ、すぐに切符を買って11時40分発仙台行の列車の列に並んだと書いてあります。が車内の様子などは書いてないのでまったく思い出せません。そして白河駅の到着が5時15分、駅近くの親戚の家に預けてある自転車で家に帰り着いたのがちょうど午後6時だった、とあるので家を出てから12時間以上かかったことになります。それでもそのあとに「今日は列車も遅れず、すべて順調だった」と書いてあるのですから今では考えられません。
このちょっと前には、疎開先から帰るとき上野駅に夜10時に着く予定の列車が3時間以上遅れ午前1時過ぎになったことがあります。常磐線の終電車は既に終っていたので、仕方なく上野駅構内の一番広い改札口の前の広場に座りこみ、大勢の人と一緒に始発電車を待ったこともありました。こんなことは当時では当たり前だったのです。
7.このページを終わるにあたって
いま考えると、世情の移り変わりにあまり関心を持たない当時の私にとって、焼跡での生活は何物にも拘束されず、食料の乏しいことと不便さを除けば快適な印象しか残っていません。汗でびっしょりになった肌着をざぶざぶと水洗いし、そこいらに張った綱に吊しておけば夏の日差しに30分ほどで乾いてしまいます。その間上半身裸のまま焼跡に植えた茄子の枝から、小ぶりながら紫色に輝く茄子をもいで、配給の鰯とどうやって煮たらいいのかなどと夕食の献立を考えます。じゃが芋は植えたのですが収穫はあったのか失敗したのか思い出せません。また食べられると言われたひまわりの種は、食べませんでしたが荒れ果てた我が家の焼跡に鮮やかな色取りを添えてくれました。
こんな風に見てくると、私はそのときどきの環境の中にうまく適応し、おのれの好きな道だけを歩くといった楽天的な一面があるのではないかと思いました。身の危険にさらされることもあった戦争中でも、また日本未曾有の敗戦という厳しい現実の中でも、一匹の動物のように嗅覚だけを頼りに生きてきたような気がします。そして批判することはしないで現実をそのまま受け入れる体質は今になっても変わっていないように思います。これから先もまた、同じような道を歩いて行くようになるのではないかと今感じています。戦後の混乱の中の2年ほどを振り返ってみて、こんな感想を抱きましたので付け加えました。
最後になってばかに理屈っぽくなってしまいましたが、戦後の混乱の中で記憶している印象深い主なことはだいたい以上で尽きるかと思います。この後のことはどなたでも生きている限りは、多かれ少なかれ経験されていることなので、これでペンを措きます。
最後までお付き合い頂きまして誠に有難うございました。読後の印象とか、事実と違っている点がありましたら
こちらまでメールを頂ければ大変幸せに思います。ご返事はかならず差上げます。