悼惜之碑
欧州戦没将兵墓地を訪ねて

中村伊作
1984年10月30日発行

中央公論事業出版製作

2300円
(2012-12-08)作成

■今年の夏、2週間の休みでサンティアゴ巡礼路をル・ピュイからフィジャックまで約260kmの道を徒歩巡礼した。毎日、日本人にとっては名もなき小さな村や町を通過する。そのどの村でも目についたのが、第一次世界大戦と第二次世界大戦での、その村や町からの出征した戦没者の慰霊碑である。下の写真はサント・フォア寺院のあるコンクを朝発って、比較的大きなDecazevilleの町から、少し山越えしてLivinhac-le-Hautの村の巡礼宿を目指す途中、峠の集落にそれはあった。碑には「AUX HEROS DE St ROCH MORTS POUR LA FRANCE」とある。1914〜1918年でのこの村(St Roch)からの戦没者名である。この碑を見るまでも、毎日同様の碑を見ていて、どれもが、新しい花がたくさん供えられ、戦争の記憶が歴史ではなく現在も人々の中に生きていていることを強く感じた。
 そして、また歩き出して考えた。ヨーロッパの本当の巡礼の道はサンティアゴではないのではないか? ヨーロッパが、これだけの経済格差や、それぞれの民族意識を強く持ちながら、ユーロ統合したのか? もう戦争は(ヨーロッパ内部では)してはならないという各国民の強い意識が、統合を成し遂げたのだろう。だとすると、ヨーロッパ巡礼は、戦跡と戦没者墓地を巡る旅の方が相応しい。そうだ、終着地は当然アウシュビッツになる。ロンドンを起点として、ドーバーからオマハ海岸、パリ、そして西部戦線、ベルリン、アウシュビッツとなるか。さらにそのままカウナスの日本領事館から、さらにシベリア鉄道でウラジオストックさらに敦賀、神戸と「杉原の道」を辿るか、これは大旅行になる。そんなことを漫然と考えながらトボトボ歩いた。


■帰国後、参考になる書籍はないかとヤフ・オクの古書をあさってみた。そうして、この「悼惜之碑」が手元に届いた。しばらく放置していたが、最近やっと読ませていただいた。このような書籍が埋もれていたのか?
 著者の中村伊作氏は巻末の略歴によれば、1918年会津若松に生まれ1941年東京工業大学機械工学科卒業、1952年東北大学文学部哲学科卒業後、1966年より日本大学工学部に勤務とある。WEBでは、それ以外の情報は得られないが、戦中に工学部を卒業し、戦後哲学科に入り直している経緯は、想像したくなるところ。国会図書館サーチでは大学紀要に「ヨブとラスコーリニコフ−−罪と恩寵」などが読めることが分かった。

■同氏がヨーロッパの戦没者墓地を参る描写は、まさに悼惜の情に溢れるもので、戦後に生まれ苦労なく生きてきた者であっても心打つ。
大きな戦争だったのだから、巨大な戦没者墓地が各地にあることは不思議ではないような気がする。しかし、個々の戦没者を戦場に葬り、それを永く維持するという形態は、第一次大戦以前にはなかったことが本書から分かる。それがF・A・ウェア卿の存在である。
 同氏は英連邦戦没将兵墓地の父と呼ばれる。ファビアン・A・ウェア卿は1869年に生まれ教職に進み、「モーニング・ポスト」の編集長も務めた。第一次大戦が勃発したときには45歳となっており、軍務にはつけず、志願して赤十字社での支援活動に従事する。西部戦線で戦傷者の収容介護にあたるなか、収容不能の遺体を戦闘の続く戦場に(仮)埋葬するという危険な作業も行った。そして、これらの埋葬の記録が公的に行われていないことに気がつき、戦死者の氏名と埋葬場所に関する情報収集に力を注ぐようになる。この活動の高い道徳的意義は少しずつ社会に認められ英連邦戦没将兵墓地委員会として組織化された。しかしながらウェア卿の墓地設営の基本原則は当初、遺族感情を無視するものであると囂々たる非難を浴びた。
     1)戦没将兵の遺体は戦争が終わった後も、本国には送還しないこと。
     2)国籍、身分、階級、位階の別を設けずすべてを平等に扱うこと。
     3)遺体が発見されない将兵の氏名は、記念碑のパネルに刻むこと。
 ウェア卿は、特に1)の画期的な原則を南北戦争後、1864年のゲティスバーグ戦没将兵墓地奉献でのリンカーンの言葉から触発された。「祖国のため己の命を捧げた人々の最後の休息の場として、この戦場の一画を献げんために集まったのであるが、この土地を聖別できるのは、ここで戦った人々なのであって、それ以外の人はそれに何をつけ加えることも減ずることもできない。」
 さらに1871年、普仏戦争集結時に締結されたフランクフルト協定によって、フランスとドイツ両政府はそれぞれ自国領内に葬られた相手国将兵の墓地を鄭重に管理することを責任を以て約束し、この戦没将兵墓地管理に関する条約は、第一、第二次大戦を通して、ソ連を除くヨーロッパ自由諸国の全土で立派に守られた。交戦中の敵軍の兵士の遺体を鄭重に扱い、懇ろに葬るということは19世紀以前の世界史の中で先例をみることができないとある。

■近代の戦地での戦没者墓地の理念と形式は、ウェア卿によって定められ、ヨーロッパ各国が、敗戦国のドイツを含めて、踏襲することになるというのが著者の考えである。ただし以上は陸軍の墓地に対する考え方であって、空軍、海軍は少し違った考え方を持つ。陸上の戦闘と異なり、空戦や海戦での死者は機体や艦船もろとも失われ、その遺体の回収がほとんど不可能だったこと、さらに海上の戦没地点に何らかの記念碑さえ建てることはできなかったからである。ちなみに米国は諸外国で戦没した将兵の遺体は、遺族の希望があれば、アメリカ本土に送還することに定めていた。両大戦の戦没将兵の61%までが近親者の希望でその遺体は本国に送られた。
 自らの大地で戦ったヨーロッパ市民と、まったくの他国で戦った米国に違いであろうが、それでも最大の激戦地ノルマンディ、オマハ海岸を見下ろす断崖の上、そこに9835基の大理石十字架が並んでいる。

■本書には旧日本軍の戦没者墓地に関する記述、筆者の戦争体験に関する記述は一切ない。この空白感に感ずるところが大きい。唯一の日本における墓地の記述は「横浜保土ヶ谷の英連邦戦没将兵墓地」だけである。


【BOOK LIBLARY】