高群逸枝
娘巡礼記

堀場清子校訂
朝日選書128

1979年1月第1刷
■四国遍路を始めてから、この本を知った。タイトルからしてお涙頂戴的であり、以前であったら本屋でも手に取ることはあるまい。そんな本をインターネット古書店で手に入れた。戦前の遍路の雰囲気が感じられること以上に、「普通の娘」が巡礼に出ることが、当時の一般社会やマスコミにとって、きわめて興味本位な対象であったことを知る。高群はそれを利用して台風の目のように進み、その巻き起こす嵐にの中心で戸惑いつつも、精神的な超越した境地に達する。その心の叫びが不思議な感動をもたらす。
■この記録は「九州日日新聞」に大正7年(1918)6月6日から12月16日まで105回にわたって連載され、ローカルではあるがセンセーショナルに迎えられた。恋愛問題からの逃避が直接的な発心であった。実は24歳であっから、当時としては決して娘とはみなされない年齢であった。大分で出会い、お供として同行する伊東宮治老人との二人旅になる。
■この文章は、高群のその後の女性研究者としての業績の中で、まぼろしの文章となった。そして初めて堀場女史の校閲によって、書籍化したのがこの本である。60年ぶりに、日の目を見た。

■高群逸枝(1894〜1964)
 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成し、婦人運動に情熱を燃やすが、その後、女性史研究に没頭。「母系制の研究」などを発表し、「女性史学」という新しい分野を切り開く。
(2006-9-17)作成



【狂奔】

私は心細くなってきた。でも構はない。生といひ死といふ、そこに何程の事やある。
私は信念を得たい、
驚異を得たい、
歓喜を得たい、
さもなくば狂奔を得たい。

兎に角苦しみ悶え泣き喚いていく裡には例え方なき尊厳な高邁な信仰に到達するであろう。

(1918年6月7日坂梨にて)


【野宿】

あゝ疲れた。
遂々野宿と決定、少し上の草丘に上つてすぐに横になる。
昏々とした深い眠りが毒液のやうに〜ふと物に怯えた様に飛び起きる。
顔から手足に色々な虫が這ひ上がってゐて不快で堪らない。
それに着物も髪も露でシトシトになつてゐる。
月が寂しく風は哀しくーああ此身は此所に坐つてゐるのか。
此月、此風、熊本やいかに。此れから何百里、かよはい私で出来る事であらうか。
ああ泣いて行かう。いえ、花を摘んで歌つていかう。
…足は痛いが立たねばならぬ。
み仏よ助け給ひてよ。
道は一すじ、…疲れは疲れを生み、目を上げるとまるで世界が黄色になつてグルく廻転してゐる様だ。

(1918年7月15日大窪越えにて)


【白い闇】

行つても行つても海岸の道は続いてゐる。
「此所に泊りませう」私は遂々ある木蔭の草原に疲れた身体を横にして了つた。
そして凝乎と海の光景をしみぐとした瞳で挑めまわした。
夕方である。此辺り波が烈しいので飛沫が銀の煙をなし濠々と立ちこめてゐる為め水平線も判然とはわからない。
すぐ足の下に浪が狂つてゐる。
闇は次第に迫る。白い闇だ。見る見る限界は狭められ見る見る真つ白な闇が幕の様にたれ下る。
闇の上に星が浮かぶ。お! 天の川!
 行く方も分らずその白いものドン底になだれ落ちさうだ。
お爺さんは早や横になつて了つて居る。
海と夕やみと、七十三の萎びた老人の亡骸の寝姿と−私は静かな落ちついた心で「死」を考へた。

(1918年8月2日入野の浜にて)


