人生に生きる価値はない
中島義道:新潮社,2009年初刷,(1300円) 
(2015-11-5)作成

最近読んだ本の中で、妙に引っかかるので書いている。引っかかるというより、近年読んだなかで最も痛快な本であったと言える。たまたまブックオフの100円棚にこのタイトルを見つけた。全てを否定的に捉えるところに、自身と同質の性向を感じる。私個人としては、確かに自分の人生はさして価値がないと思う。ただそれは「どうせ死んでしまうから」ではないような気がしている。どうせ死んでしまうから、人生は生きる価値がないか。中島先生の文章はあまりに明快である。ただし、全体として、身辺雑記の体で記述されているので、「どうせ死んでしまう」ということと「人生は生きる価値がない」ことを繋ぐ納得できる論理ないし考察が明示されていないように思える。以下の文章あたりが、この考えに至った精神の変遷を表しているのだろうか?
 
…この十年ほど、他人の顰蹙をも省みず、そもそも人生は生きるに値しないこと、何をしてもどうせ死んでしまうこと、その限り不幸であること、それから眼を離して生きていることが最も不幸であるととなど、繰り返し書き散らしているうちに、奇妙に「明るい」気分が私の体内に育っていった。こういうことを語ることが厳しく禁じられていたころ、私は生きるのが辛かった。こんな「あたりまえ」のことを語つてはいけないという周囲の空気が、私を窒息させていた。しかし、いったん語り出してみると、人生は瞬時も生きるに値しないことはますます確かになるのに、--自他の流す血を吸って(?)--なぜか私は明るくなっていったのである。「自由になっていった」と言い換えてもいい。そんなとろ、私の中で「明るいニヒリズム」という言葉が煌き出した(ニヒリズムの第五形態)。「明るいニヒリズム」に最も近いところにカントがいる。…

■新しい本を読むことが少ないので、中島義道という名すら知らなかった。大森荘蔵門下の元電通大教授で、その研究室のドアには「
どうせ死んでしまう中島研」と掲げられたコミュニケーション講座を担当されておられたとのこと。このタイトルのような「生きる意味」や「生きる目的」を語る書籍の大半が、宗教や神に関するものであるなか、神を一切語らずに「人生に生きる価値はない」と言い切る本は他に例を見ない。
  似たような表現はG・H・ハーディの『ある数学者の弁明』のなかにもあったような気がする。数学者であるとはどういうことかを説明し、次のようにその弁明を試みた。
…「最高の数学もまたそのほとんどは「役に立たない」ということである。私は何一つ「有用」なことはしてこなかった。私の発見は、直接的にも間接的にも、また良きにつけ悪しきにつけ、この世を住み良いものにするためにはいささかの寄与もしなかったし、今後もするとは思えない。…あらゆる実際的な基準で判断すれば、私の数学者人生の価値はゼロである。そして数学以外には、いずれにせよ大したことはしていない。まったく無意味な人生だという裁定からのがれる唯一のチャンスは、私が創造に値する何ものかを創造したと判断されることだ。」

■本書を読んで大森荘蔵の「時間論」にも興味を持ったが、ウエブで以下の文章を見つけて、買うのを躊躇している。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/modphys/11/Ohmori.pdf 大森荘蔵の時間論のごく一部:田崎晴明,(2012)
むしろ、この中島の本の中で現れる哲学仲間の中で、ちらっと(バカにしたように)言及している風で、むしろ執着しているように感じられた「もう死んでしまった」池田晶子さんを読んでみようかと思ったりもする。今アマゾンを見たら絶版になっている「最後からひとりめの読者による埴谷雄高論」が売られているのを見つけた。ともかく、いろいろな人がいるものだと感じ入るし、何も読まずに死んでいくしかない訳である。

■さて以下は、本書を読んでの私の断片的感想である。
 死は生きることの一部である。生まれて死ぬということが「人生を生きる」ということである。「死」は生きることに含まれないと前提すると、そうすると「死ぬまでの間、人生を生きることは価値がないと」という主張になる。その主張の理由は「どうせ死んでしまうから」である。ということは、死んでしまうから、「死ぬまでのあいだ生きる価値はない」という主張となるのか。逆に「どうせ死んでしまわない」とすれば、死ぬまで生きる価値があるというのもおかしい。永久に死なないとしたら、それに何の価値があるか。むしろ、こちらの方が、無限の時間の中で、自らの行為や成し遂げた成果を見ることになり、これは無限大による割り算であって、答えはゼロだ。このことから「どうせ死なないので、生きる価値はない」という言明を真とすると、その反意として「どうせ死んでしまうから、生きる価値はある」ということになってしまった。


