JEAN-PAUL SARTRE
LA NAUSÉE

サルトル 嘔吐


人文書院
2012-12-18作成
「さあ、これから?」と「さて、それで?」
■サルトル全集 第6巻 「嘔吐」(改訂版):白井浩司訳 人文書院,昭和26年初版(昭和46年改訂重版) 380円
■「嘔吐」:白井浩司訳 人文書院,改訳新装初版(1994年) 2200円
■「嘔吐」(新訳):鈴木道彦訳 人文書院,初版第1刷(2010年) 1900円


■2010年7月に「嘔吐」の新訳が刊行された。その書評を新聞で見て、普段はまったく行くことのない書店に飛んで、一気に読んだ。手元に3冊の「嘔吐」がある。途中で読むのをやめた全集版は1971年。その白井浩司の改訳が出たのが1994年、これも読まずに放置。そして2010年の鈴木道彦の新訳。なんと40年がかりで読めたことになる。新訳者に感謝しなければならない。
 学生時代はドストエフスキー派だったからサルトルは読まなかった。全日本学生写真連盟は当時、明治大学が幹事?的だったのか、地方委員として何度か上京したときの打合せ場所は駿河台の明治の裏の喫茶店アミだった。そこに東京の委員である明治の学生がサルトルの「存在と無」を抱えて現れたのが記憶に残る。写真をやるのに、哲学はいらないだろうという田舎学生の本音は別にして、写真の話しより、哲学ならぬ生硬な理屈を述べ合っていた。神田カルチエ・ラタンの前年のことだ。それから数年後、それでも、読もうと思ったのか、会社に入った最初の年に買っている。

■1950年の全集版の月報にある矢内原伊作の解説が分かりやすいので引用する。
… 『嘔吐』が刊行されたのは1938年であり、その前に『壁』や『部屋』が雑誌に発表されていたが、それにもかかわらず『嘔吐』はサルトルの処女作と言うことができる。其の量と質から言って、『嘔吐』の制作が「壁」や『郡監』に先立つものと推定されるはかりでなく、其の後驚くべき豊富な展開を見せたサルトルの思想が、発生期の純粋な形でここに集約され、提出されている点からも、我々は『嘔吐』を彼の処女作と言わなければならない。『存在と無』も『自由への道』も明かに『嘔吐』から真直ぐに続いている。道に言えば、『存在と無』の哲学も、『自由への道』の文学も、共に『嘔吐』一巻の中にこめられているのである。そして哲学と文学とのこの緊密な共存に、恐らく、サルトルの他の著作にもあまり見られないこの処女作の独自性があるのであり、更に哲学者であると共に文学者である点にサルトルを他の哲学者や文学者から区別する所以があるとすれは、「嘔吐」はサルトルの本質を最も純粋な形で示しているものだということになるだろう。
…サルトルの舞台は常に日常的であり、人物は尋常であり、そして絶望は透明である。サルトルは人間の実存性を示すのに、感情に訴え
る異常な条件を必要としない。彼はあらゆる日常性の背後に実存性を見出すのであり、ここから彼の「哲学」が生れて来る。
 日常の世界では事物が道具としての意味をもち、慣習と概念によって規定された一定の枠をもっているが、この世界を超えて事物の赤裸々な姿を見るならば、このような意味や目的が忽ち失われ、「存在」が姿をあらわす。それは一切の意味づけや演繹を拒み、単に「ある」に過ぎないもの、もはや何ものでも「ない」ものである。「存在」は「無」だ。しかし「無」は単に何もないといぅことではない。「無」は単なる空虚ではない。むしろそれは異常な充実であり緊張である。その主観的な側面が「嘔気」にほかならない。「存在」が「無」であるということは論理であるが、「存在」は論理を超えており、超えていれはこそ「無」である。「無」で「ある」という表現自身が既に論理の限界を示している。それ故、存在は無であるという論理を支えているのは、論理を超えた主体的な意識であり、この意識こそ実存を実存たらしめるものであろう。『嘔吐』の主人公ロカンタンはかかる意識の具象化にほかならない。