雑誌「太陽」:1981年新年号より引用



1918年(大正7年)6月出発、ときに24歳
九州日日新聞に遍路記録を掲載を条件に10円を前借りする。これでは四国への汽船しか乗れない。人々の善意にのみ依存した無銭の旅が始まる。途中の路銭の苦労は伊東老人の修行(乞食行)や送金たよりで、まったく関心を示さない。考えればお嬢様の随分身勝手放題な旅だが、そのほとばしる言葉の強さが打つ。
6月4日  熊本出発。途中、歳を18と偽る。大津泊。
6月5日 立野、梅原広一宅泊。
6月6日〜  阿蘇郡坂梨村浄土寺2泊。坂本元令様に感謝。
6月8日〜  竹田、新高野山(瑞泉寺)にて宿泊を断られる。直入郡岡本村狭田、古谷芳次郎宅2泊。
6月10日〜  東大野村中井田、伊藤宮次(伊東宮治)老人(73歳)に出会い、同宅長期滞在。老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と理解し、女王さまのように扱われる。しかも、四国への同行を申し出る。サンチョパンサの登場。
7月9日〜  伊東老人と中井田から汽車で大分に向かう。大分市塩九升町、伊東老人の親戚、阿部宗秋宅。
7月14日  午前3時大分出航。佐賀関経由の「宇和島丸」にて八幡浜入港。この地の大黒山吉蔵寺(当時衰微していた37番岩本寺から3500円で本尊と納経の版を買い取り、37番札所の権利を得たとされる)を訪問、1泊。
7月15日  逆打ちとして43番明石寺を目指して出発。なぜ逆打ちとしたかの理由は語られない。道を間違えて大窪越えの難路で、野宿
7月16日  卯之町経由で43番明石寺を巡拝。歯長峠の山中、小屋を見つけて軒下で野宿
7月17日〜  42番仏木寺41番龍光寺を巡拝して宇和島到着。(約17kmの歩行)個人宅泊。雨天のため連泊。
7月21日  宇和島出発。柏坂の手前、畑地村にて野宿。(約20kmの歩行)
7月22日  雨中の柏坂越え。初めて海を見る。夕刻40番観自在寺到着。夜が更けるまで光明真言を唱え、本堂軒下に通夜
7月23日  深浦という一小港に至る。「大和丸」という蒸気船で土佐片島港(宿毛)まで乗船。恐ろしき遍路の目(注1)に出会う。39番延光寺拝礼。門前の寺山屋という木賃宿に宿泊。翌日は風雨強く連泊。
7月28日〜  28日出発。に延光寺→市野瀬→大岐→足摺(38番金剛福寺)→大岐→市野瀬の打戻りに4日かかり。市野瀬1泊、大岐2泊。7月31日に真念庵到着。
8月2日  市野瀬を出発し、伊豆田越え(もちろん現在のトンネルはない)をして、四万十川を渡船で渡って、入野の浜にでる。この狂波怒涛に、残してきた恋人の思いを重ねる。この浜で野宿
8月3日  土佐佐賀を通過し、単調な歩行でお爺さんを困らせたり、熊井のトンネル(現土佐くろしお鉄道の土佐佐賀・、伊与木駅の間)の反響で遊んだり、…。岩本寺の手前(場所の記述なし)で野宿
8月4日  37番岩本寺を参拝。仁井田村平串(土讃線仁井田駅の近く?)の宿屋に宿泊。
8月5日〜  5日、七子峠を登り、下りは不動が滝(滝に不動尊を安置)ルートで、土佐久礼で宿泊。6日須崎から36番青龍寺まで船便を利用しようとしたが、時間が合わず須崎にて宿泊。ルートは記述なく、また36番青龍寺に参拝したとの記述もなく、高岡(土佐市)にて2泊。
8月10日〜   10日、35番清滝寺を参拝。11日なぜか福島(どこ?)から渡船で36番青龍寺を参拝。 夕刻34番種間寺を参拝。宿も満室で断られ、寺の通夜も断られるが、大師堂できちんと腰掛けて一睡もせずに夜明かしする。
8月12日〜  12日、33番雪渓寺を参拝。種崎の渡船で浦戸湾を渡る。13日、三里村(高知市内)吹井屋に宿泊。たった2kmしか歩いていない!! 14日、32番禅師峰寺31番竹林寺を参拝、市内の本屋で長居したりして、五台山村の大前屋宿泊。お爺さんに用事ができて、長逗留。
8月28日 高知を出立。逗留中にお爺さんだけで30番安楽寺(善楽寺のまちがいと思う)、29番国分寺を納経していたので、直接28番大日寺を参拝。赤岡を過ぎ、矢須(現在の夜須)の遍路宿に宿泊。(注)
8月29日 29日、風雨の中を出立するが、体調が悪く安芸の手前の町で宿泊。この日、親切なお爺さんとは撫養(鳴門)で別れ、一人旅することを決心する。
