フォトグラフィーと「写真」の語源が分からない                                 2007−2−17



<重要追補>(2007-5-7)
 以下には、「写真」の語源を中国の杜甫に求めた他サイト情報の引用を行っている。これに対して、漢和辞典の編纂者より、それは誤りであるとの指摘をいただいた。「漢辞海」(第二版)(2006)の「写真」の項には、写真という語彙の出典として「文心雕竜」ブンシンチョウリュウを上げている。同じく「漢辞海」によれば同書は南朝梁(西暦500年前後)の文体と修辞を論じた文学理論書とある。 杜甫は唐代の人で、(712-770)であるので、杜甫の約200年以上前に、既に写真という語彙は出現していることになる。
 貴重なご指摘をいただいたことに、御礼すると同時に、インターネット情報を引用する場合には、複数情報での確認の必要性を痛感した。今後の記述への反省点です。



ジョン・ハーシェル卿
■昨年12月に次のようなメールをいただいた。
…1942年生まれの写真を趣味にするオヤジです。大学時代の写真部OBが集まって毎月京都で飲んでおります。その席上、「Photography」は直訳すれば「光画」ですが、「写真」をあてたのは誰で、いつ頃なのかが話題になりましたが誰も知っている者はいませんでした。貴サイトの「人とカメラと写真の歴史 年表1」にも答はありませんでした。何かご存知でしたらご教示いただければ幸いです。なお、我々OB会のHPのURLをご参考まで下記しておきます。
http://kupstobc.web.infoseek.co.jp/

■とりあえず、以下のお返事を出したまま放置してしまった。
…生来の知ったかぶりの悪しき血が騒ぎました。たしかphotographyはハーシェル卿が名付けたという記憶がありますが、出典がまだ見つかりません。そういえば「写真」の名付け親も分かりません。よいテーマをいただきました。ちゃんと調べていずれ、書かせていただきます。 

■まず「photography」ハーシェル卿名付け説は、若干不正確であった。ハーシェルは親子の天文学者で、父ウィリアム・ハーシェル(1738--1822)と、息子ジョン・ハーシェル(1792--1871)ともに「サー」の称号を得ている。「photography」を名付けたのは息子の方のジョンである。父ウィリアムは望遠鏡天文学で大きな成果を挙げ天王星を発見したり、赤外線を発見したりしているが、父の跡を継いだ息子は写真にも関心を持ち、チオ硫酸ソーダが銀塩を溶解する性質があることを発見した。これを次亜硫酸ソーダ(ハイポサルファイト・ソーダ)と読み誤られ、我々は定着剤を「ハイポ」と呼ぶようになってしまった。
 1835年にタルボットは自分の写真技法を「Photogenic drawing」とよんだが、1839年になってハーシェルは自分のハイポ定着を公表するときに、タルボットへの手紙に、タルボットが言うフォトジェニックより「Photographed」とすべきだと書いた。これが英語の写真の語源である。以上、主として世界写真全集(別巻)歴史的展望:伊奈信男,平凡社(1000円),昭和34年初版を参照した。

■さて「写真」である。この語源に疑問を持たなかったのは失態であった。日本への写真の移入は驚くほど早い。1839年のダゲレオタイプの公表後、その翌年にはオランダ船が長崎にダゲレオタイプを持込んだという説がある。その翌年1841年には長崎の上野俊之丞常足が島津斉興公にダゲレオタイプを献上したとされる。
1854年には川本幸民(1809--1870)が「遠西奇器述」という訳書を発行し、ダゲレオタイプに「直写映鏡」という訳を与えた。1862年には上野彦馬は写真化学の訳書「舎密局必携」を発行。1867年、柳川春三は「写真鏡図説」を出版した。
 かなり早い段階から「写真」という言葉は使われた模様であるが、分からない。
 これ以上の情報がない。いずれ国会図書館に行ったときでも調べようという段階ゆえ、京都のKさんにお返事もできず、失礼してしまっていた。

■その京都のKさんから、年明けに写真展のご案内をいただいた。
      「写真を楽しむ」東大・京大連合写真展
        2007年2月2日(金)〜8日(木) 富士フォトサロン(東京・銀座)
         主催:東京大学写真文化会OB会・ 京都大学写真部OB会
 それぞれ創部60周年、70周年を記念しての展覧会であるらしい。出張で新幹線に乗るまでの僅かな時間をとって、有楽町の富士フォトサロンに行ってみた。若い頃、銀座に行ったら、まず中古カメラ屋を覗き、富士フォトサロンで写真を見て、さらに新橋側の輸入レコード屋ハンターに行って、LPをあさるのがお決まりだった。久々の富士フォトサロンは健在で、メイン会場ではアマチュアの公募展、サブ会場で「東大・京大連合写真展」が開かれていた。それぞれの関心のまま、思い思いの写真が展示されていて、まさに「写真を楽しむ」である。隣の公募展は、シャッターチャンスを狙った典型的なコンテスト写真であるのに対して、効果を狙わない自然な目線に共感を感じる。私のように、写真からカメラに関心が移ってしまわずに、いつまでも写真を楽しまれる姿勢には尊敬せざるを得ない。