■今日書こうとしているのは、哲学ではない。私が2011年突然、「人類の知的遺産」をアイウエオ順に読もうと思いついたきっかけである。
以下、鈴木道彦新訳での「嘔吐」での独学者との出会いである。
…「なにをお読みですか」 彼は言いたくないらしい。少しばかり躊躇して、迷ったようにその大な目をうろうろさせる。それから、やむを得ないといった様子で、その本を差し出す。それはラルバレトリエの『泥炭と泥炭層』と、ラステックスの『ヒトーパデーシャまたは有益な教え』である。それで?私にはどうして彼がもじもじするのか分からない。こうした読書は、きわめてまっとうなもののように思われる。私は気休めに、『ヒトーパデーシャ』をばらばらとめくつてみるが、そこには高尚なものしか見あたらない。
 三時
 私は『ウジェニー・グランデ』を放り出した。仕事にとりかかったが、気力が湧かない。私が書いているのを見て独学者は、尊敬のこもった貪欲な表情を浮かべながら私を観察している。ときどき私が少し顔を上げると、巨大なスタンドカラーから彼の若鶏のような首の出ているのが目に入る。身につけている服は着古したものだが、シャツはまぶしいばかりに白い。彼は同じ本棚から、もう一冊の本を取ってきたところだ。私は逆向きになったそのタイトルを読む。ジュリ・ラヴュルニュ嬢の書いたノルマンディ年代記『コードペックの矢』。独学者の読むものは、いつも私を戸惑わせる。
 不意に彼が最近に参照した本の著者名が頭に浮かんだ。ランベール、ラングロワ、ラルバレトリエ、ラステックス、ラヴェルニユ。それは閃きだった。独学者の方法が分かった。彼はアルファベット順に知識を身につけているのだ。私は一種の感嘆の念を覚えながら、彼を見つめた。かくも広大な規模の計画をゆっくりと執拗に実現するためには、どれほどの意志が必要であろうか? 7年前のある日(彼は7年前から勉強していると私に語っていた)、彼は意気揚々とこの読書室に入って釆たのだ。壁を飾る無数の本に視線を走らせて、ほぼラスティニャックのようにつぶやいたに違いない、「さあ、お前と一騎打ちだ、人類の学問よ」と。それから一番右側の最初の書棚にある最初の本を取りに行った。不動の決意に、尊敬と畏怖の感情を交えながら、彼はその本の第1ページを開いた。現在の彼はLLまで来ている。JのあとがK、KのあとがLだ。彼は甲虫目の研究から一足飛びに量子論の研究に移り、ティムールにかんする著書から、ダーウィニズムを攻撃するカトリックのパンフレットに移行した。一瞬たりともまごつかなかった。彼はすべてを読んだ。単為生殖について知られていることの半分を頭に蓄積し、生体解剖を非難する論拠の半分をためこんだ。彼の背後に、彼の前方に、ひとつの宇宙がある。そして彼が、一番左の最後の本棚にある最後の本を閉じながら、
「さて、それで?」とつぶやく日は近づいているのである。

■白井訳で読み切れなかったものが鈴木訳で読めた理由は何だろうか。訳に硬さが無くなって、読者を拒むような雰囲気が無くなったことが大きいのだろう。40年の自分自身の変化の方が影響も少なくないような気がする。そして
「さて、それで?」だ。ちなみに白井訳では「さあ、これから?」である。図書館のすべての本を著者のABC順に読み進め、Zを読み終えたとき、独学者は、「さあ、これから?」と言うだろうか。「さあ、これから?」は自身の未来に対する意志表明である。しかし、もうZまで来てしまっている。先はない。ここは、やはり「さて、それで?」だ。自分も何年か先「人類の知的遺産」全80巻を読み切ったととすれば、「さて、それで?」と言うしかないだろう。

■今日、独学者の氏名が判明した。
*原注 オジエ・p…。彼についてはこの日記のなかで、たびたび問題になるだろう。執行吏の代行書記で、ロカンタンは1930年にブーヴィルの図書館で彼と知り合った。


【BOOK LIBLARY】