間宮精一とキャッシュレジスター                     2001-5-5 


■カメラ好きが昂じてカメラを作ってしまったのがマミヤ光機を設立した間宮精一と言われる。1931年(昭和6年)には、野崎昌人、畑宗一らと「ライカ倶楽部」を設立している。1938年にはアルス社から「ライカの使い方」を出版している。いかにも初期のライカ礼賛旦那衆という感じもするが、「東芝TEC」の社史には、間宮精一の別な側面が記録されている。

■伊豆大仁の実業家である間宮勝三郎は1916年に間宮式金庫を開発し、製造を始める。その長男の間宮精一は機械技師として間宮式加減算機を発明し、これをベースに1926年に日本で初めてキャッシュレジスターを独自開発する。しかしレジスタの事業化には相当の事業資金が必要で,間宮の独力では難しかった。そこで間宮は、実業家で戦後に正解に転じ外務大臣などを歴任した藤山愛一郎に資金の提供を仰ぐことにした。…1928年、レジスター専門メーカの日本金銭登録機株式会社が設立され、藤山愛一郎が社長に就任した。間宮堂はこの会社に買収され、間宮精一は技師長に就任した。同社は世界で2番目のレジスターメーカとなった。
 しかしこの会社はやがて1935年にアメリカNCRの日本法人となり、東洋における同社の製造拠点に衣替えした。この時、開発者の間宮精一は、レジスターの国産化をめざした創業の精神とは相容れないとして、この事業から手を引き、後にカメラのマミヤ光機を創業することになる。

■そして、1940年、ベストセラーになったマミヤシックスTを開発する。今でこそ、バックフォーカシング(レンズは固定してフィルム面を移動してピント合わせをする)方式はコンタックスの独壇場とされているが、このマミヤシックスは最初から、バックフォーカシング方式を採用していた。このようにマミヤ光機の製品は、後の世界で唯一のレンズ交換しき二眼レフとなるマミヤフレックスなどを含め、その機構は大変オリジナリティに溢れたものである。それはカラクリ設計者である間宮精一の、海外の物まね製品の製造を嫌って、レジスター事業から手を引いたという発明家としての自負によるものであったと推察される。多くのカメラメーカが、ドイツカメラの徹底した模倣からスタートしたことから比較すると、独自性を重んじるマミヤの行き方は大変ユニークであり、こ の精神は現在も生き続けているに感じられる。




【カメラの触感】