■自分にとって生きるということは、「他人の生を生きる」ことだと、先日、四国の遍路道を歩いているときに思い当たった。生きることは、自己の脳への記憶として顕在的、潜在的に蓄積されたものの全てである。そうすると、その脳内記憶の大半は自分のものではないということに気がつくはずである。何一つと言っていいほど、自分自身を源泉とするものはない。全て他人の中にいて、他人との受身の関係の中での経験に過ぎない。自分の生を生きることが「他人の生を生きる」ことだとして、「他人に関わりなく自分の生を生きる」より「価値はない」とも感じられない。むしろ、他人に関わりなく「自分の生を生きようとする」ことが、自分の人生を生きる価値がないものとしているとも考えられる。
 本書P.69にレヴィナスの言葉として「他人の死は第一の死」があった。

■「生まれてこなければ良かった」と言う人もいる。しかし本当にそうか。逆に「生まれてこなくて良かった」としよう。そう思う自分は存在しない。生まれてこないとすると、良いも悪いもないのだ。「生まれてこなければ良かった」という考えは、生まれてきて始めて持つことが出来るものであって、これに反意の概念はない。「人は生まれてくるしかない」ということ。人は生まれてくる以外の選択肢がないので、他の選択肢に対して、より価値があるとか、価値がないという判断はできない。よって、これをもって「人生は生きる価値がない」とする主張は成立することにはなる。

■中島先生の主張は「どうせ死んでしまう」からだが、この文章を書きながらどうしても、人は死ぬからこそ、その人生が価値があると感じられてならない。譲って私の人生に価値はないと認めることにやぶさかではない。しかし自信を持って、他人の人生に対して「おまえの人生は生きる価値がない」と論難する中島先生には同調できない。以下のような具体的な例を考えよう。、
 中島先生はiPS細胞を発見してノーベル賞を受賞した山中教授に面と向かって「あなたの人生は生きる価値がない」と発言するだろうか。先生のことだから、言うだろう。言ったあとどのような理由説明をするか聞いてみたい。それが「あなたの仕事は、多くの苦しむ人を救う可能性のある発見だが、そもそもそれらの人間の人生は生きる価値がないし、あなたもどうせ死んでしまう」とでも言うのだろうか。
 
■私自身は「自分自身の人生に生きる価値はなかった」と認められる。それによって恥じることも、落胆することもない。とは言え、自分の父母に対して、同じことは断じて言えない。子供を育て愛しんだ私の父母の人生は価値がないか。さらに自分の子供達に「お前達の人生には生きる価値がない」とも言えない。彼らには普通に幸せに生きて欲しいと考える。家族と絶縁した中島先生は、このような凡庸の次元での家族感はとっくに超越しているのだろう。はっきりと「善人がきらい、普通な人が嫌い」と書いている。
 さらに「
私は、勉強以外でみんな一緒にすることはことごとく耐えがたかった。だが、それを厭だとは言えなかった。…いじめの本当の理由は「みんな一緒主義」である。私は学校で勉強以外は全て皆と一緒ですることは嫌だった。…「人は一人で生きている訳ではない」という人には「なるべく一人で生きようとすることまで否定できない」と主張する。

■結局、この本を読むだけでは、「人生は生きる価値がない」理由は分からなかった。むしろ、この本では、全ての人や環境に対して喧嘩している本人の姿ばかりが浮かび上がる。 「私の言葉が無視されると、自分の全人格が否定されたほどの侮辱を感じる。」と書いている。冬の劇場で室温が27度もあると言って激昂する。街頭でスピーカーがうるさいと、担当にクレームし、「拡声器騒音を考える会」まで組織する。どうせ死んでしまうのに、喧嘩をする価値はないとは考えない。どうせ死んでしまうのに哲学することは価値がないとは考えない。どうせ死んでしまうのに、恨みを本に書き残し、実名を特定できるように人々を非難する。そのように本を次々に出版することを「生きがい」にしているようにさえ感じる。
 「哲学者にも、何もなれなかった」と書く彼に絶対の権力を与えたらどうするだろうか。「どうせ死んでしまうから、ヒトラーにでもなろうか。」哄笑が聞こえてきそうだ。ぞっとするほどの世間への悪意を感じる。それほどに絶望は深いのか。それが「明るいニヒリズム」なのか。
 以上読む限りでは、つい否定的な感想が出てくるが、妙に引き付けられる本だった。


【BOOK LIBLARY】