8月30日〜 30日、安芸川?の橋が落ちていて、2里上流の橋まで迂回する。27番神峰寺のふもとの坂元屋に宿泊。翌日27番神峰寺を参拝。宿がなく、金剛頂寺の手前の浜で野宿
9月1日〜 1日、26番金剛頂寺、25番津照寺を経て、砂浜を歩き、山によじ登り24番最御崎寺を参拝。山を下り有るか無きかの道を辿るが、お爺さんが疲れ果て、また野宿。雨に降られ仮小屋に避難するが、雨漏りひどく、涙も出ない。翌2日、尻水村(どこ?)にて宿泊。3日、宍喰の善根宿に宿泊。4日、四方原村(阿波海南駅近く)に宿泊。名にし負う阿波の八坂八浜を越え、牟岐の先に宿泊。6日、23番薬王寺参拝、近くの旅館に宿泊。7日新野町豊田(現阿南市、牟岐線新野駅あり)木元徳三宅に宿泊。
9月8日〜 高群が一人旅をすると漏らしたため、8日、お爺さんが怒って、高群を宿に残してどこかへいってしまう。11日、20番鶴林寺の手前までいったお爺さんが戻ってくる。
9月19日 22番平等寺参拝。さらにあえぎつつ登り21番大龍寺の奥の院に至る。那珂川の渡船(現在は橋がある)が川止めであろうと言われ同所て宿泊。
9月20日 翌20日21番大龍寺を参拝。さらに20番鶴林寺を参拝。山を降りて農家の納屋にて眠れぬ一夜を過ごす。
9月21日〜 21日、19番立江寺を参拝。
「朝から晩まで歩き続けに続けて18番恩山寺から1番へ一瀉千里、其間に有名な12番焼山寺の山道も極めて無事に抜けてしまった。」とだけ28日の記事に記して、その間の詳細な行程は記録されていない。
9月29日〜 29日、引田(高徳線引田駅88番まで27km)を朝早く出発し、夕方88番大窪寺参拝、寺を下りて宿泊。30日、4里半歩いて87番長尾寺を参拝。さらに歩くととがった八栗山、平坦な屋島を見る。
10月1日〜 1日、86番志度寺参詣の記述なし。85番八栗寺の山を登り、84番屋島寺を参拝。高松手前の木賃宿に宿泊。(83番から72番に関する記述なし)
10月6日〜 6日、71番弥谷寺を参拝。長居している間に、お爺さんを見失う。お爺さんは、高群が先に行ったものと思い、先を急いだ。その日、別々に宿を取るが、翌朝、無事再会。(70番から50番に関する記述なし)
10月14日〜 14日、今治を出発し3ケ所の札所を巡拝。菊間の町を抜けて、「あさましき家」に宿泊。翌日は道後の旅人宿ではお遍路さんお断りと宿泊を断られ、「また汚い宿」に宿泊。16日、51番石手寺、50番繁多寺、49番浄土寺、等6ケ所を参拝し、泥濘の三坂峠を越える。
10月17日〜 17日、45番岩屋寺を参拝、畑の川という宿駅(現在の民宿和佐路あたり)に宿泊。18日、44番大宝寺を参拝、本願成就。最初に野宿した滑稽な思い出がふと胸に浮ぶ。…行かう!行かう!行かねばならぬ。私の厳かな戦場に。
10月19日 19日、内子の近くの善根宿に宿泊。
10月20日〜 八幡浜に向かう途中、女の乞食遍路に出会い、金を無心され、残っていた10銭を喜捨。残金は1銭5厘となった。八幡浜の三津山という木賃宿に滞在。
10月24日〜 24日、11時ごろ御荘丸という汽船の三等室で八幡浜を出航。佐賀関に上陸し、宿泊。しばらく大分で休養する。
11月12日 12日には中井田の伊東老人宅に戻っている。
11月18日 この日、阿蘇を歩いている。
11月20日 熊本に帰着。


■注1「恐ろしき遍路の目」
ふと私のそばに恐ろしい眼の遍路がゐるのに気がついた。遍路は忌ま忌しさうに船員をおし退けてさつさと歩き乍ら時々振返って返つて私をジロリと見る。年は四十五六、髪の毛はよもぎのやうで赤ちぢれてあくまで日に焼けた顔は一杯の毛むくじゃらで有る。且何よかも目に立つのは其まなこだ。熱を有つた濁つた赤目の底にギロリとした、無気味さが光る。世界には何物もゐない只獣の自分許りだと云ひたげの顔で有る。着物と云つたら垢で真つ黒になり、裾はボロボロにちぎれてゐる。足は無論はだしで手には、流石に形ばかりの金剛杖をついてゐる。私は不思議に恐ろしいと云ふよりかも、奇異と、興味とを感じて、彼れがジツと見返ると此方もジツと見送つた。


■注2 30番安楽寺(善楽寺のまちがいと思う
 何の確認もせずに、上のように書いてしまったが、まちがいではなかった。現在の30番は善楽寺だが、当時は安楽寺であった。この件は、これから別途書いてみたい。





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