■なにか、昔の写真部の頃のことが思い出される。私の大学写真部時代には、東大・京大とともに「三大学写真展」を開催していて、例年9月頃開催のために、夏休みに撮影合宿をするのが最大のイベントであると同時に、その結果を20枚程度の組写真にまとめるのが大変な仕事であった。東北地方の伝統行事などを題材にしたテーマが選ばれる。1年生のときは、鳴子の伝統こけし職人を撮ったが、「伝統」と名付けられた作品には自分の写真は使ってもらえなかった。部室にはその前年の中尊寺やもっと前の恐山の写真が残っていて、なかなかの力作と感じた。製作は3年生が中心になってやるので、いずれは、自分達の番になるかと思っていたら、2年生になったとき、なぜか元々人数の少なかった3年生がみな退部してしまって、2年生である自分達で「組写真」をつくらなければならなくなった。「水と乾き」をテーマにしようということで、水に囲まれていながら、水に不自由する環境ということで、牡鹿半島の田代島に合宿して、島民を撮影した。それをできるだけ大きく焼こうというので、暗室にベニヤ1畳の簡易バットを作り、全紙ロールに横投影引伸し機で、ぎりぎりの大焼きをする。ピントを見るのがむずかしいし、平面が出ないので、うんと絞るから露光時間も分単位になる。結局引伸し機の固定剛性不足が影響して、シャープな写真はつくれなかった。それでもちいさいサイズでは迫力がないものがも全倍以上にすると、それなりに写真らしくなる。何を言いたいか分からないというか、まあ評判は良くなかった。次の年は、丁度明治100年ということで、明治維新ものをやろうということで、会津若松で合宿して、白虎隊と、現代の自分達の自画像と対照して並べて、タイトルは「100NEN」とした。これらの小さいながらも、企画からモノづくりして、公開するという一連の仕事は、会社に入って商品開発プロジェクトをやるときのノウハウとして蓄積されたような気がする。

■「写真」の語源調べが、かつての「写真部」時代の思い出に浸ってしまった。東大、京大は写真部創部60〜70年ということで、我らの写真部が何年目か調べてみた。手元に東北大学学友会写真部OB有志が編集された「LUMIERE−−和田正信と東北大写真部−−」(1992年)があるので参照する。光電変換や液晶の基礎開発で多くの業績を残した工学部の和田先生が、まだ若い助教授時代に、学生の呼びかけに飛び込んだときはまだ同好会だった。昭和25年(1950年)学友会写真部に発展し、同時に和田先生が部長に就任したとある。私たちが部員の時代には、大先生になっておられ、それでもコンパ等には出席いただいた。そういえば、ちょっとの間、クラシック音楽研究会?に入っていた時期があって、そのときの顧問は西沢潤一先生で、先生のお宅に一度だけ伺って、音楽を聞かせていただいた。ともかくわが写真部も本年で創部57年ということになる。ということは後3年で創部60年ということになるのか…。

■さて、タイトルの話題がすっかりズレてしまった。インターネットで何か分からないかと調べてみた。著者不明だが、以下の非常に詳細な情報を見つけた。参照させていただく。
「写真」とは「真を写す」?
http://www.nplan-jp.com/d1/column/02.html
 同サイトは平賀源内がカメラオブスキュラのことを写真鏡としたという説を提示している。
…杜甫(712−770)。李白と並んで中国では詩聖と称えられ、「国破れて山河在り・・・」などで日本人にも馴染みが深い。数多い詩の中に、「丹青引」(絵画のうた)という40行に及ぶ詩があり、この中に「写真」が出て来る。あらましは次の通り。
左武衛将軍曹覇(そうは)は、三国志に登場する曹操の曾孫で、文学を好みことに絵画に才能を発揮した。唐の時代、度々宮中に呼ばれ、建国の功臣たちの肖像画が歳月と共に色あせてきたのでその修復を命じられた。曹覇がひとたび筆を下ろすと、たちまち生き生きとした相貌をあらわした。勇将たちは毛髪も動き出すかと思われ、その颯爽とした英姿は、たった今、戦場から出てきたかのように思われた。また名馬を描いては真の名馬が再現され、古来描かれてきた平凡な馬を完全に一洗した。それはその絵に魂がこもっているからだ。また立派な人物に出逢ったら、きっとその真の姿を写しだすだろう。(落詩選杜甫、目加田誠訳)“必逢佳士亦写真”これが文献に出て来た最初の「写真」で、今から1250年前なのだ。
現在はカタカナ語が氾濫しているが、ちょっと前迄は漢籍(中国の書籍。中国人が漢文で書いた書物)に通じているのが知識人とされていた。平賀源内らは、おそらく杜甫の詩から「写真」という言葉を選び、
カメラオブスキュラを「写真鏡」と名付け、その流れで75年後に輸入されたダゲレオタイプが、銀メッキした板を使うことから銀板写真、さらに写真機、写真という言葉が訳語として定着したと思われる。
…とある。まず以下のPDFを発見。杜甫が「写真」を生き写しという意味で初めて使ったことが、確認できる。
<PDF>現代若者の「写真」認識:兒島慶治(香港中文大学日本研究学科)
http://www.cuhk.edu.hk/jas/staffpro/kojima/11-modern-youth.pdf

■国内に注目すると葛飾北斎(1760〜1849)の作品に「詩哥写真鏡」というものがあるが、源内は1728年生まれで1779年?死去ゆえ、写真という言葉の使用は源内の方が早い。またJPC(日本写真文化協会)サイトのQ&Aに日本で最初にカメラを作ったのは誰ですかという質問があり、「……それは平賀源内で1782年のことと言われています。ただし今のカメラとは大分違うもので「カメラオブスキュラ」という形式のカメラの先祖にあたる機械です。…」としている。ただし、1782年では、源内は既に死んでいるはず。
 以上、間接的引き写し情報であった。


前掲サイトの情報によれば、平賀源内が日本の「写真」名付け親(出典不明)
写真は86番志度寺の手前で見つけた源内の銅像




【カメラの触感】