分類という思想池田清彦, 新潮選書


分類(196) p.8 , p.94
…… 

分類することは思想を構築することだ、と私は思う。

ほとんどの人はそうは思っておらず、分類はただの道具だと思っているのかも知れない。

われわれの日常はのべつまくなしの分類作業だといっても過言ではない。

眼の前にあるものが食えるか食えないか、この男は敵か見方かそれ以外か。

分類は道具ではなく、生きること自体である。



人間の認知パターンから独立した客観的な性質をことごとく選んで、
それらを等価とみなす限り、そもそも分類という行為は成立しないのである。

逆に言えば、分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。

ア・プリオリに重要な基準などない。

したがって分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。




<以下参考>

A・非A分類(218)
Aを単なる記号と考えれば、非AはBであるから、Aと非Aは等価である。分類は等価なレベルで行われるべきであるとすると、脊椎動物と非脊椎動物は典型的なA・非A分類として非難されることになる。

みにくいアヒルの子の定理(218)
人間の認知パターンから自由である限り、すべての対象は同じ位似ている。このことを厳密に証明したのは渡辺慧で、アヒルと白鳥の間の類似度も、二羽の白鳥の間の類似度も同じことから、これを「みにくいアヒルの子の定理」という。(文献:「知るということ−認識学序説」東京大学出版会)


著者の池田清彦については、養老孟司の以下の文章(日本人の身体観の歴史:法蔵館)が適切に説明している。ようするに養老は池田を理屈っぽい人間であると分類した。

池田清彦(219)p.32
自然物と人工物の区別については池田清彦氏の議論がたいへん参考になる。(分類という思想) 自然物は相手がいかに変化しようと名前が変化しない。池田清彦という名は、口がきけない赤ん坊の時代から、理屈ばかりいう中年に至るまで池田清彦である。…しかし人工物はそれを用いる人間の設定した枠組みのなかで名が定まる。



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